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さびしいのも案外悪くない。その感情は、幸せを知っている証拠だから

  • 2025.1.10

人間とは何て矛盾した生き物だとつくづく思う。

私は、鏡に映る自分を見て「この人は誰なんだろう」と思うときが時々ある。
そのゾーンに入ると、何だか体が宙を浮いているような、心がどこか遠くへ行ってしまったようななんとも不思議で変な感覚に陥る。
そして、ふとさびしくなるのだ。

◎ ◎

家族がいて、友達がいて、彼氏がいて、私の周りには多くはなくてもちゃんと分かってくれる人たちがいる。
それはもう有難いし嬉しいことで、幸せだと日々思う。

充実した日々を送れることは当たり前ではないし、大切にしないといけないと意識しつつも、この日々が壊れてしまったらと怖い想像をしてしまうことがある。
周りの人が全員いなくなって、知らない街で一人ぼっちで生活しなければならない、そんな未来が絶対に来ないなんて言い切れない。

そんな未来はないかと笑って過ごせる日もあれば、そんな未来が来てしまったら私は耐えられるだろうかと震える日もある。
目の前にはちゃんと私を見てくれている人がいるのに、急にポツンと取り残されてる気がしてしまうのは何故だろう。

一人になりたいけど、一人になりすぎるとさびしくて悲しくて、置いていかないでと何かに縋りたくなる。
毎日必死に生きているつもりだけど、何か成長できているかと聞かれると答えられないし、生きている理由ってなんだっけ?と問いたくなる。
理由は分からないけれど、心がヒューッと音を立てて萎んでしまうような感覚がたまにあって、そんなときいつも考えることがある。

◎ ◎

人は結局、一人であるということ。
これはマイナスの考えではなくて、むしろプラスの考えで出した結論。
どうして結婚したいの?という質問に「一人で死にたくないから」と答える人をよく見る。
その度に私は思うのだ。死ぬときは誰だって一人であるのに、と。

結婚して子どもがいて孫がいて、そうして自分の寿命がきたときに「ありがとうおばあちゃん」なんて風に言われながらこの世を去れたらそれはもうきっと幸せのゴールであると思うが、そんなことは難しい。いつだって最後まで信用できるのはきっと自分、たった一人なのではないだろうか。

それは言い換えれば、自分ではあるものの、世界中でたった一人だけでも自分を信じられる人がいるということ。
昨日までは当たり前にそばにいた人が急にいなくなってしまうこともあるし、こちらから離れなければならないときだってあるかもしれない。

◎ ◎

高校生の頃は毎日のように一緒にいた友達と気づけば疎遠になって、もう何年も会っていないなんてことはざらにある。
会いたい、の一言を言えばいいだけなのに、会って今さら何を話そう、予定合わなかったらどうしよう、なんて先のことを考えてなかなか行動に移せない。
SNSでその姿を見かける度に会いたいなと思ってはさびしく思う。
これが大人になるってことか、と感慨深くもなれば、なんてさびしいんだとため息をつきたくなることもある。
行動のその先を考えて足がすくむ。良いのか、悪いのか、きっと良くない。

でも、さびしいと思うことは意外と悪いことではないと私は思う。
さびしいと思ってしまうのは、その人といることが楽しい、その環境が幸せだから、その状況がなくなってしまうことが悲しいから湧き出る感情であって、幸せを知らないままでは、さびしいという感情は出てこないのではないか、と私は本気で思っているし信じている。

◎ ◎

だから、さびしく思うことは悪いことではないし、むしろ幸せをちゃんと感じられている証拠なのではないだろうか。
ふとさびしさを感じてしまうことはあるけれど、私はこういう風に消化して、今後も向き合っていこうと思う。

■七草のプロフィール
本とラジオ、言葉が好き。

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