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「吉原遊女」と「バブル期のジュリアナ嬢」は似ている…身体を売る花魁が江戸の娘たちのアイドルになったワケ

  • 2025.2.16

NHK大河の主人公・蔦重が活躍した時代の江戸はどんな様子だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「昭和平成のバブル期にすこし似ている。経済が活性化した中で、江戸のに住む女性たちもあたらしいブランドや流行を必死に追いかけた」という――。

歌川広重筆・東都名所・吉原夜櫻ノ園(写真=メトロポリタン美術館/CC-Zero/Wikimedia Commons)
吉原育ちだから大活躍できたNHK大河の主人公

みずからが板元(出版元)になり、自分で本を出版したい――。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ではいま、そう願う蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)の姿が描かれている。

だが、地本問屋(江戸で出版された地本を企画、制作、販売する本屋)たちは、蔦重の才能を認めればこそ独立を認めない。蔦重は仕方なく、地本問屋の鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)のもとで「改」の仕事をすることになった。

「改」とは最新情報を集め、古い情報を上書きし、原稿を書いて編集する、雑誌の編集記者のような仕事である。鱗形屋は吉原遊郭のガイドブック『吉原細見』の板元でもあり、その編集にあたっては、吉原で生まれ育ち、だから吉原に精通し吉原人脈も豊富な蔦重は、大いに力を発揮できた。

ところが、第6回「鱗剥がれた『節用集』」(2月9日放送)では、そんな鱗形屋が摘発されてしまった。大坂の本屋が出版した『節用集』(用字集。国語辞典に近い)の偽板(海賊版)を摺り、売っていたのがバレたのだ。

第7回ではいよいよ蔦重が、鱗形屋に代わって『吉原細見』を出したいと希望を述べ、売れるガイドにするように工夫を凝らすことになる。

花魁はアイドルでありスターだった

ところで、吉原にはもっとも多いときで約6000人もの女郎がいたというから、ガイドブックでもなければ歩き方もわからない。

『吉原細見』には、どんな見世(女郎屋)があり、そこにどんな女郎がいて、それぞれの揚げ代(遊ぶのにかかる費用)がいくらで、という情報がみな掲載され、かゆいところに手が届いていた。見世の格も、女郎の階級も、最新の情報が一目見てわかるように記号化されていた。

ただ、情報はすぐに古くなるので、毎年正月と7月の2回、改定して新版が出された。そのたびに見世の廃業や新規開業、女郎の廃業や新規出し、出世などがあるので、それらを1軒1軒、1人1人調べる必要がある。それは「改」の重要な仕事だった。

そして、『吉原細見』に源氏名(女郎や芸者の仮名で『源氏物語』の巻名をつけたことに由来する)が載せられた女郎たちのうち、名高い花魁たちにかぎれば、江戸のアイドルでありスターでもあった。

吉原の女郎たちの大半は、表向きは奉公していることになっていたが、現実には貧しい親の手で、女郎屋に売り飛ばされていた。彼女たちは親の借金の担保なので、客をとれるようになってから10年は、狭い吉原に閉じ込められたまま「奉公」して返す義務があった。

だが、そのように不幸な境遇に置かれた奴隷のような娘たちが、男性はもちろん一般女性にとってもスターであり、ファッションリーダーだったのである。

磯田湖龍斎『雛形若菜の初模様 扇屋内あやめ』[出典=東京国立博物館より加工。(東京国立博物館 研究情報アーカイブズ)]
最先端のファッション広告

そうなった一つのきっかけには蔦重が関わっている。第4回「『雛形若菜』の甘い罠」(1月26日放送)で、蔦重は地本問屋の西村屋与八(西村まさ彦)の提案に乗り、共同で『雛形若菜初模様』という連作錦絵を出版した。

吉原の花魁たちに、呉服屋が売り込みたい着物を着せて錦絵にすれば、宣伝になるから呉服屋が制作費を入銀(本の出版前に事前に納める金銭)してくれる――。そんな発想から生まれた企画だった。

ちなみに錦絵とは、鈴木春信が明和2年(1765)に完成させた多色摺の木版画である。春信も吉原の女郎を数多く描き、反響は大きかった。男性はだれでも自由に出入りできた吉原だが、女性は退出時に女郎の逃亡とまちがえられる恐れがあるので、出入りに制限があった。ところが錦絵が登場すると、江戸の女性たちは、生ではなかなか見られない女郎たちの絵姿を、美しいカラーで見られるようになった。

なかでも磯田湖龍斎が描いた『雛形若菜初模様』は、呉服屋が次の正月に売り出して流行らせたい着物を着ていて、現代でいえば、最先端のファッション広告だった。江戸の娘たちがその姿にあこがれたのも当然だろう。

グラビア雑誌が若い娘に影響を与えた

花魁のファッションは時代ごとにかなり変遷があるが、確実なのは、時代を下るごとに華やかになったことである。

着物を何枚も重ね、裾は丸くして「ふき」という綿を入れて厚みを出し、大きな板帯を結ぶ。髷まげを横に倒して結った横兵庫という豪華な髪型に、簪かんざしや笄こうがいを何本も挿す――。このような、よくイメージされる花魁ファッションが登場したのは、安永から天明にかけて(1772~1789年)。まさに蔦重が活躍した時期だった。

安永5年(1776)に蔦重が、人気絵師の北尾重政と勝川春章に競作させて出版した錦絵本『青楼美人合姿鏡』にも、吉原の各見世が自慢にしている花魁たちが描かれている。しかも、花魁道中や客をとっている姿ではなく、季節の風物とともに芸や座敷遊びに興じる日常の自然な様子が描かれ、着物の細部まで手の込んだ多色摺で入念に描かれている。これがまたタレントの写真集さながらに、若い娘にも影響をあたえたようだ。

花魁道中の衣裳でなくても、花魁たちのファッションや髪型は、一般の江戸の娘からしたら非日常的で、それゆえにあこがれの的になったようだ。まねる娘が続出し、親が嘆くケースさえあったという。

田沼政治によって生まれた「バブル」

安永から天明にかけて、映像等でよく見る花魁のファッションが登場したわけだが、時期をもう少し広くとって宝暦から天明にかけて(1751~1789年)は、「宝暦・天明文化」が開花した。江戸の文化といえば、「元禄文化」と「文化・文政文化」が知られ、この2つが教科書にも掲載されてきたが、近年では田沼意次の時代と重なる宝暦・天明文化が注目されている。

この時代、商業が発展して貨幣経済が進行し、幕藩体制の基盤である米が経済に占める割合が小さくなってきていた。この流れにあらがわずに経済の実態を肯定し、商業重視へと経済政策を大きく転換させたのが田沼だった。

田沼意次(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

その詳細をここに記す余裕はないが、財政も物価も安定し、貿易収支も黒字に転換。結果的に、田沼は反対派に追い落とされて改革は頓挫するが、少なくとも田沼時代には商人たちが利益を上げ、その金が市中に流れた。また、政治や社会も文化に寛容だったので、あらたな文化が花開いた。花魁のファッションが豪華になったのも、そうした時代背景があってのことだった。

農業に支えられた経済から商品経済へ、という田沼の改革は、早すぎたゆえに頓挫した。その経済はバブルにたとえられることもあるが、たとえば、金銀の含有量を高くたもちながら貨幣発行量を増やし、財政も物価も安定させるなど、じつは堅実なものだった。

ジュリアナ嬢との共通点

ただ、「宝暦・天明文化」には、少しバブル時代に似ているところがある。お金が急に市中に回るようになった、という点がバブル時代と共通しているからだろう。その意味では、花魁たちの非日常的なファッションは、ディスコのお立ち台で大きな羽のついたセンスを振りかざして踊りまくった、バブル期の女性たちにもているともいえる。

ジュリアナ東京の最終日。お立ち台で踊る若者=1994年8月31日、東京都港区芝浦

むろん江戸の娘たちも、経済活性化の恩恵にあずかった。この時代だから家ごとの格差は大きかったものの、多少の余裕がある家の娘たちは錦絵を見て、そこに描かれた花魁たちのファッションを、可能なかぎり真似ようとした。

その姿は、サザンオールスターズの「ミス・ブランニュー・デイ」(1984年)に歌われた、あたらしいブランドや流行を必死に追いかける女性像と重なるかもしれない。

いずれにしても、多色摺の錦絵という「オールカラーの印刷物」を通じて発信された日本初の「ファッション広告」のモデルとなったのは、吉原の花魁だった。だからこそ、親に捨てられた不幸な娘たちがアイドルに、そしてスターになったのである。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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