1. トップ
  2. 恋愛
  3. さびしさとの向き合い方、それは「わかってほしい」を諦めること

さびしさとの向き合い方、それは「わかってほしい」を諦めること

  • 2024.12.31

さびしさとは何だろう。しばらく考えた。

私はどちらかというと、1人で行動するのが得意な方だ。むしろ集団行動が得意じゃない。
20歳のとき、1人で映画を観に行った。1人で飲食店にも入るし、散歩にも行く。服を買うのも基本1人。気の赴くままに試着し、気が済むまで迷うことができる。「さっきのテナントの服、もう一度試着しよう」「やっぱりこっちが良かった」と行き来したって自由。1人というのは人に気を遣わなくていいのだ。

◎ ◎

学生時代、やたらと常に誰かといたがる子がいた。私からするとそういう子は「1人でいられない子」という印象で、正直苦手だった。

「なぜこうも1人でいたがるんだろう」「彼女は疲れないんだろうか、意味がわからない」と感じた。不思議で仕方なかった。

それから数年経って、「彼女はずっとさびしかったんだろうな」と思った。底が空いたバケツにいろんな人を入れるけど、満たされなかったんだろう。それ以上でもそれ以下でもない。

◎ ◎

なぜ理解できなかったのか。私は考えた。それは、私がさびしいと感じる時は、彼女とちょっと違うから。人が周りにいる時にこそさびしさを感じやすいのだ。これは一般的には、理解されにくい。

人がいるのに自分の主張が理解されなかったり、意図が伝わらない時にさびしさを感じるのだ。
しかもそれが伝わらないから、余計にさびしい。

彼女だけではない。私は昔から、家族など身近な人間に「自分の言いたいことへの理解」を無意識に求めてしまう傾向がある。

母親にも、「こういう意味で言っているのに、どうして伝わらないの」と声を荒げたことも何度もある。

◎ ◎

相手の言動に対する理想が高く、欲求が多いのだ。結局、私自身も穴の空いたバケツを人に埋めてもらいたがっていた。さびしさを感じていたからこそ人にずっと求めていた。
そのおかしさがずっと分からなかった。

そんなことを繰り返しているうちに、私は、人に「正確に自分の意図や思想が伝わらない」ということを諦め、受け容れることにした。

というのも、私だって人の意図を正確に読み取れているとは限らないのだ。その視点が、すっぽりと抜けていたのだ。

◎ ◎

それを自覚できるようになったのは、恥ずかしながらごく最近のことだ。
昔はそれをまったく自覚できなかった。ゆえに、人の気持ちも分からなかった、いや理解しようとしなかったのだろう。

「人といなければさびしいと感じるなんて、穴の空いたバケツのようだ」と一蹴する私だって、正確に相手の意図を汲めていないのかもしれなかったのに。

さびしさとの向き合い方、それは、自分の「わかってほしい」を諦めることだ。そしてそういった欲求を他人の中で見て非難するのではなく、まず自分の中にあったのだと自覚することだ。

◎ ◎

理解できない人のさびしさを「私は違うけど、そういう人もいるよね」と理解しようとすることではないかと思った。

それが、自分のさびしさも、他者のさびしさも受け容れるということではないかと思うからだ。

■愛のプロフィール
ライターのたまご。さまざまな仕事を経験した後、ライターとして独立したいと考え、現在に至る。 芸術・音楽・文芸が好き。 X @sp_ci_ay

元記事で読む
の記事をもっとみる