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【黒柳徹子】女優・山岡久乃さんの“お母さん精神”が大好きでした

  • 2025.1.14
黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第32回】女優 山岡久乃さん

「令和」という年号も、もうすぐ7年目を迎えようとしています。女の人の生き方も価値観も何もかもが多様化しているせいか、昔よりも、「徹子さんはなぜ結婚しなかったんですか? 独身主義ですか?」みたいなことを聞かれることが少なくなりました(笑)。生涯独身の人の割合も上がる一方だというし、「いろんな生き方があっていい」とみんなが考えるようになるのはいいこと。ただ、「みんなのお母さん」みたいな存在がいなくなっていることには、ちょっとだけ寂しさを感じます。

昭和の「ホームドラマ」には、「割烹着の似合うお母さん」みたいな存在が必ずいたんです。とくに、私が「お姉ちゃん!」と呼んで親しくしていた山岡久乃さんは、家事全般が大得意で、優しいだけじゃなくて、ときに厳しいことも言ったりとかして。私生活でもドラマそのままの面倒見の良さで、所属していた劇団の清掃員の人にまで手料理を振る舞うような、誰からも頼られる存在でした。1970年代、「徹子の部屋」とはまた別に、私が新聞で対談の連載をやっていて、そこに山岡さんに出ていただいたとき、「お母さん役は、いつ頃から?」と質問しました。そうしたら山岡さんは、「生まれたときから、ずーっとやってるみたい。子どもの頃から、そういうのが私の生きどころだったみたいね」と言って、「今日も、洗濯機が壊れて、片っ端から手で洗ってきました」なんて笑っているんです。「何もしないでじっとしているほうが疲れるわ」って。

「テレビの仕事が過酷すぎて嫌になったことはあります?」と伺ったら、「そりゃあありますよ。でもやっぱり『劇団のため』とか『生活のため』とか『ため』ってことがあるもの。それがなかったらお嫁に行っちゃってたでしょうね(笑)。いろんな『ために』があって人生ってできていくのよね」なんておっしゃって。素敵でしょう? 気っ風がよくて、カッコいいお姉ちゃんでした。

お姉ちゃんと私は、歳は7つぐらいしか離れていなかったけれど、戦争が始まったときに当時の義務教育を終えていたお姉ちゃんは、私とは違う苦労をされていました。宝塚の音楽舞踊学校に入学したのに、太平洋戦争によって、一度も舞台に立たないまま東京に戻り、「女子挺身隊」という未婚女性のための勤労奉仕団体で働くことになったそうです。お姉ちゃんが配属されたのは、軍需工場を監督する海軍の事務所。どうやら経理担当だったみたいなんですが、経理のおじさんが朝の海軍体操がうまくできなくて、若い少尉や中尉に殴られるのを忌々しい気持ちで見ていたそうです。でも、そのときにたまった鬱憤を晴らすために、トイレでイタリアのカンツォーネ……「帰れソレントへ」とか「オー・ソレ・ミオ」なんかを大声で歌っていたというから笑っちゃう。

当時は外国の歌を歌うことは禁止されていたので、朝礼で、「外国の歌を歌う非国民はここに置いておけない! 名乗り出よ!」と言われたんですって。お姉ちゃんは「殴られるのは嫌だから、名乗り出はしなかったけれど、次の日からハミングにした」なんて朗らかに笑っていました。「でも、こうやって話せるのも無事に生き残れたからよ」と。「戦争のみじめさだけは、どんなにくどくても、ちゃんと教えなきゃいけないことよ」とおっしゃっていました。

私が山岡さんを好きな理由はたくさんあります。でも山岡さんを思い出すとき、「あのときのお姉ちゃん、あったかかったなぁ」っていちばんに思い出すのは、一緒のテレビに出たときにスタジオで交わした、本当にささやかな会話なんです。その番組では空と屋根がたくさん映る場面があって、スタジオの中で作る人工の空だから、天井に白い紙を垂らして、そこに映写機で空を映す……みたいな感じなんですけど、わかるかしら? とにかく、紙の空だったから、ちょっとかぎ裂きができているところがあったんです。それで私が「あ、空にかぎ裂きがある!」って言ったら、そばにいたお姉ちゃんが、「あなた偉いわ。何十年もテレビをやってて空にかぎ裂きがあるのなんて慣れてるはずなのに。まだそういう新鮮さがあるなんて」と言って褒めてくれました。そのとき私は、お姉ちゃんこそすごい、と思いました。私より前から女優をやっていて、現場にも当たり前が増えて、鈍感になっていてもおかしくないのに、「常に新鮮であれ」という、人間にとって大切なことを忘れないのですから。

山岡久乃さん

女優

山岡久乃さん

1926年生まれ。東京市大森区(現・大田区)出身。42年宝塚音楽舞踊学校入学。44年中途退学し帰京。終戦後の46年、俳優座に入団。54年、俳優座の準劇団員10名で劇団青年座(のちに西田敏行が入団。33年在籍し看板俳優となる)を立ち上げる。56年、青年座の創立メンバーである森塚敏と結婚するも、71年に離婚。同年青年座を退団。映画、テレビ、舞台とあらゆるジャンルで活躍するが、「日本のお母さん」というイメージを決定づけたのは、視聴率50%超を叩き出した怪物ドラマ『ありがとう』(70〜75年TBS)だった。TBSの日曜劇場(当時は単発ドラマ枠)で主役を張ることも多数。森繁久彌を怒ることができた唯一の女優としても知られる。1999年2月胆管がんのため逝去。享年72。

─ 今月の審美言 ─

「いろんな『ために』があって人生ってできていくのよね」と話していた、不朽の“お母さん精神”が大好きでした

取材・文/菊地陽子 写真提供/時事通信フォト

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