『ライ麦畑でつかまえて』で世界的に有名なアメリカの作家J.D.サリンジャーの短編「バナナフィッシュにうってつけの日」は、グラース家物語の嚆矢としても知られる。
この小説はいわゆる「ほのめかし小説」で、話の筋はシンプルだが深読みしようとすればいくらでも深読みできる作品である。そんな性質がゆえに“難解な小説”と位置づける人もいるが、はたしてそうなのだろうか?
装置として登場する人物、生き物、道具、あらゆるものが何かの比喩のようにも思えるし、何気ない日常をただ淡々と描いた短編ともとれる。
だが、少なからずこの短い小説の中にはあらゆる“対比”があり、その対比の妙だけでなく比較した際に表出する“ズレ”が面白さのポイントのひとつだと言える。
具体的に例を挙げないと何の話だかわからないと思うので、あらすじを紹介する。
舞台はフロリダのリゾートホテル。
主人公であるシーモア・グラースは妻ミュリエルとバカンスに来ている。ミュリエルはホテルの一室で母親と電話をしていて、母親は娘の夫シーモアのことを気に病んでいる。
当のシーモアは浜辺で寝ていて、同じホテルに泊まる幼い女の子シビル・カーペンターと会話を交わし、バナナフィッシュを捕まえようと提案する。
バナナフィッシュとは普段はごく普通の形をした魚だが、バナナがどっさり入った穴の中に入っていくと豚のように行儀が悪くなる。バナナ穴の中でバナナを七十八本も平らげて太ってしまって穴から出られなくなった奴もいる、とシーモアは説明する。
実際、そんな魚はいないのだが、波が来たときにシビルは「バナナフィッシュを見た」と言う。
シビルと別れたシーモアはホテルの部屋へ戻る途中、エレベーターに乗り合わせた亜鉛華軟膏を塗った女に「あなた、僕の足を見てますね?」と変なクレームを言い、部屋に戻ったあと自分の右のこめかみを拳銃で撃ち抜いたところで唐突に小説は終わる。
文学的アプローチをするなら「母からの電話を待つ間にミュリエルのキャラクターを紹介する見事さ」「復員兵であるシーモアが日焼けをしたいのにバスローブを着ている理由が何を意味しているか」「バナナフィッシュは戦地に赴く兵士の比喩」「太って動けない魚は大量消費が始まった当時のアメリカの世相を反映している」「突然の自死は亜鉛華軟膏の匂いで戦地を思い出したPTSDによるもの」など言及したいポイントはたくさんあるがそれは他に譲るとして、ここではこの小説における「笑い」が「ズレの笑い」である、ということにスポットを当てたい。
ズレの違和感、居心地の悪さは見る(読む)者にツッコミどころという「隙」を与えてくれる。
「ズレ漫才」で一躍スターになったのはオードリーである。
彼らの漫才はボケとツッコミの絶妙なズレ、噛み合わなさで笑いをとる芸である。
話の進行を敢えて遮ったり、一度スルーした話題を再び持ち込んだり、ただ咳き込んだり、突然持ちギャグをして正規ルートから微妙に逸脱して笑いをとる。
そしてツッコミも敢えてスルーしたり、激しくツッコミを入れたり緩急をつけながら笑いをとっていく。
このように意図的に「ズレ」を作り出す手法がこの小説にも使われていて、それは大枠での構造上のズレであったり、細部のエピソードのズレだったりする。
例えば主人公のシーモアからミュリエルが読むようにと渡された本が彼女が読めないドイツ語で書かれていたり、リゾートホテルでのバカンスと突然の自死というミスマッチ、ミュリエルの心配をする母親もどことなくミュリエルっぽいところなど、どこか少しずつズレている違和感を覚える。
決定的なのは、この小説のハイライトともいえるシビルとシーモアの会話がかなりズレているところだろう。
引用----
「一体きみはどこに住んでるの?」
「知らない」
「知ってるよ。知らないはずはない」
シビルは立ち止まり、握られていた手をぐいと引き抜いた。そして変哲もない波打際の貝殻を拾い上げると、仔細にそれを眺めていた。それからそれを投げ棄てた。そして「コネティカット州ホヮーリー・ウッド」と言うと腹を突き出してまた歩きだした。
「コネティカット州ホヮーリー・ウッドか」と、青年は言った「ひょっとしたら、そいつはコネティカット州ホヮーリー・ウッドの近くじゃないか?」
シビルは彼を見やった。「そこがそのまんまあたしの住んでるとこよ」じれったそうに言った「あたしはコネティカット州ホヮーリー・ウッドに住んでるの」
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最初から言うとるやないか! 会話のラリーが一回多いねん!
この噛み合わなさがまさにズレ漫才のような違和感の笑いを生んでいる。
サリンジャーはまるでそこには笑いなど無いかのような無表情で小説にユーモアをさらっと差し込んでくる。実はこういう小説家が作り出す笑いが一番クオリティが高い、と私は思っている。
アメリカ文学の異端児J.D.サリンジャーの色褪せないユーモアを是非一度味わってみてください。