「小説のなかで太々しく生きてもらうのは誰なのか」を問う
──今回、芥川賞を受賞した『DTOPIA』は、現実世界の出来事とフィクションが織り交ぜられ、読み手がその狭間に迷い込むような作品でした。パレスチナで起きている虐殺や2024年アカデミー賞など、実際の事象を小説内に盛り込むバランスはどのように意識していますか。
今までの小説もそうなんですけど、バランスに関しては気にせず、割と地続きで作っていくことが多いですね。物語のなかで起こる事件は、現実に起きたことか、あるいはそれの組み合わせで、「こういう人や制度があるなら、こういう事故も起きるんじゃないか」と考えることが多いです。人物から物語を考えることもあるし、制度やシステムから考えることもあります。(登場人物には)困っている人や、今は困っていないと思っているけれど今後困ることになるかもしれない人を想定しています。
──安堂さんの著書は、一貫して不可視化されている存在を可視化していると感じます。そうした小説を書くのは、小説家または一個人として何かを作り出す責任を感じているからでしょうか。
初めの頃はアマチュアで小説を書いていたので、特に責任を感じたりすることはありませんでした。「存在しないとされている自分を叩きつけたい」という気持ちがきっかけで書き始めたんです。もうすでにあること、ある場所、存在する人を当たり前に小説のなかに入れていくことが、そういえば当たり前にモチベーションでしたね。
そのなかで1作目から3作目にかけて、対象が自分に近しい存在や場所から、自分とは異なるアイデンティティを持つ人や、直接的には関わっていない出来事へと広がっていった感覚です。「これは実際にあることだから入れていきたい」と。
──本作の語り手「モモ」はノンバイナリーのキャラクターです。私自身ノンバイナリーを自認していた期間が長かったこともあり、解像度の高い状態で物語に没頭できた初めての体験でした。
やっぱり“自分”が出てくる話って桁違いに楽しいですよね。栄養になるし、自分はその感覚がすごく好き。だから友人たちにもその感覚を味わってほしいんです。前二作のような物語は自分の軸だと思うけれど、いま登場するべき人は誰なのか、小説のなかで太々しく生きてもらうのは誰なのか、その範囲を伸ばしていきたいと思っています。
登場人物を決めるときに、友人の影響はすごく大きいです。なので、(著書を)友人に読んでもらうときが一番緊張します(笑)。よろこんでもらえたらうれしいけれど、「いつものホセと違う」と思われてしまったら、それほど悲しいことはない。せっかくだったら、普段友人として会うとき以上に濃い何かを楽しんでもらえるよう、意識しているかもしれないです。
──小説に登場させる人物の範囲を広げるうえで、意識したことはありますか。
『ジャクソンひとり』と『迷彩色の男』では、こういう人もいて、こういう視点を持っていて、こういう苦しさがあって……、ということを書いていた一方、『DTOPIA』では、ノンバイナリーを自認する人に自分がなりきって、その壮絶さを書いて届けるということはしたくありませんでした。それよりも、どうやって世界を順序づけていくのか、どんな時間の概念を持っているのか、を通して“強さ”を提示していきたかったんです。
モモには、世界の出来事に対しても椅子に座ったまま眺めているようなイメージがあって、実態を克明に書くよりは、今ある世界そのもののインターセクショナルな状態を観察する。観察者としてのマイノリティを描きたいなと思っていました。
マイノリティについて書くべきことっていっぱいあるけれど、それは当事者が書いた方が絶対にいいし、少なからず日本文学もしくは海外文学にも存在します。これからもどんどん出てくるとすると、自分がそれを描くよりも、フィクションだからこそできる脳の動きやその存在感を浮き彫りにしたかったです。
──モモの一人称がページ内で変化し、複数登場するシーンがあります。それによってキャラクターが微妙に変わっていく箇所は、ノンバイナリー当事者の世界との関わり方が表現されていて、共感した部分でもありました。
うれしいです。一人称を「モモ」とすることで、自分自身をキャラクターとして世界に置き直しているようなところはきっとありますよね。
当事者性だけでなく、理解できないような相手の気持ちも動員する
──安堂さんの小説には「暴力」や「力」といったキーワードが繰り返し登場します。
暴力の描写についても、ほかのシーンと同様「存在しているもの」として書きたいと考えています。自分の手が届かないような、遠いところで起きている暴力に対して考えて知ろうとする気持ちが、特に『DTOPIA』では重要なエンジンになっていました。
──『ジャクソンひとり』では、他者からの暴力に声をあげ続けるジャクソンが、「ジャクソンがまたクレームを出した」と厄介がられる描写があります。こうした、無意識の差別や暴力を描く上で意識していることはありますか。
Black Lives Matterについて話すとき、「そもそも黒人がいなければ問題自体がなくなる」と考えてしまう人がいます。存在しないことにしてしまうわけです。小説のなかでは、そういう気持ちを持つ人たちのこともあえて消さず、手加減せず描きたい。一方で、ものすごく愚かな“敵”のように書くと、マイノリティ当事者が読んでいても没入できないと思うんです。だって、現実はもっと悪質で、厄介じゃないですか。そんな簡単な“敵”の作り方では現実味に欠けると思い、理解できないような相手の気持ちも動員して書きたいと思っていました。
本書にさまざまな立場の人がアクセスできるようにしていくためにも、自分が愛着を持つマイノリティと同様に、愛着のない人についても書いていくことを意識しています。
──安堂さんの作品では、自身が持たないマイノリティ性についての話が出たとき、自分の特権性や加害性と向き合わざるを得ない体験をします。ただそのとき、叱られているのとは異なり自主的に向き合うプロセスを踏んでいるようです。小説のなかに加害性と被害性を盛り込むバランスをどのように意識していますか。
バランスはあまり考えていないかもしれないです。逆に、(著書内で)まったく描けていない加害性や被害性が絶対にありますよね。私が小説を書くうえで一番大事にしているのは、核となるキャラクターが太々しく存在できることなんです。小説のなかでくらいは、開き直って自分の人生を思いっきり生きてほしいと思って書いています。その影響か登場人物ひとりひとりが、思い思いに生きています。
みんな汚くもあり美しくもあり、完璧な弱者や強者など存在しないので、それも含めて人間の質感で触れられる“賑やかさ”みたいなものがあったらいいなと考えています。
──本作を執筆するにあたって、インスピレーションになった作品はありますか。
2011年に公開された『X-men:ファーストジェネレーション』という映画のエンドロールです。本書にも登場するアッシュ・ソープというグラフィックアーティストが作っています。当時、高校生だった頃にその映像を観て、すごく自由さを感じたんですよね。図形が踊っているような世界で、まるで自分の身体から外に出ているような気持ちになりました。そういう読み心地を作ってみたいという思いが昔からあったので、今回挑戦してみました。
──安堂さんは「自由」というものを、どのように定義していますか。
作家の柳美里さんとお会いした際、「閉所恐怖症というのは、突き詰めると自分が自分の身体から出られないという状態に対して恐怖を感じるようになってしまう。安堂さんの作品はそういうことを書いているんじゃないの?」という言葉をもらって、たしかに「自由」に対して持つイメージってそれかもとしっくりきました。
身体的な制約から溶け出していくことをリアリズム小説のなかでどう描いていくのかを意識しています。小説を書くことは自分が理想とする世界を描いていくことでもありますし、そういったテーマについて今後も書いていくんだと思います。
小説に散りばめる自分を肯定するための言葉
──安堂さんの著書は、「これまでにない」「新しい視点」と語られることが多いように見受けられます。それを受けての考え、もしくは実際に文学界の移り変わりを実感されていますか。
今って「人の種類としての新しさ」が注目される時代なんです。なので、そのあたりは周到に動く方法をよく考えて、楽しみながらやっています。
他方で、自分のような人や視点は昔から存在しています。なので、ブームとして書いていることは全くないです。きっと時間が経つにつれて、ベーシックな小説としての性格が残っていくんじゃないかなと思います。別に新しくもないですし、ほかと変わらず現実にいる人を描いた小説です。
──複合的なマイノリティ性を持った人が大きな賞で評価されたり、賞賛されるということが、これまで圧倒的に少なかったからこそ、それを目撃していく必要があると個人的にも感じています。安堂さんの芥川賞受賞は、当事者コミュニティにとっても、文学界においても大きな意味があると思いますが、改めて今回の受賞をどう捉えていますか。
受賞する前は選考委員との闘いで、とにかく「この作品を受け入れろ!」みたいな気持ちでした(笑)。この小説を選考委員が認めるのか認めないのか、すべての気持ちをそこに注いでいました。いざ受賞してみてわかったのは、「これは自分の大事な人たちにとってのグッドニュースだったんだな」ということです。みんなからのうれしいという気持ちを受け取れて、それに対してよろこんでいましたね。
自分の人生にうれしいことがあっても、そんなに勢いよくよろこべないんです。やっぱり人がよろこんでいる姿を見ている方がうれしいんですよね。泣いたり笑ったりするのって、大体人のことじゃないですか。リアリティショーも同じ仕組みで、他人の言動に一喜一憂できるのであれば、自分自身を追いかけていても楽しいはずだけどそうはいかない。なぜかまったく関係ない人を見ているときの方が盛り上がる。それってきっと人の摂理ですよね。
──周囲の人がよろこんでいる姿が、安堂さんの幸せに繋がっているというのは、小説を書くモチベーションと通づる部分ですね。過去のインタビューでは、「作品が評価されても、差別されている当事者に届かなければ意味がない」と話されていましたが、安堂さんの著書がどのような形で当事者コミュニティに届き、還元されていくことを望んでいますか。
(著書を通じて)自分が使える言葉や、持っておくと楽になるような言葉を一言でもいいから増やしてほしい。そう思って意識して入れるようにしています。
結果、自分の小説の主人公たちは性格が悪いんですよ(笑)。完璧な姿を救うロジックはこの世にたくさんあるけれど、(本書は)完璧でいられない当事者を救うものでありたい。基本的に小説は一対一なので、一人で読んで自分を肯定してほしいです。『ジャクソンひとり』のジャクソンは、自分にとっての「野比のび太」をイメージして書いています。ダメなところだけを寄せ集めたようなキャラクターだけどそれでいいと思える、開き直る力のあるキャラクターです。
──たしかに開き直る力って、生き抜く力でもありますもんね。安堂さんの作品を読むと、怒ってもいいんだと思えます。
思い出したくないような失敗を笑ってもいいように、嫌だなと思ったことに対して怒ってもいいし、もちろん怒れなくてもいいんです。
──過去から現在までに起こったことを多く描かれる安堂さんですが、小説を通して出会った人々や、周囲の人たちとともにどのような未来を歩んでいきたいですか。
さっきの話にも通じますが、それぞれが太々しく存在したときにだけ出る“味”みたいなものがあるんです。「自分らしさ」まではいかないですが、そうやって生きていってほしいです。自分たちが太々しく生きるために変わった方がいい制度に声を上げながら、少しでも開き直って楽に生きてくれたらいいなと思っています。
Photos: Akihito Igarashi Text: Kotetsu Nakazato Editor: Nanami Kobayashi
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