ザック・ポーゼンとそのデザインチー ムは、ある俳優のカスタムドレスを仕上げている真っ最中だ。カスタムドレス自体は、2019年に閉鎖した自身の名を冠したブランドのもとでも、これまでに何度も作ってきた。ただ、この日のポーゼンは、サンフランシスコにあるギャップの本社ビル内のオフィスの一画から、Zoom越しで制作に取り組んでいる。そこが昔とは違う。そして、ガウンに使用されているギャップの軽量なTシャツ生地に十分なサポート力があるかどうかが議論になっている。「ボーニングは必要ないと思う」とポーゼンはニューヨークにいるチームに指示を飛ばす。「でも、しっかりとしたフィット感となめらかなシルエットを好む人だから、ブラをしたまま着られるドレスにはしたい」
外では、船やヘリコプターがサンフランシスコ湾のターコイズブルーの広大な海と空を行き交っている。「最高の背景ですよ」とポーゼンは話す。「天気がすごく激しく変化するんです。ここでミーティングをしていると、外はワーグナーとかショパンの楽曲が合いそうな、ドラマティックな景色になっていたりして幻想的ですよ」。1年前にギャップのクリエイティブ・ディレクターそしてオールドネイビーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーに就任して以降、ポーゼンはサンフランシスコにも拠点を置くようになった。
先週ニューヨークで会った時は、日曜の夜便でサンフランシスコから来たといっていた。翌夜開催されたCFDAアワードでシンシア・エリヴォが着用したルック(ギャップのパーカにインスパイアされたフード付きの黒いベルベットガウン)の着付けに立ち会い、翌朝5時のフライトでサンフランシスコへとんぼ返り。そのままオフィスで丸1日過ごした。「基本的に隔週で飛行機に乗っていますね。まるで瞬間移動ですよ。目を閉じて、機内にもWi-Fiがありますようにっていつも願っています」
ポーゼンがついている役職は、ギャップのリチャード・ディクソンCEOが彼のために設置したもので、役割もあまり明確ではない。ゆえにポーゼンは、同社傘下ブランドのギャップ、バナナ・リパブリック、オールドネイビー、アスレタのすべてのデザイン、リテール、広告に携わっている。だが、彼が実際にデザインを手がけているのは3月にローンチされる新ライン、ギャップ スタジオのコレクションのみ。ギャップ定番アイテムをワンランク上にアレンジしたラインとなっており、テイラードのセーラーパンツ、デニムやツイルのトレンチ、ロゴプリントのスウェットなど、 53のアイテムが揃う。
また、昨年ブルガリのイベントでアン・ハサウェイが着用したシャツドレスも新色で展開される。「ザックのことなので、ただのシャツドレスにはならないことはわかっていました」とハサウェイは語る。ギャップのシャツにインスパイアされた一枚はオフショルダーのキャップスリーブ、ヒップまで入った深いスリット、そして胸もとから覗くシアーなコルセットが特徴だ。「彼自身が本当に華やかな人なんですが、どこかとても自然体でくだけた感じがするんです。あのドレスを着たとき、私もそんな軽やかでグラマラスな気持ちになりました」
取材当日、ポーゼンはハウンドトゥース柄が施されたバナナ・リパブリックのダブルブレストスーツに身を包み、経営陣然としていた(「自分の商品を手にとって、実際に着てみるのはとても大切なことですから」と彼は言う)。しかし、44歳になった今でも、ポーゼンはエネルギーに満ちあふれている。その姿はまるで、休みの日に張り切って早起きする子どものようで、カールした髪には常に寝癖がついており、それが親しみやすさを醸し出す。頬にえくぼを作りながら、いつも満面の笑みを浮かべ、コレクションのアイデアを聞くと、まるで初めて出会った食べ物を試食するときのように、好奇心をあらわにする。新しいプリントやエコバッグなど、何かを気に入るとそれを「yummy(すてき)」と言い、特定の色味のオレンジなど、何かを気に入らないときは「yucky(なんか嫌)」と表する。“サルファー”と呼ばれる色は見ると「ゾッとする」らしく、無駄なゴミを生む過剰包装も同様だ。そして服の構造について語るときの口癖は、「自分はレゴで遊んでいた、典型的な80年代育ち」で、原点回帰するのが好きなのだ。
また、ポーゼンには遊び心がある。隣室の大理石のコーヒーテーブルには、デニム、ツイル、ジャージーなど、ギャップの生地が山積みされており、今日どこかでマネキンを使ってドレーピングしてみるつもりだという。だが今は、まだこなさなくてはいけないミーティングがたくさんある。回転式のオフィスチェアをくるりと回すと巨大なモニターに向かい、スクリーンを覗く込む。そこに映っているのは、ジェニファー・ハドソンのスタイリストたちとともに作った、スパンコールに覆われた一着の赤いドレスで、ポーゼンはそのローブを教える。一方で、先ほど議論していたTシャツドレスはデミ・ムーアのためのものだ。1990年にギャップのアイコニックな広告に登場したムーアのルックを制作していることを思うと、やはり彼は原点に立ち返るのが好きなのだろう。「彼女はヒールを覆う丈感が好きなので、ちょっとしたトレーンをつけよう。いらないと言われたら切ればいい」
ボールガウンを専門とするポーゼンが、なぜ日常のベーシックウェアでビジネスの礎を築いたリテーラーに在籍しているのか、と疑問に思っている人もいるだろう。興味深いことに、ポーゼンはギャップ スタジオをクチュールメゾンのようなものとして考えており、ギャップで指揮を執り始めてまず手がけたのもカスタムのイヴニングウェアだった。確かに、ギャップ スタジオはカスタムピースも展開しているが、最大の狙いは顧客の来店を促すことだ。
「ルイ・ヴィトンがスーツケースを売るために生産予定のないボールガウンをレッドカーペットで打ち出してもいいなら、ギャップもレッドカーペット用のTシャツドレスを出してもいいはずですよね。ただ、私たちの場合、実際に生産して販売します」と彼は言う。それも手が届く価格帯で、だ。ハサウェイが例のシャツドレスを着用した8日後、ギャップは同じものを158ドルでローンチ。発売するや否や数時間で完売した。「あれは本当にバズりましたね」とポーゼン。「データを見せてあげますよ。(と言われたものの。当社はそういった数字を公開しないとギャップの担当者から説明され、見せてもらうことはできなかった)。
ディクソンによると、こういった話題創出が、ギャップの存在を世間に改めて認識させることにつながっているそうだ。ギャップは1990年代に全盛期を迎えて以来、店舗数過多。在庫過多、そして一貫したビジョンの欠落のトリプルパンチで売り上げが右肩下がりになり、2000年に400億ドルあった会社の評価額は、ディクソンがCEOに就任した2023年には77.5億ドルまで下落していた。すぐにでも世間の関心を引き、士気を高める必要があった。ポーゼンがハサウェイ、エリヴォ、そして昨年のダヴァイン・ジョイ・ランドルフのために手がけたメットガラのルックは、まさにそれを実現した。「あの素晴らしいルックたちは皆を振り向かせました」と、ディクソンは話す。「ギャップに光が当たったんです」。立て直しの取り組みはポーゼン着任のずっと前から始まっていたが、今やギャップは4四半期連続で売上高が増加し、株価も16%上昇している。
ポーゼンとしては、窮状に陥ったギャップに自身を重ねていた。「ポテンシャルがあるのに評価されていないものが大好きなんです」と彼は言い、さらにこう付け加えた。「アメリカは(人を)もてはやして、急にこき下ろすのです。穏健、鈍感、稀に見る逸材、気性の激しい人。本当にいろいろなことを言われてきたので、個人的にはすごいチャンスが巡ってきた! って感じでした」
2019年、自身の会社を閉鎖した後、ポーゼンはキャリアのどん底にいた。これからどうやって食べていけばいいのか。そこで彼はハリウッドに目を向け、ロサンゼルスに行った。パリも試し、フレンチメゾンの採用面接も受けた。結局ニューヨークへ戻り、ウエディングドレスなどの個人の依頼やドレイクの2023年ツアー用のピース、それからライアン・マーフィー原案のドラマ『フュード/確執 カポーティ vs スワンたち』の衣装を手がけて生計を立てた。彼とディクソンが出会ったのは2023年秋のこと。ディクソンはそれまでマテル社の社長を務め、映画『バービー』を大ヒットに導いた。ポーゼンはディクソンの言葉を思い出す。「私はマテルでは“ウィリー・ウォンカ”のような人物だった。今度はギャップにとっての“ウィリー”を見つけなくてはならない」
ギャップのサンフランシスコ本社には何千人もの従業員が勤めている。笑顔を絶やさずせっせと働く人々、「ギャップテリア(Gapeteria:ギャップとカフェテリアを組み合わせた造語)」と呼ばれる社員食堂、スヴェンという名の技術責任者。ポーゼンと同様に80年代育ちの私には、コンピュータゲームの「シムピープル」を思い出させるようなオフィスだ。ポーゼンはそのうちの15フロアを駆け回り、ミーティングからミーティングへと飛んでいく。エレベーター待ちを避けるため、階段を使うことが多い。「自分の歩数を知るのが怖いですよ」と彼は話す。自分のオフィスがあるフロアまで一瞬で降りられるよう、彼専用の滑り棒を会社に設置すべきだ、なんて冗談も飛ばした。
ギャップでは頭字語を使って社内コミュニケーションをとる。ポーゼンのカレンダーは「SLT(シニア・リーダーシップ・チーム)」や「LRP(ロングレンジ・プランニング)」のミーティング、「P2M(プロダクト・トゥ・マーケット)」のレビューで埋め尽くされており、失読症の彼にとっては難題だ。ギャップでは現在、史上初めて傘下ブランド店舗の一斉リニューアルに乗り出しており、ポーゼンは店内BGMのプレイリストからフロアプラン、ウインドウディスプレイまで確認する。取材日はちょうど、ニューヨークのフラットアイアン地区にあるギャップの店舗のリニューアルオープン日で、ポーゼンは壁に塗られたペンキは自分が割引クーポンを使って購入したのだと、自慢げに語る。また、サンフランシスコにあるバナナ・リパブリックの新旗艦店を視察した際は、店内に飾ってあったカゴいっぱいの青りんごを、繊細な葉のグリーンに替えるよう指示していた。
午後、ポーゼンのオフィスに落ち着くと、彼はブーツの紐をほどき始めた。「もう靴を履いていられない」と言う。「構いませんよね?」言われてみれば納得だが、触覚が鋭いポーゼンは裸足でデザインをしたがる。そんな彼はここまで一緒に過ごす中で、たまらず私のシャツの襟を直し、店舗開発担当の副社長が着ていたウィメンズのブレザーを試着した。さらに、自分がはいているギャップのボトムのタグの織り方をチェックし、観葉植物の葉を摘み取り夏用のムードボードに貼り、3人のギャップ社員がそれぞれはいていたデニムのブランドタグを吟味した(ちなみに先週は先週で副社長がはいていたボトムの生地をじっくり観察したという)。ポーゼンは腕にピンクッションをはめ、デニム生地の端をマネキンの肋骨のすぐ下に針で留める。そしてディクソンと出会って2週間後にアメリカの西海岸へ飛び、ギャップ社の役員会に出席したときのことを語る。取締役たちの質問は予想通りのものだった。彼の会社に何があったのか? イブニングウェアで名を上げた後で、なぜジーンズやTシャツを作りたいのか? 150億ドル規模のビジネスの複雑さを理解しているのか?
9.11アメリカ同時多発テロ事件後のニューヨーク。この頃のポーゼンは、若手デザイナーとして業界の先陣を切っていた。だが、世界貿易センターが崩壊した数週間後に行われた自身初のショーは、自分のデザインを製作してくれる空き工場がニューヨークに一気に増えたから実現できたものでもあり、その後は20年も浮き沈みが続いた。会社が傾かないように苦心するも、結局多くの中規模ファッションブランドと同じように、不完全な卸売モデル、ランウェイコレクションの過剰製作、これらの困難を切り抜けるための安定した財政パートナーの不在に悩まされ、屈した。そしてポーゼンの名前を含むメゾンの知的財産は、ライセンス会社に売却された。
それでもポーゼンはこの時期、多岐にわたる分野において数多くの経験を積んだ。ターゲット、M・A・Cコスメティックス、マグナムアイスクリーム、デヴィッド・ブライダル、ダイヤモンドブランド2社、ケンマークアイウェア、バービー、ザ・マペッツ、中国と南米のブランドと複数コラボ。それに加え、ブルックス ブラザーズのウィメンズウェアのクリエイティブ・ディレクターに就任し、デルタ航空とニューヨークの人気イタリアンレストラン「カルボーネ」のウエイターのユニフォームをデザイン。ディフュージョンラインを2つ立ち上げ、料理本を執筆し、『プロジェクト・ランウェイ』の審査員も6年間務めた。「すべて自己満足や目立つためにやっていたと捉える人もいるかもしれませんが、実際は九分九厘、生き残りをかけてやったことなんです」と、誰もが圧倒されるような経歴は、自分の会社を存続させるための多大な努力の一部だったとポーゼンは説明する。「でも、確かに力は尽きました」
ポーゼンの採用を検討するにあたって、ディクソンはトム・フォード・インターナショナルの会長であり、2002年にトム・フォードとともに、ポーゼンの2度目のランウェイショーに資金を提供したドメニコ・デ・ソーレに声をかけた。2017年までギャップの役員を務めていたデ・ソーレは、ポーゼンを適任者として推した。「ザックは非常にクリエイティブであると同時に、思いやりのある人でもあります。マーケティングとビジネスがどういったものかを理解しています」とデ・ソーレはポーゼンについて語る。
オフィスでポーゼンは、今度は折り紙のように角を折ったデニム生地を、マネキンの腰まわりに留めている。そしてただのベッドシーツと同じくらい味気ない白いポプリン生地を手に取る。それを片方の肩にドレーピングし、真っ直ぐ横に引き裂く。不要な布がカーペットを敷き詰めた床に落ちて山になる。
ポーゼンがこのポジションに惹かれたのは、多くの人の生活の中に溶け込むチャンスだからだった。例えば、オールドネイビーはアメリカ国内で第2位の規模を誇るアパレルブランドで、売上高82億ドルに加え、爆発的な成長を遂げる可能性を持っている。そしてここには、彼がずっと求めていた信頼できる経験豊富なパートナーがいる。少し前、ポーゼンはディクソンとギャップのCEOのマーク・ブライトバードに、夏商品のスケッチを見せていた。シャンブレーの“ギャップタン”(ギャップのカフタン)にポインテルニット、シアーメッシュにマクラメ。ディクソンはメッシュを気に入らなかったが、ブライトバードはポーゼンにこのまま進めるよう仕向けた。デザイナーにとってめったに耳にすることのない言葉だ。「とにかく色々作って試す」とブライトバードは言う。「やってみよう」
大企業のリソースという後ろ盾を得たことで、ポーゼンは新たな自由を感じているのだろうか。「まぁ、ここはトップレベルの企業ですから」と言うものの、プレッシャーを感じていない訳ではない。「公開会社なので、次元が全く違います。マーケット、天候、外の世界。公開会社ということは、そのすべてが(ビジネスに)関わってくるということです」。天候というのは文字通りの意味のようだ。就任初日、ポーゼンは役員室で世界の気象パターンとそれが2年後のリネン価格に及ぼし得る影響を見ていた。
ディクソン曰く、ギャップにはバービーのようなブランドとはまた違った課題がある。「バービーにはアンチがいました」と彼は話す。「なので、本当にブランドを嫌っている人たちがいました。ギャップの場合は、好感度はあっても、ブランドに対する人々の関心が薄れてしまっていたのです」。一方、市場での地位は、ユニクロやH&Mのようなファストファッション大手だけでなく、ザ・ロウといったラグジュアリーブランドにも侵されている。ザ・ロウの最新コレクションに至っては、ギャップよりもギャップらしいバギージーンズやロングスリーブTシャツ、デニムシャツなどが揃う。ディクソンの願いは、脅かされた立ち位置を少しでも取り戻すことだ。「どうすればいいのか?」とポーゼンは問う。「自分の得意なことに立ち返るんです」
服に縫いつけるエンボス加工のレザー製ブランドパッチから品質表示タグとワックス加工が施された黒いコットン紐の原料、デボス加工がされた厚手のショッピングバッグまで、ギャップ スタジオは細部まで徹底して考え抜かれている。途中、デザイン・ディレクターのトーマス・バスールが、ギフトボックスに高品質のリボンをつけるべきかどうかポーゼンに相談していた。2人は2000年にアズディン・アライアのスタジオで出会ってからの付き合いだ。「商品を受け取ると、ゴミは出ます。当然、それについては考えています」とバスールが話し始める。「でも同時に……」「一種の体験であることも考えているんです」とポーゼンは彼の言葉を引き取った。「もちろんです」とバスール。しばらくして、ポーゼンが言う。「ラグジュアリーではないですけれど、(何かを受け取るのは)すてきな体験ですよね」
話している間に、マネキンに留められた何枚もの生地が、フィッシュテイルのデニムスカートと90年代を彷彿させるラグランシームのトップに姿を変えた。写真を撮って、親しい友人のユマ・サーマンにでも送ろうか。あるいはいずれコレクションで発表するか。ポーゼンの想像は膨らむ。「いい創作方法でしょう?」と彼は言う。「人の手が加わっているのがわかる、とても手作り感のあるものになりましたね。顧客には、そういう職人技を感じられるものを提供すべきだと思います。手が出ないほど高額であってはいけません。そういうのは、あまり好きではないんです」
夕方になり、オフィスを出て、車でテレグラフ・ヒルにあるポーゼンの自宅へと向かう。サンフランシスコの北東部に位置するテレグラフ・ヒルは、木々に野生のオウムが生息していることで有名だ。チャイナタウンを抜け、ヴィンテージショップの「バケーション」を通り過ぎる。チャイナタウンのおすすめグルメスポットは、老舗の人気中華レストラン「ハウス・オブ・ナンキン」の創業者の娘であるシェフのキャシー・ファンに聞いているというポーゼン。「バケーション」はひと昔前のギャップアイテムが揃う、インスピレーションの宝庫だ。前日に立ち寄った際は、オーナーのクリスティン・クラインがギャップとバナナ・リパブリックのヴィンテージはすべてポーゼンのために取っておいていると話してくれた。「ザック優先です」とのことだ。
「ここがヒップアップ効果絶大な坂ですよ」と、自宅につながる急な坂道に入りながらポーゼンが言う。玄関で私たちを出迎えたのは、ポーゼンの婚約者でニューヨーク・シティ・バレエの元団員のハリソン・ボールだ。
採用が決まったとき、ポーゼンとボールの2人は1週間で住むところを見つけなければならなかった。今の家は、ボールが不動産検索サイトのジロウで見つけた。1852年にある船長が建てた4階建ての借家で、階段は急できしみ、湾を見渡す眺望が売りだ。自分たちらしい家にしようと2人はデザイナーのケン・フルクとともにリノベーションを進めており、上階の居間をバナナ・リパブリックの赤いベルベットソファや、ポーゼンの父による絵画でアップデートしている。愛犬のツキとビゼーが足もとをぐるぐる回っている中、ポーゼンはキッチンでボールの腕の中に倒れ込む。「キツい一週間だった」とこぼす。
ポーゼンが犬たちの散歩に行っている間、ボールが2人の馴れ初めを語ってくれた。初めて出会ったのは2019年リンカーン・センターでのこと。ポーゼンがバレエの衣装デザインを担当したときのことだ。ボールはちょうど車との接触事故に遭ったばかりでキャストからは外れており、ポーゼンの会社は倒産寸前だった(「あの頃の彼は、かなりの苦しみを隠していました」とボールは話す)。数カ月後、ボールは『白鳥の湖』でジークフリート王子を演じることになった。そこで共通の友人に頼んでポーゼンをリハーサルに招待。ポーゼンを口説くつもりだったという。だが、実際はそれどころか、リハーサル後にポーゼンがステージに上り、ボールのミスを指摘。「後から録画を見たら、確かに彼の言う通りでした」とボールは言う。
コロナがニューヨークを襲うと、ボールはバハマ諸島にある、父親が所有する家に避難した。ポーゼンは、幼馴染のローラがいるシュナーベル一家とともにブリッジハンプトンにこもった。2人はメッセージのやり取りを始めたが、ボールがいる島の携帯電話基地局が被雷し、ネットへのアクセスが遮断。連絡を取り合えないまま、何カ月も過ぎた。
2020年の秋になり、行動制限が緩和されると、ボールとポーゼンはニューヨークで再会した。ボールは当初3日間の滞在予定だったが、結局1カ月もニューヨークに留まった。ウッドストックへ日帰り旅行に行った際、ボールはポーゼンに「あなたは何を望んでいるのか」と尋ねた。ポーゼンは家族が欲しいと答えた。このとき、ボールは27歳。4歳の頃から踊りに明け暮れ、初めて自由を謳歌している時期だった。そしてポーゼンにも同じように、自由に生きることを勧めた。色々な人と付き合うといい、と。
2人が再会したのは翌年の初め。ボールがニューヨークに戻ってきた際、ポーゼンは空港からの送迎車を手配したが、その気遣いがボールを慌てさせた。運転手にUターンするよう頼み、ポーゼンのもとではなく、そのままノースカロライナ州に飛んで家族に会いに行った。「自分の人生を変える、決定的な何かが起きる気がしたんです」とボールは語る。1週間後、ポーゼンはボールのために自宅のクローゼットを2つ片付け、2人は同棲を始めた。そして1年後の2022年、2人は婚約。ソーホーの「オーメン」にディナーに行き、東73丁目までアップタウンをずっと歩いて帰った日のことだった 。その日は地下鉄で銃撃事件が起きたらしく、街には不気味なエネルギーが漂っていたという。家に着き、テレビのニュースをつけ、ソファに寝そべったボールにポーゼンはタフィンのカスタムリングを渡しプロポーズした。
同じ年、ボールはプリンシパルに昇格。ポーゼンは彼が出演するすべての公演に駆けつけた。引退を決意したのは、『夢遊病の女』の詩人役を踊っていたとき。片足の種子骨は砕け、全身が関節炎に苦しめられていた。 そしてボーンとポーゼンは、ペンシルベニア州郊外に住むポーゼンの家族とより多くの時間を過ごすようになった。「その後、彼のお母さんがステージⅣのがんと診断されたんです」とボールは話す。
犬の散歩から戻ってきたポーゼンは、どこかソワソワしている。「私が喋ると皆すごく不安がるのですよ。とめどなく、赤裸々に話すので」とボールは言う。ディナーに向かう道すがら、ポーゼンが先ほどの話の続きを語る。ボールに「自由に生きろ」と言われたとき、ポーゼンはロサンゼルスに行き、アリス アンド オリビアの創設者のステイシー・ベンデットと彼女の夫エリック・アイズナーのもとに転がり込み、エリックの父マイケル・アイズナーがマリブに所有する広大な豪邸に滞在した。「マリア・フォン・トラップ(映画『サウンド・オブ・ミュージック』の著者)になったみたいでした」とポーゼンは話す。
マリブ滞在中は、ファッションデザイナーを題材にした脚本1本を含むテレビ脚本を複数書き、監督業やプロデューサー業に転職することも考えた。だが、年が明けると母親が病気になり、ボールのことばかり考えるようになった。「ニューヨークに戻るときが来たんです」
付き合い始めて間もなくして、ボールとポーゼンはレンタカーを借りてアメリカ横断の旅に出かけ、ベストウェスタンやハンプトン・インといった手頃なホテルに泊まりながらドライブを続けた。ジャクソン・スクエアにある高級イタリアンレストランでディナーを食べているからか、ベストウェスタンに泊まるポーゼンがいまいちイメージできない。「そうですか?」とポーゼンは意外そうだ。趣味はガーデニングと料理。自分にも地に足のついた一面があるのだと、彼は念押しする。「ミスター・タキシードという真逆なイメージもあって、それはそれでいいんですが、実際は裸足で土を掘っているときが一番幸せなんですよ。それもデニムで」
「彼の両親は普通の人ですよ」とボールが付け加える。「子どもの頃は、ペンシルベニア州クエーカータウンのQマート(クエーカータウン・ファーマーズ・マーケット)に行っていたんですし」。ポーゼンがよりグラマラスな人生を歩むようになったのは、ブルックリンの名門プライベートスクール、セント・アンに通ったことや、ローラ・シュナーベルやクレア・デインズと交友があったためだとボールは考える。「10代の頃にそんな世界の扉が開かれたら、扉の向こうには何が待っているのか気になるじゃないですか」とボールは説明する。
ポーゼンは芸術家と弁護士の息子としてソーホーで育ったが、甘やかされることは一切なかったと間髪をいれずに言う。“ボールガウンの人”になるつもりだった訳でもない。確かに、セントラル セント マーチンズ在学時代にTシャツ制作の課題としてドレスを提出したのは事実だが(「私なりの逆パンクイズムってやつです」)、ダメージTシャツやジーンズも何着も作っていた。ドレスを極めるのはつまるところ、戦略的な決断だった。当時から、スポーツウェアや手頃なラグジュアリーファッションは、ファストファッションの勢いにのまれそうで、イブニングウェアに特化するのは妥当な選択だった。「本当に勝ち目があったんです」とポーゼンは話す。
取材前日の夜、ボールは自宅のシアタールームを初めて使用した。最初に鑑賞した記念すべき番組は、ポーゼンが出演する『プロジェクト・ランウェイ』。「皆あの番組を観て、ザックがテレビ界に魂を売ったと思うかもしれません」とボールは言う。そしてポーゼンの方を向き、こう続けた。「でも、君はただ会社を存続させようとしていただけなんだよね」
ボールはポーゼンのことになるとものすごく過保護だ。ポーゼン自身は、自分で自分をスター子役にたとえる。昔ながらのファッション組織の中で育ち、信頼できると思った人の言うことを聞いてきたのに、その過程で自分の道を見失ったからだ。「まだ子どもだったんだよ」と、10代でニューヨークに移り住んだボールはポーゼンに言う。「ザックがこれほど長く生き残れたというのは、すごいことですよ。しかも薬物やアルコールにも手を出さずに、正しい道を進んできたんですから」。ディクソンはそこがポーゼンの魅力のひとつだと語る。「彼は失敗を経験していて、失敗とは何かを理解していたのです」。ボールはそんなポーゼンを、バハマ諸島にいるあるパイロットにたとえる。海に小型飛行機で墜落したことがあるそのパイロットの飛行機には、誰も乗りたがらない。「でも私の父は、『墜落して生き残ったからこそ、私はあの人が操縦する飛行機で飛びたいんだよ』と言うんです」とボールは話す。
ポーゼンの母スーザンは、ポーゼンがこの仕事を受けることを決めた大きなきっかけになった。2023年のクリスマスイブ、彼は病院で彼女に付き添っており、ディクソンと電話で交渉していた。ポーゼンに契約条件を尋ねた直後、彼女は心肺停止に陥り、一時的に意識を消失。スーザンは2010年まで息子の会社のCEOを務めており、最終的に会社を見舞った出来事は、彼女の心に重くのしかかっていた。ポーゼンは、アメリカの大手ブランドに就職することで、彼女の心労を少しでも軽くできればと考えた。「僕はもう大丈夫だと、母に安心してほしかったんです」とポーゼンは話す(スーザンは今も治療を続けている)。
ボールが思うに、ポーゼンは最終的に自身にとって最高の仕事に就けた。今ではただのデザイナーとして活動するよりも多くの経験を得られており、シャネルに匹敵する年間売上高を誇るギャップで実現させたい、壮大なアイデアもいくつかあるそうだ。レコードとジーンズのショップとして1969年に創業したギャップがレコードレーベルを始めたらどうか? 自社のホテルブランドを作って、バナナ・リパブリックをホスピタリティブランドに転換させたらどうか? ポーゼンの多彩なアイデアを聞いて、Jクルーの前社長ジェナ・ライオンズの言葉を思い出した。彼女はポーゼンが新たに着任したポジションについてこう語っている。「私だったらすごい重荷に感じたでしょうね。でも彼にはできることとできないこと、うまくいくことといかないことに対する考え方が違うんです」
ディナー中、ポーゼンは夜8時になってもまだ通知が鳴り続けている「スレッド」のメッセージをチェックしていた。売上が60%もアップしたフラットアイアンの新店舗の話題で持ちきりだという。報告は概していいものだ。会社の第3四半期売上高は2%上昇し、着実に、徐々に成長することに重点を置いているディクソンを満足させる結果だ。だがギャップのレガシーのためにも、ポーゼンのキャリアのためにも越えなければならないハードルはまだ高い。しかし、今のポーゼンは昔よりも視野が広い。「仕事は今も私にとってすごく大切なものですが、色々なことに振り回されたくないです」と彼は言う。「疲れますし、ばかばかしいですから」。自分がやるべき仕事、そして自分が学んだ教訓を次世代のデザイナーに伝えることにポーゼンは注力しており、社内メンターシップ制度を導入したいとも考えている。今や彼は主役ではなく、自分より大きなものの一部なのだ。「私が来る前から(この会社は)ありましたし、私が去った後にもあり続けるでしょう」
ザック・ポーゼンにしてはかなりの謙遜のように聞こえる。「自分の名前を取られてしまったら、謙虚にもなりますよ」と彼は言う。それに、人生の優先事項が変わった。ポーゼンとボールは子どもを望んでおり(それも2人)、サンフランシスコでの新しい暮らしにもまだ完全には慣れていない。ニューヨークでは、夜はバレエやオーケストラ、オペラを楽しんで過ごしていたが、ここ西海岸では、ボールは犬を連れてポーゼンを会社まで迎えに行ったり、2人でミュアー・ビーチやペタルーマやポイント・レイズまでをドライブし、ビーチで牡蠣をむいたり焚火をしたり、凍えるほど冷たい海に飛び込んだりする。
「この星にいられるのは本当に短い間だけです。残念ながら、誰かの記憶に残り続けることも多分ないでしょう。皆生まれ変わるのですから。私たちは一枚の葉っぱとそう変わりません。朽ちていくちっぽけな存在です。なので、どうせなら、生きている間に恩を返し、想像力を刺激し、自信を持ち、少しでも誰かの人生に影響を与えられるようにしたほうがいいと思っています」。自分を深く内観するように、ポーゼンはそう語った。
Styled by Tonne Goodman Hair: Edward Lampley Makeup: James Kaliardos Manicure: Jin Soon Choi Talents: Callina Liang, Harrison Ball, Julia Schlaepfer, Laysla De Oliveira, Nicole Beharie and Zac Posen Produced by AL Studio Production Coordination by Boom Productions inc Set Design: Mary Howard Special Thanks to Hook Studios and Hook Props Tailor: Jacqui Bennett at Carol Ai Studio Tailors Caption Text: Mika Mukaiyama
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