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樋口真嗣、監督になる|樋口真嗣の"ゲンバメシ"18

  • 2025.1.1

30代を迎え、監督として東宝撮影所に戻った樋口監督のランチ事情とは?「シン・ウルトラマン」、「シン・ゴジラ」など数々の日本映画を監督してきた樋口真嗣さんの、仕事現場で出会った“ゲンバメシ”の思い出を回想します。

樋口真嗣、監督になる|樋口真嗣の"ゲンバメシ"18

■ランチが評判の店

撮影所でスタートした私の仕事人生、おもい返せばずーっと撮影所ってばかりではありませんでした。
10年に一度の超大作といわれた1984年の「ゴジラ」をピークに特撮映画の需要はまたなくなります。

それを通常業務と呼んでいいのかわかりませんが、全国につくられる博物館の展示物とか、幕張にできたばかりのテーマパークの新規出し物の電気花電車の飾り付けや、お宝にありついた海賊たちや、世界はひとつを歌い踊るのロボットのメンテナンスなど。ちょうど明治維新廃藩置県から100年が経った区切りのいい時期だったのか、地方自治体開闢100周年を記念して雨後の筍のように博覧会が開催され,どこもかしこもラージフォーマットで上映する展示映像の製作を撮影所が請け負って、僅かながらの特撮っぽい仕事で食い繋いでいきます。

やっぱり撮影所でつくる映画はないのか……。
面白そうなものを探して大阪の自主映画作りの現場に潜り込み、その流れで新たにつくった制作会社でアニメーション映画の手伝いをしに東京に戻り、このままアニメの仕事をするのもどうなんだろうか?と悩んでた矢先に、憧れの監督が10年ぶりにつくる映画の話が舞い込んできて、居ても立ってもいられず飛びついて、その流れで合作映画に参加して香港に渡り,さらにそのまま香港映画の仕事をいただき香港にビザが切れて追い出されるまで居座って――思えば私の二十代はブレっブレでした。

そして東宝撮影所界隈に出戻った頃には、仕事を始めて間もない、食べるだけで充分幸せな食生活からだいぶかけ離れた放蕩の限りを尽くしていました。
そんなご身分からするとかつての憧れの食事たちも色褪せて見えて、何様だってスタンスで「なんかマシなもの食えないワケ?」とか抜かしやがって地獄へ堕ちろあの時の俺。

前置きが長くなりましたが監督と名乗るようになり、三十代に差しかかろうとすりゃ、いっぱしの美味しいものも一通り体験して、あの店のここが美味いなどと語れるぐらいにはなってきました。その上での東宝撮影所への帰還であります。

相も変わらぬ撮影所のサロンも、イマドキのカフェテリアスタイルになってたりしてましたが周囲の店は良くも悪くも変わらぬ佇まい。それも今となっては羨ましい光景なんですが、そんな中に変化、というかその存在に気づかなかっただけかもしれません。
撮影所の近くを掠め通る世田谷通り――国道246号線・玉川通りの三軒茶屋交差点から狛江市の神奈川県境の多摩川にかかる多摩水道橋に至る都道に面した小さな喫茶店の出すランチが評判になっていました。

それまでの中華、定食、そば、寿司といったバリエーションとは一線を画すモダンな、というか山手線の内側に生息するナウなヤングには欠かせない洋食を出す喫茶店……ではなく食後にコーヒーが出てくるレストランだったのです。

店の名前は「パナシェ」。ハンバーグ、鶏や豚のソテー、クリームコロッケやチキンカツ、各種パスタに和洋それぞれのオムライス。駅前や街中だったら当たり前に食べられるかもしれませんが、それが撮影所出てすぐのところでありつけるのだから堪らないではありませんか。

じっくり煮込まれたドミグラスソースや、絶妙のタイミングで火入れがされた卵液は今でこそふわとろとか半熟とかもてはやされていますが,まだ21世紀になる前のご時世にそんなオムライスはなかなか見たこと食べたことのないものでした。まさに食事情的に鎖国の続いた撮影所界隈に黒船来航、文明開花であります。

当然の如く昼飯時は争奪戦。行列ができなかったのは限られた昼飯休憩時間を列に並ぶ時間に費やすのは無駄だという判断でしょう。だから限りなく早くメシ休憩を発令する現場こそが最も優れたチームだったのです。それは時を超えて今でも同じなのです。残念ながら今の撮影所界隈は温かいメシを食べるなら、撮影所内のカフェテリアしか選択肢がないという末期的状況だから同様の事態に陥っていますが、あの頃はなんて贅沢な時代だったのでしょうか。

時々フライング気味に早めの時間に乗り込むと,テーブルが弁当箱で占拠されていて,世田谷通りを挟んだ向こう側のスタジオ、東宝ビルトを拠点に撮影している円谷プロの「ウルトラマンガイア」が昼飯の弁当を発注していたようなのです。
そんな無理が可能なのか!と地団駄を踏んだものです。

ところが、そんな至福の時は長く続きませんでした。
撮影所界隈を「パナシェ」閉店の噂がまさに電撃のように駆け巡りました。
その頃になると足繁く通い詰めて顔見知りになっていたマスターに事情を聞くと、ご両親の介護に端を発して不安定な撮影所周辺の売り上げの振れ幅、それに比べて安定した介護施設内の厨房勤務の誘い。
切実な事情が重なっての苦渋の決断だったようで、軽く辞めないでなどといえる雰囲気でした。
閉店が決まると当然の如く最後に食べたいお客さんが殺到して列をなし、とてもじゃないけど撮影中の昼休憩に行ける感じではなくなり、そのまま閉店と相成りました。

映画作りなんて所詮は夢マボロシの絵空事を紡ぐ浮草稼業。
全ては泡沫のように消えてゆくのです…。

イラスト
イラスト

文・イラスト 樋口真嗣

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