言葉というものは、諸刃の剣である。例えばお花一つとっても、「綺麗だね」「かわいいね」と言えばその言葉が吐き出された空間がポジティブで和やかなものになる。
「どうせ枯れるのに」「ただの草だろ」と言えばその空間はどんよりと澱んでしまう。
それくらい、口から出す言葉によって場の空気は大きく変わるので自分でも気をつけないとなと思う日々だ。
私は基本的に何事もネガティブに受け取ってしまう。せっかく人に褒めてもらっても、「そんなことないですよ〜」とやんわり否定してしまうし、「お世辞どうもありがとう。わざわざそんなこと言わせてしまって悪いな……」と思うくらい後ろ向きな性格である。
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そんな私だが最近は意識して世界をポジティブな目線で見つめるように頑張っている。
吹きつける風が冷たくても「なんかミュージックビデオみたいだな」と思うようにしているし、経歴が激ヤバなのも「逆になんかカリスマ性あんじゃね?」と思うようになった。
心の中で思う言葉も、結構日々生きる上で重要なのかもしれないなと感じる。
これを読んでいる方に聞きたい。心の声ってありますか?
例を挙げるとするならどこかのカフェに居て、「うっわめっちゃいい香りしてきた〜。バターかな?何焼いてるんだろ?でもあんまりカウンターの奥覗いたら不審だよな、見ないでおこう」などだ。
私の場合はこの声が出てくるのが大体くだらない場面で、式典の時やきちんとした行事の時はそんなに出てこない。それが幸いだ。弔いの席で「このお坊さんのお経、なんかリズム変だな〜」とか思ってしまったらアウト。きっと笑うに違いない。
割とどうでもいい心の声がノイズレベルで大きい。だから実際に聞こえている音よりもまず自分の心の声の聴覚処理でいっぱいいっぱいなのである。
鏡を見つめる時は大体一人で社会的に重要な場面ではないので、たくさんネガティブな言葉が思い浮かぶ。
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でも、そうして日々言葉と密接に隣り合って暮らしてきたおかげでうつ状態でどうしようもない時や失恋した時にもなかば本能的にエッセイを書けるのだと思う。
勿論、うつ状態の時はネガティブで世界を悲観するような言葉しか出てこない。それでも言葉にできないよりはできた方がスッキリするので、きっと良いことなのだろう。
言葉にするのが苦手な人が家族含めて周囲にいるが、そういう人たちは言葉以外の表現方法でそれを晴らしている。絵で自分の心の様相を描いて表したり、聴く音楽をちょっと激しめにしたり、体を動かすことで発散したり。
言葉というのは直接的なものなので、書いていて時折苦しくなる時もある。
それでも私は言葉と向き合っていたいのだと思う。というか、もう逃げられないという感覚に近い。アイデンティティになってきている。私から言葉をとったら何もなくなるし、私じゃないとすら思ってしまう。
ほぼ呪いじゃないか、と思う時もある。
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だからこそもっと学びを深めないといけないし、健全な範囲での楽観性を身につけて軽やかかつ朗らかな文章を書けるようになりたい。
いつまでも厭世的な観点で物を見ていても、きっと人に響く言葉は生まれてくれないだろうから。
社会はいつだって止まることなく動いている。その中でネガティブを撒き散らしていたって、一人で物哀しいだけだ。
■ヌートリアみゆうのプロフィール
@wahaha_jinsei