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「男たちよ、乳房だけを愛でるな」 農村女性の生きづらさを詩に込めて

  • 2024.12.30

「男たちよ、乳房だけを愛でるな」。40年前、こんな痛烈なタイトルの詩を発表した女性がいます。岩手県の内陸部、北上市で生まれ育った詩人、小原麗子さん(89)。結婚・出産へのプレッシャーが今よりもはるかに強かった時代に農村で生まれ育ち、「一人の人間として生きたい」と悩み苦しみながら独身を貫きました。かの地ではそんな小原さんの姿勢を慕う女性たちが共に学び、語らい、思いをつづるシスターフッドが続いています。

姉の自死 意味を問い続ける

それは小原麗子さんが10歳の頃でした。終戦間近の1945年7月、小原さんの姉が命を絶ったのです。姉の夫は出征中で、姉は体調を崩して入院中でした。当時、農村では、嫁は「角のない牛」と言われるほど朝から晩まで酷使されていました。「誰よりも働かなくてはいけない嫁の身分で入院していたところに、『夫が戦死した』という噂をきいてしまった。姉は将来を悲観し、追い詰められたのでしょう」と小原さん。戦死のうわさは誤りで、姉の夫は戦後、妻への手土産を持って生還したのですが……。

小原麗子さん

姉の死は、幼い小原さんの心に大きな影響を与えました。

小原さんは、のちに「姉を追い詰めたのは、『病気』だったのでしょうか。『国の非常時に死んでゆくのは申し訳ない』と姉は遺書にしたためました。国と夫。姉は、男の体制に詫びたのか」とつづっています。姉の死の意味を問い続けることが、ジェンダーの視点から家族や社会のあり方を問う原動力になったのです。

誰よりも早く起きて一日中働き、誰よりも遅く寝る。それが当時の嫁のあるべき姿でした。囲炉裏を囲む家族団欒は、冷たい土間に身を置いてせっせと薪をくべる嫁の忍従があってこそ成り立っていたのです。小原さんは「農村の嫁の悲劇が生まれる原因は、多くの家族的な美しさの中にもある」と、家族の調和が女性の犠牲に支えられる矛盾を早くから指摘しました。

母への詩「嫁にいかない私をゆるして」

小原さんは「一人の人間として生きたい」と結婚しない決意をし、農協で働きながら詩作に励みます。「詩を作るより田を作れ」と言われても、実家の小さな書斎で書き続けたのです。

「おふくろは『なして嫁さいかねんだべ』と心配していた。素直に嫁さ行けば喜んだでしょうが……」と振り返ります。「ゆるして下さい がつちやあー」は縁談が舞い込み始めた10代後半で、母に向けて詠んだ詩です。

「別冊おなご」の最新号を手にする麗ら舎のメンバーたち

小原さんは数々の詩や文章を発表、仕事にも励みます。40代になると地元の農協で初となる女性の次長職を打診されました。しかし「自分一人だけを昇進させるのは納得がいかない。男性と同等に働いてきた多くの女性たちが正当に評価されないままでは引き受けられない」と固辞します。真の意味での男女平等を願ってのことでした。そして農協を49歳で早期退職して、一軒家を購入します。いまから約40年前のことです。

小原さんの名前をとって「麗(うら)ら舎」と呼ばれた家は、地元の女性たちが集まり、読書をして、語らう場になりました。「(集まる女性たちは)みんな家だと『嫁』だから大変な思いをしているけど、ここだと自由に話ができた」と小原さんは振り返ります。

一人息子に死なれた母の思い引き継ぐ

小原さんの近所には、「南無阿弥陀仏」と念仏が刻まれた墓があります。高橋セキという女性が、戦後の貧しい生活の中で、一人息子を思って建てた墓です。セキが女手ひとつで育てた千三(せんぞう)は、太平洋戦争中、ニューギニアで戦死しました。23歳でした。セキは「自分が死んだ後も、戦争と戦死者が決して忘れられないように」と願い、家名ではなく、念仏を刻んだ墓を人通りの多い場所に立てたのです。

セキは66年に死去しています。小原さんはセキと面識はなかったものの、この墓の成り立ちを知り、追悼を始めたのです。麗ら舎が始まった85年から毎年、千三の命日周辺に「千三忌」を実施しています。

1965年8月12日付朝日新聞朝刊に掲載された、息子・千三の墓参りをする高橋セキ

地域の女性の思い、語り継ぐ場に

やがて麗ら舎は、幾世代もの女性たちの反戦の願いを引き継ぐ場になりました。「七度(しぢど)の飢饉(けがづ)に あうたてな 一度(えづど)の戦(えくさ)に あうなてよ」。麗ら舎に掲げられた書は、明治生まれのハギという地元女性の言葉です。

ハギの夫は日清戦争で、夫の弟も日露戦争で戦死しました。婚家に残されたハギと義理の妹は、義父から性暴力を受けて義父の子供を妊娠したのです。夫が出征中の女性に対する性暴力は、「粟まき」と言われました。粟は稲作の終わった後にまく作物からきています。

女性は男の所有物でしかない。だから「主」がいない女性を襲ってもいい。そういう女性を妊娠させることは、むしろ富国強兵の一環である――。そんな恐ろしい女性蔑視が浮かび上がります。被害にあった女性たちの多くは口をつぐみ、その無念は闇に葬りさられてきました。ですが、ハギはそれを「この世の地獄」だと断言し、「凶作に7度襲われる方が、1度の戦争よりましだ」という言葉と共に体験を後世に残したのです。

こうした女性たちの無念を受け継ぐ小原さんの決意が、麗ら舎の会報「別冊おなご」の第1号に記されています。 小原さんは「男たちよ、乳房だけを愛でるな」という詩で、男性に一人の人間として女性と向き合え、という強烈なメッセージを発したのです。

太平洋戦争で戦死した高橋千三の墓を拝む「麗ら舎」の人たち=2024年10月

地方でのジェンダー不平等いまも

小原さんにとって、麗ら舎の仲間は「共感者」だそうです。

「友達というよりは、私にとって、ご飯を食べるように必要なもの。この人たちの支えがあるからこそ、やっていける」

麗ら舎では不定期で例会を開き、本を読んだり、時事問題を話し合ってきたりしてきました。毎年出す文集「別冊おなご」は今年、第39号を重ねました。SNSのなかった時代から、女性差別、嫁姑問題や戦争体験など、女性たちが様々な思いを吐き出す場となってきました。

1回目から欠かさず参加する渡辺満子さん(92)は、第1号で戦後すぐに消化不良で亡くなった妹のことを書いています。「当初は文章を書くのがすごく苦手だったが、記録すること、継続の大切さを感じる」と語ります。

30年前から参加する奥州市の宮崎順子さん(87)は、戦時中に旧満州で過ごしました。「小学校のときに日本に引き揚げた。麗子さんに『戦争体験を書きなさい』と言われ、自分の胸にしまうだけではダメだと分かった」と振り返ります。事務局をつとめる佐藤弘子さん(76)は「この会では、男性も含めて誰もが対等に話し合える。男性と『子供を産む・産まない』という深いテーマを語ったこともある。他の場所では考えられない」といいます。

小原麗子さん(左から2人目)が主宰する「麗ら舎」の集まり

メンバーが集まると、にぎやかで笑い声が絶えません。お菓子を持ち寄り、近況交換をしながら会が進みます。その時のテーマとなる文章を声に出して読み、心と体に浸透させながら平和への思いを新たにしてきました。小原さんは「1年ごとに繰り返していたら40年になっていた」と語ります。

少しずつ状況が変わりつつある大都市に比べると、地方のジェンダー平等はまだまだ進んでいないように思えます。それゆえにいまも地方から都会に流出する女性も少なくありません。年末年始に地元に帰省する女性たちは、多かれ少なかれそれを肌で感じるでしょう。それでも、小原さんのように地域に根ざしながら、自分の言葉でフェミニズムを獲得してきた女性たちは日本各地にいます。そういった女性たちの力強くしなやかな歩みは、今を生きる私たちに大いなる前向きな力を与えてくれるのです。

1985年に第1号が出た「別冊おなご」

■伊藤恵里奈のプロフィール
朝日新聞記者。#MeToo運動の最中に、各国の映画祭を取材し、映画業界のジェンダー問題への関心を高める。

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