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日本語お上手ですね!──見た目で「外国人」だと決めつけてしまう危険性【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.6】

  • 2025.1.10

Tairaの臨床モデル学 / Taira's Gender Studiesで、モデルの視点から社会を多角的に考察してきたTairaによる新連載「TAIRAのノンバイナリーな世界」では、日頃から何気なく成り立っている身の回りの「組み分け」にスポットライトを当てる。

曖昧なことやラベルを持たないことに不安を抱きがちで、なにかと白黒つけたがる私たち(と世間)だけど、こんなにも多彩な個性や価値観が共生する世界を、ゼロか100かで測れるのか。日常に潜む多くの「組み分け」を仕分けるものさしを改めて観察し直してみると、新しい世界や価値観に気づけるかもしれない。

モデルでライターのTairaが物事の二項対立的(バイナリー)な見方を取り払い、さまざまなトピックを「ノンバイナリー」に捉え直していく。

vol.6 日本人/外国人

Q1. “日本人”って何だろう?

この問いについては、日常的に考えを巡らせることがある。日本で生まれ育った自分にとって、人種/民族といった観点から自分と周りの違いを身をもって意識させられる機会はほとんどなかった。それが変わったのは、留学を機に欧米で暮らしはじめ、多様な背景を持つ方々と出会うようになってからだ。自分の外見に付随するマイノリティ性を意識せざるを得ない場面が増えたことで、「日本人」という概念そのものに深く疑問を抱くようになった。

振り返ってみると、自分は幼い頃から「日本人」という概念に漠然と違和感を感じていた節があった。例えば、オリンピックのように世界各国の代表が参加するイベントがあるたびに、“日本人”であれば当然日本を応援すべきだとされる雰囲気だ。もちろん自ずと日本の選手を応援することは多々あったけれど、生まれ育った国だからという理由だけで、個人的な親しみのない選手までも応援することが当然とされるのは不思議に感じていた。

大学で人文学系の講義を受けた際、こうした違和感を再考する機会を得た。アメリカの政治学者ベネディクト・アンダーソンの著書『想像の共同体』に出合う機会に恵まれ、ある種の答えが見つかった。アンダーソンは本書のなかで、<国民という概念は、直接的に全員が知り合うことのできない規模の共同体でありながら、人々がそれを一体の存在として心に思い描くことで成り立っている>という議論を打ち出した。つまり「日本人」というアイデンティティは、国籍や文化的背景に基づく書類上の定義を超え、国旗や国歌、教育やメディアなどを通じて形作られる、「自分たちは同じ共同体に属している」という感覚によって支えられていると捉えることができるという。また、大衆が抱く“日本人らしさ”やステレオタイプが、日々さまざまなコンテクストで繰り返し語られることによって、多くがイメージする“日本人”が継続的に再生産され続けているのかもしれない。

Q2. “外国人”って何だろう?

多くの場合、その国の国籍を持たない個人を指す言葉として広く用いられている「外国人」。それぞれが外国人と聞いてパッと思い浮かべるのは、一体どんな人物像だろうか?

自身が日本で通っていた大学には、海外からのいわゆる“外国人”留学生が多く在籍していた。彼/彼女らのなかには、学位取得後も就職などを通じて長期で日本に残って暮らす人も少なくなかった。しかしそんな友人たちでも、5年も経つと日本を出ていってしまうケースがほとんどで、彼/彼女らが共通して日本を離れる理由に挙げていたのが、「いつまで経ってもコミュニティの一員として扱ってもらえない」ということだった。長年日本で生活をし、言語や文化に精通していたとしても、周りからはいつまでも外部の人や一時的な訪問者として扱われる。結果として、「自分はいずれこのコミュニティから出ていく存在なんだ」という意識を払拭できなかったそうだ。

イギリスで“外国人”として暮らす今、それを意識させられる場面がまったくないわけではない。ただ、自分の友人らが日本で経験したほどに、常に外部の人間として扱われているような感覚は少ない(ロンドンで暮らしているから尚更だろうが)。もちろん、初対面で定番の「Where are you from?(どこから来たの?)」を聞かれることは多いが、それは「Where did you grow up?(どこで生まれ育ったの?)」というニュアンスが強く、見た目やアクセントなどを理由に相手を外国人と前提づけて接することはタブーとされている風潮がある。一方、日本では見た目が“日本人らしくない”と判断された場合、たとえその人が日本で生まれ育った個人であっても、「外部から来た人」として接されることが多いように思う。そうしたバイアスは無意識的なものであることがほとんどだが、差別的なコミュニケーションとして機能する危険性を孕む。

また、「外国人」といえば、自身が学生時代の頃にファッションヘアスタイルの表現として流行していた“外国人風”という言葉を思い出す。そしてそう表されたスタイルの多くは、いわゆる「白人」に多く見られる特徴のみが反映されていた。一方で、近年ネガティブな文脈で語られる“外国人観光客”という言葉には、特定の国々からの訪日客に偏って結びつけられがちではないだろうか。

このように、「外国人」に結びつけられるイメージは、マスメディアが描く言説や社会の文脈に大きく影響されている。そして、そのイメージは固定的なものではなく、時代や文脈に応じても変化していると感じる。

ファッションウィークで一緒だった韓国出身のモデル友達Jayとの写真。特に欧州では“アジア人”として一括りにされがちだが、日本においては「日本人」「韓国人」と区別される。
ファッションウィークで一緒だった韓国出身のモデル友達Jayとの写真。特に欧州では“アジア人”として一括りにされがちだが、日本においては「日本人」「韓国人」と区別される。

Q3. “日本人”と“外国人”はどうやって仕分けられてるの?

「日本人」と「外国人」を分ける基準は法的なものだけでなく、文化的な要素や社会的視点などが複雑に絡み合っているため、単純に組み分けるのは困難だ。法的な基準によれば、日本国籍の有無や戸籍への記載といった書類上の条件にしたがって、より明確な組み分けが可能だ。ところが、そのような法律上の線引きが個々の社会的・文化的な背景を反映しているとは限らない。むしろ私たちの日常生活では、その個人の法的な情報よりも、偏見やステレオタイプといった社会文化的な側面をヒントとした曖昧な仕分けが行われる場面のほうが多いのではないだろうか。

これまで自身が友人らと日本で経験してきたシナリオを思い起こしてみても、やはり個人の「見た目」が大きく関係しているように感じる。例えば、“日本人らしい”外見を持つが日本語を話せないAさんと、日本語に堪能だが“日本人らしさ”に欠ける外見のBさんと食事に行く。すると、ほとんどの場合、店員はAさんには日本語のメニューを、Bさんには英語のメニューを差し出す。店員からの会話も、自然とAさんには日本語、Bさんには英語で行われるというケースがほとんどだ。情報入力の80%を視覚に頼っているとも言われる私たちは、個人の見た目に結びついたアンコンシャスバイアスによって周りの世界を判断しがちで、それは日本人と外国人の組み分けにおいても大きく影響しているのではないかと思う。

次いで、その人が日本語をどの程度“自然”に操れるかによって判断される部分も大きい。先述の『想像の共同体』によれば、「言語」はコミュニティのアイデンティティ形成に大きな役割を担っており、同じ言語を話すことは「自分たちは同じ共同体に所属している」という意識を育むことに大きく貢献するそうだ。歴史を振り返ると、植民地支配下で被支配者に支配国の言語を強要した政策が数多く存在したというが、これも言語が共同体のアイデンティティを形作る鍵であることを利用していると見ることが出来るだろう。現代においても、日本語の発音やイントネーションの“正しさ”が無意識的な判断基準となることも多い気がする。

このようにして、「日本人」と「外国人」は、法律上では明確に定義され得たとしても、見た目や言動、偏見やステレオタイプが絡み合って曖昧に組み分けられている。法的には“日本人”であっても、社会的には“外国人”として扱われる場合があり、その逆もまた然り。グローバル化が進む現代において、こうした多層的で複雑な組み分けの有様は、私たちのアイデンティティやコミュニティの在り方を見直す契機ともなっている。法律で規定されるアイデンティティと、社会が作り上げるアイデンティティ。その間にある曖昧な領域を考えることは、ますます多文化化していくであろうこれからの社会を生きていく上でも大切な視点になり得るかもしれない。

Q4. そんな組み分けは必要?

昨今の日本ではインバウンド観光が活発化するなか、「外国人観光客料金」が話題になっていると耳にした。観光客であふれかえる一部の観光地では、“外国人”の方に対して割高な金額を提示しているレストランや施設が出てきているという。観光客による過度な混雑や地域リソースの限界といった複雑な事情が背景にあるのだろうが、それを理由に“外国人”と“日本人”という曖昧な仕分けを軸として価格設定を差別化する行為には法的・倫理的に問題があるように思う。

この議論を耳にして思い出したのが、去年の夏にパリで経験した出来事だ。メンズファッションウィークのすぐ後にパリオリンピックが開催された関係で、仕事でのパリ滞在がちょうどオリンピック開催と重なった際、その時期だけメトロの料金が通常の約2倍に引き上げられていた。パリのメトロは区間での料金変動ではなく、一回乗るごとに同じ料金がかかるため、短い区間のみの利用だとかなり高くついてしまう。しかしよく調べてみると、パリ在住者向けの定期パスなどは通常と変わらない金額で提供されていた。つまり、現地の人々への影響を考慮し、短期滞在の観光客に負担を求める目的で為された施策だったようだ。こうした施策は、観光地に負担をかけるリソースを補填する合理的な対応として捉えられる一方、透明性や公平性がなければ誤解を生む可能性もある。

一見明確なように思える「日本人」と「外国人」という組み分け。国や秩序を維持するためなど、文脈や目的によってはそうした組み分けが必要な局面も想像できる一方で、文化的・社会的な観点からの過度な組み分けは差別的かつ暴力的になり得る。この区分が一体何をもたらし、どのような影響を与え得るのか考えつつ、個々の尊厳や多様性を損なうことに繋がってしまわないよう十分に気をつける必要があるだろう。

Photos: Courtesy of Taira Text: Taira Editor: Nanami Kobayashi

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