“タワマン文学”という新しいトレンドを生み出した作家・麻布競馬場が東京カレンダーのために書き下ろした最新エッセイ。
深夜の西麻布でたこ焼きを
西麻布の『オステリア ナカムラ』に入店すると、先に着いていたユズ太郎がスプマンテのグラスをチビチビやりながら、手元のメニュー表を凝視していた。
「ごめん、お待たせ」と僕が椅子に座りながら言うと、ユズ太郎は「ううん、大丈夫」と半分ほど空いたグラスを指さした。
「先に着いたら飲んでてね」とかわざわざ言わなくても、こうして食前酒をのんびり楽しみながら待っていてくれるのが彼のいいところだ。
「ここ、初めて来たけど最高だね。何を頼むか悩んでるだけで、あっという間に時間が過ぎてゆく」
メニュー表を僕に手渡しながら、ユズ太郎が嬉しそうに言う。
受け取って眺めてみれば、「洋なしとゴルゴンゾーラのオーブン焼 生ハム添え」といった前菜に「カニとポロネギのいかすみ入りタリオリーニ」といったパスタと、酒飲みが躍り出しそうな季節感あふれる文字列が気前よく書かれている。
そのうえ、手書きのメモ帳みたいなそれとは別に、店内の壁には黒板メニューまでもが誇らしげに掲示されている。そっちに書かれているのは定番メニューなのだろう。浮わついたところのない、どっしりと構えた品々ばかりだ。
手元から黒板へ、やっぱり黒板から手元へ……と、目が忙しくて、そして楽しくて仕方ない。これぞオステリアだ。
客としては、せっかくお店が用意してくれた最高の舞台で存分に踊るしかない。
「お互い初めてだし、定番をキッチリ押さえておきたいよね」
「そうだね、だとすると黒板メニューを中心に攻めるのが礼儀かな?」
「マッシュルームとパルミジャーノのサラダって、シンプルなようで店ごとの芸風が出るから気になるよね」
「いいね。白ワインをボトルで頼むとして、そうしたらシチリア風ミートボールはどうだろう?」
「シチリアと聞けば、いわしのマリネも行きたくなるね。お寿司屋さんで聞いた話だと、今年のいわしは素晴らしい出来らしくて……」
メニュー評定はいつものごとく長引いた。でも、それが素晴らしい店に対する礼儀というものだ。
ユズ太郎は、最近仲良くなった飲み友達だ。西麻布のホブソンズ側にある行きつけのワインバー『Cave de ASUKA』で、オーナーの明日香先生から「きっとあなたの好きなタイプの人間だから」と直々に紹介された32歳、つまり僕からすれば1歳下の後輩だ。
いざ会ってみると面倒なほどにこだわりの強い食道楽で、大変気が合った。
両親の仕事の関係で幼い頃から西麻布あたりの飲食店に顔を出し、今もそのあたりを中心に飲み歩いているという生粋の西麻布人である彼とは、特に連絡せずとも『Cave de ASUKA』でばったり出くわしたり、あるいは今日のように「新店発掘」のために予定を合わせたりと、よく一緒に食事をする関係になった。
結局、その日はパスタ一品、メイン一品と軽めに納めつつ、デザートとグラッパ、そしてダブルのエスプレッソはきっちりいただいて店を出た。
「いや、恥ずかしいことに今日の今日まで『オステリア ナカムラ』のことは知らなかったよ。いい新店発掘になったね」
環状三号線方面に向かう細い路地を歩きながらユズ太郎が感慨深げに呟く。
「いや、僕も最近、まりこさんに教えてもらって知ったところなんだ。西麻布は、掘っても掘っても新しい発見があるね」
僕もまた、しみじみと呟く。『オステリア ナカムラ』は、僕とユズ太郎の共通の行きつけである乃木坂の中華料理店『乃木坂 結』のマダム・まりこさんにお勧めしてもらった「新店」だったが、きっと二人とも“結”と同じように『オステリア ナカムラ』にも今後通い続けるだろうという予感があった。
そういう点で、今日の「新店発掘」は、二人にとって最も典型的で模範的なものと言えるだろう。
僕たちにとっての「新店発掘」は、まず第一に新規オープンした店ではなく「新しく知った店」を初訪問する行為を言う。
そして第二に、グルメサイトをこまめにチェックして情報を集めるというよりも、今日のように好きな店からの紹介で訪問することが多い。
好きな店のスタッフが勧めるお店はこれまた好きな店であることが多いし、ありがたいことに紹介元のスタッフから「今度うちの常連が行くらしいから!」と事前に連絡を入れてくれることもたまにあったりする。
そうなると、紹介元の店での信用貯金が新店でも使えるようになって、初めての訪問にもかかわらず、まるで常連客のように接してもらえるのだ。
それなりに当地で飲み食いしてきたという自負はある二人組のはずだが、今日もそうであったように、それでもやっぱり西麻布には素晴らしい「新店」がたくさんあると思い知らされるばかりだ。
オープンして数年が経ち、既にちょっとした老舗の域に入りつつあるレストランの中にも未訪問のところは多いのだから、新規オープン店ばかりを追いかけているわけにもいかない。
新規オープン情報をいち早くキャッチしては、誰よりも早く訪問し、気に入ったか否かにかかわらず再訪することはなく、また別の新規オープン店を回り続ける……。
そういう「新店スタンプラリー」みたいなことをやっている自称グルメも一昔前には結構いた印象があるが、最近はそういう行為がダサいという認識が知れ渡ったようで、幸いなことにあまり見なくなった。
店は自慢の道具ではなく、誰かと素敵な時間を過ごしたり、時にはひとりで心安らぐ時間を過ごしたりするための場所であるはずだ。
そのための場所にいつまで経っても辿り着けず、それでいて自慢げに馬鹿げたスタンプラリーをやり続けるなんてことは、不幸なことですらあると思う。
少なくとも僕たちは、新規オープン店をたくさん知っていることよりも、気に入った少数の店を深く知っているほうが楽しいし、かっこいいと思っている。
僕たちにとって、新規オープン店情報をまとめたインスタアカウントで10万人のフォロワーを集めることよりも、ロッシーニ氏やサンドイッチ伯爵のごとく自分の名前のついたメニューを常連の店に残すことのほうがよっぽど名誉なことなのだ。
かといって、新規オープン店をチェックすることがまったく無意味かと言うと、それは明確に違う。
街とは毎日少しずつ変わってゆくものであり、その変化にもっとも大きく寄与するものは、まさしく新規オープン店であると僕は思う。
新規オープン店を訪ねるということは、刻々と変わりゆく街の表情を一番近くで捉えることであり、一番新しい街の姿を特等席で楽しむということだ。
『オステリア ナカムラ』を腹六分目くらいで出た僕たちの、その後の行程はこうだ。
まず今年の夏にオープンしたばかりの『呑み屋 ぺりどっと』に顔を出すと大満席だったから、立ち飲みで唐揚げと白ワイン一杯、そして女将の橋本さんによる愉快な唐揚げペアリング講義を楽しむ。
ちょうど席が空いたという連絡を受けたので、次は六本木通り沿いの『飯処 角と』に移る。ユズ太郎が「実家」と呼び、しょっちゅう通っているというその店では、おばんざい3種盛りをつまみながら芋焼酎のソーダ割りを流し込んで内臓をスッキリさせる。そういえば、ここも去年の春にオープンしたばかりだ。
グラスが空いたところでユズ太郎と顔を見合わせると、お互い「まだ行ける」という意気込みを持っていることが無言のうちに伝わったので、「客単価の低い客ですみません」と女将のひとえさんに笑顔で謝りながら“角と”も早々にお暇して、本日の最後漂着地点である『たこあわ』に流れることにした。
ユズ太郎は「最期に飲む酒はシャンパン、それも可能であればブラン・ド・ブラン」と決めているほどの男だから、今年の8月にオープンした『たこあわ』は彼にとって天国のような場所だろう。
その店名のとおり、当店はタコ焼きと泡、つまり西麻布の公式飲料であるシャンパンを深夜27時まで楽しむことができる。
僕たちはカウンター席の奥に陣取ると、取り急ぎ「できたてポテトチップス」と「塩チーズオリーブのタコ焼き」を8つ、それからユズ太郎が気に入って自宅のセラーに何本も抱えているというブラン・ド・ブランのシャンパン「ペルネペルネ」をボトルで頼む。
「昔の西麻布って、こんな感じだったのかなぁ」
気付けば24時を回り、ボトルも7割方空いたところでユズ太郎が呟く。彼よりも西麻布歴の浅い大学上京組の僕は「どうなんだろうね」と返しながら、グラスに残ったシャンパンを一息に飲み干す。
平日の、それも日比谷線の終電はもはやなくなった時間帯だというのに、店内は大満員だ。いかにもエリートサラリーマンといった趣の仕立てのいいスーツを着こなしている人もいれば、どんな仕事をしているか見当もつかないラフな格好の人もいる。
大きな窓の向こうに見える六本木通りの歩道にもまた、同じように様々な格好の人が行き交う。
「そういえば、このお店がオープンする前、ここには何のお店が入ってたんだっけ」
今度は僕が呟く。「ほんとに忘れたの?西麻布を代表する名店だったと思うけど」とユズ太郎が店名を挙げた途端、その店で何度もビールやハイボールを飲んだ思い出が蘇ってきて、申し訳ない気持ちになる。
自己弁護になるが、そんな無責任な忘却はおそらく僕だけの怠惰な罪というわけではない。街は毎日、ものすごい勢いで変わってゆく。人もまたそうだ。
数年前は、バーで飲んでいたら「NFT領域でいろいろやっててさぁ!」と高い酒を気前よく呷っている人たちがたくさんいたが、ここ最近はすっかりその手の人を見なくなった。
先輩方に聞いてみると「そういえば、リーマン前はカタカナ不動産屋の経営者がオラついてて……」「そういえばさ、ITバブルの頃は半ズボン履いたヒルズ族がイケイケで……」と様々な思い出を次から次へと語ってくれたものだ。
店も、人も、そして街も、すべては無常だ。僕たちが日頃から通う店も、あるいは僕たち自身も、それから僕たち若輩者の愛する西麻布も、すべては一瞬のきらめきに過ぎない。
2024年に生まれた数多くの新規オープン店のうち、10年後に生き残っているのは数えるほどかもしれないし、そもそも新規オープン店が入っている貸店舗区画には、新築物件でもない限り、今や閉店してしまったいくつものレストランが賑やかなオープニングパーティーを開催してきた過去が潜んでいる。
油断すれば気の抜けてしまうシャンパンがこの街の象徴であることには、もしかすると深遠な意味または教訓があるのかもしれない。
残念ながら、僕が知る西麻布は今の西麻布だけだ。
僕が今いる『たこあわ』がそうであるように、僕にとって今の西麻布とは、グランメゾンで若い女の子に誕生日祝いのデザートプレートを持たせて写真を撮ることよりも、「別に金がないわけじゃないんだけどさ」とか冗談を言いつつ、世間の型に嵌まらない自分だけの楽しみ方を見つけて、それを仲間内で共有することのほうが価値があると信じる人のための街。
“ぺりどっと”で橋本さんから「レモンサワーよりも唐揚げに合うワインというのは確実に存在するんです」という講義を真面目な顔で聞き、“角と”でひとえさんから「うちは実家じゃないんですからね!」と冗談めいたお叱りを嬉々として受け止め、そして『たこあわ』で西麻布の過去と未来について話し合う……そういった、愛すべき面倒な人間たちの街。
「西麻布なんて、もうオジサンしかいないでしょ」「港区女子とか、もはや悪口だよ」とか言われても、「その通りでございます」と自虐の笑顔を浮かべながら、次の日もまた西麻布にやってきて、自分だけの方法で店を楽しみ、嬉々としてお金を落としてゆく人たちのための街。
「まぁ、昔から変な人たちが集まる街でしたよ。君らもその予備軍だろうし」
カウンターの向こうでタコ焼きをくるくる回しながら、このあたりの飲食店で長らく働いてきた店主の竜平さんがチクリと言う。
現在も未来も、つまるところ多少の演出変更の加わった過去の再演にすぎないのであって、そうであるとすれば、かつてここにあった店のカウンターにも、ユズ太郎と僕のような二人組が座って、深夜にブラン・ド・ブランを飲んだかもしれない。
「素晴らしいことじゃないですか。僕たちは立派な港区おじさんになってみせますよ」
「じゃあ、景気付けのためにも、最後にもう一杯ずつ。竜平さん、いいロゼスパークリングが飲みたいなぁ」
まだ飲むのか、と竜平さんは半ば呆れつつ、いそいそとセラーに向かう。
諸行無常を前にして、僕たちはいつだって無力だ。だとすれば、移ろいゆく街の表情を、新規オープン店のカウンターで眺めながら、うまい酒を飲むことくらいしかできない。でも、それで十分じゃないか。
かつてこの店のカウンターに座った先輩たちに敬意を表しつつ、僕たちは黙って乾杯をした。
■プロフィール
麻布競馬場 1991年生まれ。コロナ禍にSNSに投稿した文章が話題を呼ぶ。著書『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)でデビュー、2作目の『令和元年の人生ゲーム』は直木賞候補にノミネート。
X ID:@63cities
エッセイの舞台はこちら……
西麻布を牽引するふたりがタッグを組んだ話題店 『たこあわ』
2024/8/8 OPEN
オーナーは西麻布で数店舗を構える林 竜平さんと木曽信介さん。交差点から程近く、オープンな雰囲気で毎夜賑わう。
「たこ焼き」は常時8種で4個¥450~。街の新たな名所の誕生だ。
■店舗概要
店名:たこあわ
住所:港区西麻布4-1-15 セブン西麻布
TEL:非公開
営業時間:18:00~27:00
定休日:日曜