江戸中期を描く大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)。小芝風花さんが演じる吉原の花魁「瀬川」は実在の人物で、盲人の高利貸し・鳥山検校に身請けされた。作家の濱田浩一郎さんは「徳川幕府は盲人保護のため彼らに金貸業を許可し、鳥山検校は巨万の富を築いた。しかし、彼らの借金の取り立て方は乱暴で、それが問題となる」という――。
吉原の花魁で、芸能人のように有名だった「5代目瀬川」
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で主人公・蔦屋重三郎(演・横浜流星。江戸時代中期の出版業者)のピンチを助けるのが、小芝風花さん演じる遊女で、重三郎の幼馴染・花の井です。江戸の老舗地本問屋・鱗形屋うろこがたや(孫兵衛)が偽板にせはん(海賊版)の罪で捕まったのを好機として、重三郎は、それまでの倍売れる「吉原細見」(吉原遊郭の総合情報誌)を作ることに執念を燃やします。
売れる「吉原細見」を作ることにより、地本問屋の仲間に加えて貰おうと重三郎は考えたのです。しかしそれを不快に思ったのが、西村屋という地本問屋や浅草の本屋・小泉忠五郎でした。彼らは別の「吉原細見」を作り重三郎の参入を阻止せんとします。
重三郎の危機に助け船を出したのが前述のように花の井です。花の井は名跡襲名の際には吉原細見がよく売れるということで「花の井改め瀬川」と改名し、重三郎の細見売り上げに貢献しようとします。「男前だな、お前」と礼を言う重三郎に「前にも言ったと思うけど、吉原をなんとかしたいと思ってるのは、あんただけじゃない。だから礼にゃ及ばねえ。けど、任せたぜ、蔦の重三」と返す瀬川。このカッコいいセリフに痺れた視聴者も多いはずです。
蔦屋重三郎との関係は創作だが、鳥山検校は実在の人物
重三郎と瀬川の関係は創作ですが、瀬川は江戸時代に実在した遊女です。襲名という言葉が先程出たように、享保(1716~36)から天明期(1781~89)まで瀬川は9人おりました。大河「べらぼう」に登場している瀬川は、5代目です。この5代目・瀬川はあることで有名になったのですが、それは何かというと鳥山検校とりやまけんぎょうという盲目の大富豪に身請けされたことです。「べらぼう」では市原隼人さんが鳥山検校を演じます。
さて身請けとは、遊女屋の客が気に入った遊女をその年季中に身代金などを払って落籍させること。自らの意思で遊女になる女性もいましたが、そうではなく親に遊郭に売られて遊女にならざるを得なかった女性も多くいました。生活困窮のため、親が自分の娘を遊女屋に売り、娘の身を金に代えた(身代金)のです。
金持ちに身請けされるのが遊女の幸せ、瀬川の値段は?
当時、人を雇う時に約束した年限(年季)は1年を1季とし、10年が限度(十年年季)とされていましたが、年季が明けて、苦界(遊郭)から抜け出ることができた遊女は多くはありませんでした。借金が多く、その借金を返すために年季が明けても、身を売り続けなければならなかったからです。「苦海十年流れて 二十七明けての夢 嗚呼これ蜃気楼」との一詩(太田蜀山人『千紅萬紫』より)がありますが、十年年季が明けても「苦海」から抜け出ることができない遊女の無念が心に迫ってきます。そうしたことを思うと、高級遊女となり、大金持ちに身請けされた遊女は幸せだったかもしれません。鳥山検校に身請けされた高級遊女・瀬川もその1人だったと言えるでしょう。
鳥山検校に身請けされた瀬川ですが、人々の耳目を驚かせたのは、彼が支払った金額でした。身請け金はなんと1500両。米の値段で換算した場合、1両は今の貨幣価値で6万3000円ほど。1500両は9450万円になりますから、すごいものです。
安永7年に刊行された洒落本『契情買虎之巻』(田螺金魚・作)は、そんな鳥山検校の瀬川落籍事件に取材したものでした。
盲人の鳥山検校はなぜこれほどの大金を持っていたのか?
では鳥山検校はなぜこれほどの富を築き、瀬川を身請けすることができたのでしょうか。江戸時代には「当道座とうどうざ」と呼ばれる男性盲人の自治的職能互助組織がありました。そしてその当道座のトップが検校でした。その次の位が別当。次が勾当。最下位が座頭ざとうです。四階に分かれていた訳ですが、それで終わりではなく、四階は更に「十六官・七十三刻」に細分化されていたのでした。
そうした位は金で買うことになります。73回位を買っていくと最高位の検校になることができました。つまり、検校になるには多くの金が必要だったのです。江戸時代後期の随筆に『世事見聞録』(作者不詳)がありますが、そこには検校になるには「千両」の金が必要だったとあります。同書には「今の世は金次第」となったので、金さえ積めば一夜にして検校にもなったと書かれています。
徳川幕府は盲人の保護政策として、特別に金貸業を許可
同書は「当世の盲人ども、強欲非道を尽し、数万の人を貪り、勾当・検校の極官に昇り」と検校らの「強欲非道」を非難しています。それにしても検校らの「強欲非道」「数万の人を貪り」とはどのようなことなのでしょうか。
徳川幕府は盲人の保護政策として、盲人に金貸業を許可していました。人の貸金のことを「官金」または「盲金」といいましたが、世の人はそれを「ひど金」(酷い金)とも呼び嫌っていたのでした。利子が高利貸し並みで、しかもその取り立てが厳しいものだったからです。盲人側が借りた人を訴えた場合、町奉行は優先的にその訴訟を取り上げ、裁決は盲人側が必ず勝ったとも言われています。
盲人たちの借金取り立てはひどすぎると、当時の社会問題に
そうした状況ではありましたが、「貧につまされて座頭の子を孕はらみ」(借りた座頭金を返すことができないので、女性が肉体で相殺したところが、その座頭の子供ができてしまった)という川柳もあるように、生活の苦しさから金を借りざるを得ない人もおりました。盲人から金を借りることが恐怖されたのは、高利ということだけでなく、前述したように返済に遅れたり返済できない場合、取り立てが厳しかったからです。盲人の貸金相手は武家(大名・旗本・御家人)や商人、興行人など広範囲に及んでいましたが、取り立ては武士であっても容赦はありませんでした。
高利でなかなか金を返せない武士の中には取り立てに来た者を槍で追い返したり、踏み倒す者もおり「金借りて高利座頭(氷砂糖)をかみ砕く、さっても強いお旗本かな」という落首も生まれたほどですが、そうした状況に盲人側は新たな対策を考え出します。それが「強催促」「居催促」と呼ばれるものでした。座頭らは大勢で「武家方」の玄関に押し寄せ、「高声」(大声)で、金を返さない者の「雑言」(あれやこれやの悪口)を言い放ったのです。それは昼だけでなく、夜も行われたといいますから、たまったものではありません。
瀬川を身請けした鳥山検校は追放、瀬川はどうなったか
『染直大名縞』という黄表紙(草双紙の一種。黄色の表紙の絵本小説)には座頭が旗本を取り立てる様子が描かれています。そこでは「さあ、利足を付けて返せ、返せ」「ここな大泥棒奴、早く返せ、返せ」と大勢の盲人が武士を罵っているのです。武士には名誉心がありますから、盲人らは武士のプライドを傷つけ、恥辱を与えて返金させようとしたのでしょう。
徳川幕府は盲人らが借金を催促するのは「勝手次第」(思い通りに振る舞って良い)としつつも、そうした「強催促」「居催促」は度を越しているとして取り締まろうとしました。明和年間にそうした布達があったのですが、それでも法外な行為が止むことはありませんでした。
安永7年(1778)の町触にも「盲人」「浪人」が高利金を貸出し、不法な取り立てをしていることが見えます。そして同年7月、旗本の森忠右衛門夫妻、その息子の虎太郎が出奔する事件が起こります。座頭の高利貸の借金に悩まされて脱走したとされます。この事件により、鳥山検校は検挙されることになりました。不届な貸金をしたというのがその理由です。幕府の堪忍袋がついに切れたということでしょうが、鳥山検校や勾当など10人の家財は没収、追放処分となりました。
検校処罰の後、瀬川は深川六間堀辺の武家・飯沼某の妻となり、子を2人産んだと言われています。
(主要参考・引用文献一覧)
・三田村鳶魚『史実より観た歌舞伎芝居』(崇文堂、1923)
・三田村鳶魚『史実と芝居と 江戸の人物』(青蛙房、1956)
・『田村栄太郎著作集 第3』(雄山閣、1960)
・八剣浩太郎『銭の歴史』(大陸書房、1978)
濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。