YouTubeで約600万人のフォロワーを持つインフルエンサー、Kimono Mom(キモノマム)ことMOE(モエ)さんは、元舞妓というユニークな経歴を持ち、着物姿で日本の生活や和食の作り方を世界に発信している。高校を中退して舞妓になり、22歳までを祇園で過ごした後に結婚して引退。再婚や出産を経て海外でも人気のユーチューバーになったモエさんを、ライターのベック知子さんが取材した――。(前編/全2回)
親の反対を押し切り高校を中退、舞妓に
1991年、京都の長岡京市で生まれたモエさんが、舞妓の仕事に興味を持ったきっかけは、高校1年の夏休みの宿題だった。職業調べのため、出身である京都の伝統文化を支える職人たちにインタビューをした。旅館の女将さん、着物を作る織物職人、ろうそく職人などさまざまな職業の人から話を聞きながら、一番に興味を持ったのは、芸術作品のように美しいその姿から「歩く伝統工芸」と呼ばれる舞妓だった。
呉服関係の仕事をしていた祖父の影響もあり、着物も舞妓の姿も小さい時から身近な存在だった。今まで当たり前に見ていた舞妓が日本を代表する「生きた文化財」であることを知り、自分もその一人になりたいと思うようになる。
「私と同い年の15歳の子が、親もとを離れ、プロとして芸名をもって住み込みで働いていることを知って驚きました。それで、私もやってみたいと思ったんです」
両親は大反対した。祇園に対して“水商売”のイメージを抱いていた母親は心配し、それなら留学はどうかと勧めた。「舞妓という新しい世界に挑戦したい」という思いに突き動かされていたモエさんは、留学した場合と舞妓になった場合の生活を比較するために辞書の厚みほどの資料を集めた。舞妓になるとどんな生活が待っていて、モエさんはそこでどういう舞妓になることを目指しているかをプレゼンテーションすることで両親の説得に成功する。
そして16歳で高校を中退し花街の世界に飛び込んだモエさんは、10代から90代までの幅広い年齢層の女性たちと共同生活を始めた。
見習いの「仕込みさん」から舞妓へ
祇園で暮らす女性の年齢層が広いのには理由がある。舞妓になるためには「仕込みさん」として一人前になるための準備をする期間が1年あり、お座敷には出ることはない。仕込みさんの多くは10代で、この時期は、舞妓が所属する「置屋」に住み込んで家事や清掃、先輩の手伝いをしながら、礼儀作法や京都の言葉遣いを学ぶことに専念する。見習い期間を経た15歳から20歳の間は、主に踊りを披露する「舞妓」として活動する。舞妓としての経験を積んだ後は、「芸妓」となり、三味線など多様な芸でお客さんを楽しませるとともに、年長者として若い世代を育てる役割を担う。
17歳で舞妓になったモエさんの日々は目の回るような忙しさだった。朝9時からの稽古では、踊りや三味線、茶道や習字を学び、舞妓としての立ち居振る舞いを磨く。夕方からは、「お茶屋さん」と呼ばれる予約制の社交場に移動し、お客さんのおもてなしだ。ここでは、踊りを披露し、お客さんが食事を楽しめるように場を華やかに盛り上げる。
お茶屋さんで夜11時過ぎまで仕事をした後、置屋に戻り、着替えて舞妓の着物の手入れをして翌日の準備をすると、床に就くのは朝の3時になっていることも多かった。厳しい修行と遅くまでの仕事で、途中で辞めていく舞妓も少なくなかったという。
寝る時間もほとんどない毎日を送っていたが、モエさんは当時を笑顔でこう振り返る。
「箸が転んでもおかしい年頃の同年代の子たちと一緒の生活ですから、(舞妓時代は)めちゃくちゃ楽しかったですね。長い仕事の後には、みんなでラーメンを持ち帰っておしゃべりをしたりと、楽しかった記憶の方がたくさん残っています」
コミュニケーション力と瞬時の判断力を育んだ
舞妓というと、“華やかさの裏で忍耐を強いられる女性”というイメージを持たれることもある。しかし、モエさんにとって舞妓時代とは「高いコミュニケーション能力と瞬時の判断力を育む場」であったという。
「映画やテレビで取り上げられる姿から、舞妓は静かで自分からあまり話したりしない、おとなしく受け身な女性だと思われることも多いのですが、実際は、お座敷を盛り上げるためにしゃべらなあかんのです。その一方で、訳知り顔でベラベラ話すことは歓迎されず、お客さまの話を聞く姿勢も大切でした」
「電柱にも頭を下げなさい」
舞妓時代に身に付けた高いコミュニケーション能力は、お客さんとの会話よりも、先輩の芸妓たちとのやりとりから学んだという。「生きていくために大切なことは舞妓時代に全て学んだ」と話すモエさんだが、その中でも特に厳しく教えられたのが、「電柱にも頭を下げなさい」と言われるほど徹底された挨拶だ。
道端で先輩に会ったときは、足を止めてきちんと挨拶するのが基本。お座敷で一緒になった先輩やお茶屋さんには、翌日に必ず挨拶に行き、不在であれば一筆書いてポストに入れた。
稽古の時は、先輩のために扉を開け、のれんをおさえ、履きやすいように履きものをそろえ、荷物を持つ。徹底的な上下関係の中で、相手が何を求めているかを瞬時に判断する力が鍛えられた。自然と気配りができるようになると、先輩にも可愛がられ、「あの子は頑張っているからぜひ」と、先輩がお客さんにも勧めてくれるようになる。その結果、次第にお客さんも増えていく。
結婚で引退し「夫のために食事を作る」生活に
芸妓になって1年半ほどたった22歳の時、結婚をきっかけに祇園での仕事を辞めた。舞妓や芸妓は、結婚すると引退することが一般的だ。接客やお座敷で芸を披露する仕事が中心のため、家庭を持つと両立しにくいと考えられていたためだ。
6年間の祇園生活を終え、「やりきった」という充足感を抱いて新たなスタートを切ったモエさんだが、その新婚生活は、想像していたものとは大きく異なっていた。仕事で海外を飛び回る男性と結婚したモエさんの役目は「忙しい夫のために1日3食の和食を作ること」。
夫と一緒に日本と海外を行き来する生活をしながら、一時帰国すれば日本食の材料や調味料をどっさり買い込み、スーツケースにパンパンになるほど詰め込んで飛行機に乗る。こうやって海外で夫のために和食を作る毎日が続いた。
「外国で生活しているのに、自分はずっとキッチンにいる。『何のために結婚したんやろ』と考えるようになりました。それまで舞妓・芸妓として自分を表現する仕事をしてきたので、夫のために生きているような生活を続けるのがつらくなりました」
6年間、祇園という小さな世界で過ごしたモエさんにとって、外の世界は心をわくわくさせる新しい場所だった。「家の外に出て働きたい」と切望するようになったが、その情熱は「妻が働きに出ることは夫として恥ずかしいこと」と考える彼には理解されなかった。
話し合いを重ねたが、双方の結婚に対する考え方の溝が埋まることはなく、結局3年の結婚生活に終止符を打つことになった。
元夫の訃報で目が覚めた
離婚したモエさんは、心機一転、東京で生活を始めるが、厳しい現実が待っていた。
祇園時代は特殊な環境に守られ、結婚後は夫の収入に支えられ、金銭面で困る経験をしたことがなかったモエさん。東京での生活費を捻出するため、まずは花屋とカフェのアルバイトを掛け持ちした。それでも足りず、舞妓の経験を生かした着物の着付けサービスを始めた。口コミで仕事は増えたものの、東京での生活費には足りない。「寝るためだけに帰宅する」という日々が続いた。舞妓時代の貯金も、この時に尽きた。
そんなある日、元夫がガンで亡くなったという知らせを受けた。離婚直後にガンがわかったが、彼女には言わないまま闘病生活を続けていたのだ。家族がモエさんに連絡しようとしたが、元夫は「彼女は仕事を頑張っているはずだから、心配をかけたくない」と、とめたことを後から知った。
元夫の訃報を知り、人生は何が起こるかわからないと感じたモエさんの中で何かが吹っ切れ、今まで邪魔していたプライドもなくなった。必要な時には周りに助けを求め、自分を飾らずありのままをさらけ出すのが怖くなくなったという。中卒であることに引け目を感じるのではなく、「舞妓だった」というユニークさを武器にしようと考えるようになる。こうして、モエさんのバックグラウンドを面白いと思ってくれたランジェリーブランドの営業兼広報の仕事についた。
ちょうどその頃に出会ったのが現在の夫だ。モエさんの意思を尊重してくれる彼に「結婚しても仕事はやめなくていい」と合意をもらって結婚。妊娠したが、つわりがひどく、仕事を辞めざるを得なかった。
子どもを預けられず、仕事ができない生活に焦り
2019年春に娘を出産し、初めての子育てに奮闘しながら、モエさんは「早く仕事を再開したい」というあせりを感じていた。しかし、もうすぐ1歳になる娘は待機児童になり保育園に入れない。毎日娘の世話をしながら、夫以外の大人と話す機会はほとんどなく、気持ちがふさぎこんでいた。
「赤ちゃんと2人きりでずっと家にいる生活は孤独で、このままではいつまでたっても仕事に復帰できないと焦っていました。産後の体調はなかなか回復せず、朝から晩まで娘の世話だけで1日が終わってしまいます。体調がすぐれず、悲観的な気持ちからも抜けられず、産後うつのような状態でした」
子どもが預けられず、なかなか外に出られない。家にいながら、今後のキャリアにつながることが何かできないか。そう考えた時、京都で芸妓として働いていた自分の強みが生かせる仕事として思い浮かんだのは「着物」だった。結婚前の一時期、着付け師として働いていたこともあり、着付けの先生になることを目指そうと考えた。手始めに、娘が寝ている時間などを使って、着物の着方や着物の種類を紹介する写真や動画をインスタグラムに投稿し始めた。
ユーチューバーとの出会いで得た「発見」
転機は2020年2月だ。日本の生活を海外に向けて発信する「Paolo from TOKYO(パオロフロムトーキョー)」というYouTubeチャンネルを運営するアメリカ人YouTuberパオロさんから、取材の依頼が届いた。モエさんのインスタグラムを見て、「元舞妓」という経歴に興味をもったパオロさんが「日本のママと赤ちゃんの1日」に密着してYouTubeで紹介したいと連絡してきたのだ。
それまでYouTubeはほとんど見たことがなかったモエさんだが、自分の生活を少しでも変えたい一心でパオロさんからの撮影依頼を受けることにした。
取材を受けて驚いたのは、「YouTubeが仕事になる」という発見だった。
「直感的に『これなら私にもできる! だからすぐにやってみよう』そう思いました」
そこからのモエさんの行動はまるで稲妻が走るような速さだ。パオロさんからの取材を終えたその夜、「私もYouTubeをやってみたい」と夫に相談。翌日からYouTube開始に向けての準備を始めた。
「ローカルの視点はグローバル」がヒントに
YouTubeのコンセプトを考えていたモエさんの頭に浮かんだのは、舞妓時代に、海外事業を展開する京都の実業家のお客さんから聞いて心に残っていた「ローカルの視点はグローバル」という言葉だった。
外国からのお客さんを連れたこの実業家をお茶屋で接客していて、芸妓の先輩が「私たちは、祇園という小さな町のことしか知りませんので……」と言ったときのことだ。男性はこんな話をしてくれた。
「これからグローバル化はもっと進んでいく。その時、あなたたち舞妓・芸妓はとても重要な立場にいる。海外の人はローカルの視点にとても興味があるから、あなたたちのように日本の伝統文化を担っている人たちの話にも、関心を持つだろう。英語がしゃべれなくてもいい。でも、自分たちのやっていることに自信を持ちなさい。自分たちが普段当たり前に思っている『普通のこと』が、海外の人にとっては実に興味深い」
この言葉を思い出し、毎日作っている料理がコンテンツになると気づいたモエさん。家庭を訪問し夕飯のメニューを紹介するテレビ番組「突撃!隣の晩ごはん」のように、普通の人の食卓をとりあげる番組をイメージして撮影を始めた。
日本の食卓を海外に発信する「Kimono Mom」誕生
海外の視聴者を意識し、日本らしく、かつ自分のアイデンティティーにもつながる「着物」と、育児をする自身をそのまま表現する「ママ」を組み合わせて「Kimono Mom」をタイトルに取った。
パオロさんの密着動画の公開からわずか1週間後の2020年2月22日、YouTubeチャンネル「Kimono Mom」がスタートした。最初の動画を公開すると、数日の間に2万人近くのフォロワーが集まった。そのほとんどが日本に関心を持つ海外の人たちだった。コメントを見ると、300万人以上のフォロワーを持つパオロさんのYouTubeをきっかけに、モエさんのファンになったフォロワーがいることもわかる。
最初のうちは、慣れない編集作業のため、10分の動画作成に30時間以上かかったが、何かに突き動かされるように毎日休むこともなく動画を撮影・編集し、週1回のペースで配信していった。
「仕事がしたくてもできない産後の状況がつらかったので、現状を変えたい一心でした。『ある程度、自分が大変な思いをするようなことをしないと、自分を変えることはできない』そう思っていました」
自分を追い込みインスタライブも英語で
海外の人に向けた動画とあって、発信は英語だ。配信を始めた頃は、簡単なあいさつだけ英語で話し、残りは字幕を入れるだけだった。現在はインスタグラムのライブ配信を全て英語でこなしている。いったい、どうやって英語力をつけたのだろうか?
「配信のために3カ月くらい英語を集中的に勉強していた時期もありましたが、最近はなかなか勉強する時間がないです。英語の台本をAIのアプリに読んでもらい、その通りの発音を自分でまねして英語でナレーションをつけるという工夫をしています」
インスタグラムのライブ配信はアドリブの英語で行っている。「まだ自由に話せるレベルではない」というが、あえて英語でのライブ配信を続けて自分を追い込んでいるという。
後編に続く
ベック 知子(べっく・ともこ)
香港在住ライター
民放キー局で15年以上、アメリカの政治家へのインタビューや日米外交に関する取材を行ってきた。2024年にタンザニアに移住しライター活動をスタート。現在は拠点を香港に移し、海外で活躍する日本人をテーマに取材を続けている。著書に『40代からの人生が楽しくなる タンザニアのすごい思考法』(Kindle版)がある。