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己のプライドのせいで虎になった男の悲哀の話『山月記』に潜む笑いの可能性/斉藤紳士のガチ文学レビュー㉑

  • 2024.12.30

「山月記」はあまり小説を読む習慣がない人でも内容を知っている人が多い作品だろう。そして、その大きな理由のひとつが国語の教科書に載っているからではないだろうか。 そんな国民的な小説である「山月記」だが、学習指導要領が改訂され、教科書から消えてしまうかもしれないと言われている。 その理由が作中表現がもはや共通言語ではない、というものだが、実際どうなのか冒頭文を抜粋してみる。

隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついでに江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。ダ・ヴィンチWeb

確かに読みにくい。 「博学才穎」とは学識が豊富で才知に秀でていること、「虎榜」とは科挙に合格した者の名を記した札、などいちいち注釈をつけないと読み進むことができないので挫折する人も多いと思う。 しかし、分量としては短く、とても深い内容なので一読の価値はある作品だと思う。 簡単なあらすじを紹介する。

高名な詩人になるという夢にやぶれ、家族のために下級の官吏として働いていた李徴。 しかし、プライドを傷つけられた彼はついに発狂し、虎へと化けてしまう。 虎になった彼のもとにかつての友人、袁傪が現れ、李徴は事の顛末を語り、自分が作った百編の詩を伝録してほしいと言う。 結局、李徴は虎の姿のまま丘の上で咆哮するしかなく、そのまま物語は幕を閉じる。

いわゆる変身譚だが、もともと下敷きになっている唐代の伝奇小説「人虎伝」では、李徴は寡婦との逢瀬をある一家に妨げられ、その腹いせにその一家を焼き殺した因果応報として虎の姿になったとされている。 ところが中島敦は変身した理由をあくまで内因的な「己のプライドの高さゆえ」と創作した。 それこそが「笑い」に通じる点なのだが詳細はまた後述するとして、とにかく変身譚は物語の構造的に喜劇の要素が高いと言える。 いわゆる人外との交流が人間同士の交流として描かれる違和感は笑いに直結するし、また、客観的にその構図は笑いを誘う。 「山月記」で言えばそれは草叢越しに虎と人間が会話をしている場面である。 人間に向かって虎が「自分の詩を後世に伝えてくれ」と言い、詩を詠んでいる様はどう考えても面白い。

羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。ダ・ヴィンチWeb

いや、笑えるか! 笑った途端、食べられそうで怖いわ! と思うが、そこはシリアスな空気が支配している。しかしその後李徴は「帰りは襲ってしまうかもしれないから違う道を通ってくれ」と頼む。 やっぱり食われるかもしれんねやないか! と言いたくなるが、李徴はもうすでに自分が制御できなくなることがあるのだとわかる。 物語自体はシリアスなテーマが通底しているが、そこに仄かに漂うユーモアは先述した変身の理由にあると思う。 「因果応報」ではなく「己のプライドの高さ」を変身理由にすることによってそこに「哀愁」や「悲哀」が生まれる。 良質な笑いにはどこか「哀しみ」が内在しているものである。 ダウンタウンのコントに「トカゲのおっさん」というものがある。 至って普通のおっさんなのだが、何故か胴体がトカゲに変身しているおっさんの話で、そのおっさんには哀愁がある。 ドレスコードが必要なレストランにスーツを着て行くが、すぐに「トカゲの部分」を見られ化け物扱いをされたりする哀しいおっさんの姿は笑いを誘う反面、少し胸が痛む。 中島敦にその意図があったかどうかは不明だが、この悲劇的な小説のわずかなガス抜きとしての効果は確実にあると思われる。 そう考えると「プライドが高すぎて虎に変身した男」という荒唐無稽な設定も理解できるようになるだろう。

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