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『お引越し』『夏の庭 The Friends』4Kリマスター版が公開中!没後23年を経ていまなぜ相米慎二監督作は世界で評価されるのか

  • 2024.12.28

近年一段と世界的に、レトロスペクティブや特集上映が開催されている相米慎二監督。2021年の金馬奨(台湾・香港のアカデミー賞)で特集上映が組まれ、名匠ホウ・シャオシェンが『台風クラブ』(85)を絶賛、今年開催されたヴェネチア国際映画祭では『お引越し』4Kリマスター版がクラシック部門の最優秀復元映画賞を受賞した。こうした海外での再評価を経て、前述の『お引越し』(93)と『夏の庭 The Friends』(94)の4Kリマスター版が公開中だ。没後23年を経て、なぜいま相米作品が世界で高い評価を受けているのか。映画評論家の轟夕起夫氏に相米作品の特徴と合わせて解説してもらった。

【写真を見る】(左から)北米版、フランス版、イタリア版、台湾版の『お引越し』ポスタービジュアル

【写真を見る】(左から)北米版、フランス版、イタリア版、台湾版の『お引越し』ポスタービジュアル [c]1993/2023讀賣テレビ放送株式会社 原作:ひこ・田中「お引越し」
【写真を見る】(左から)北米版、フランス版、イタリア版、台湾版の『お引越し』ポスタービジュアル [c]1993/2023讀賣テレビ放送株式会社 原作:ひこ・田中「お引越し」

「女性目線」の繊細な描写は時代を先んじていた

『お引越し』4Kリマスターの公開に合わせ、当時11歳の演技初心者ながら、俳優&映画デビューした特別な経歴を持つ田畑智子さんに取材する機会を得たのだが、いささか遅すぎた相米監督の国際的な評価の動向について彼女はこう述べた。「私としては“やっと見つけてくれた!”と感じています」と。

境遇は全然違うものの筆者の思いも同じだ。まだグランプリ制度が導入される前、『お引越し』は第46回カンヌ国際映画祭“ある視点”部門への出品作であったが、同じく選出されていた北野武監督の『ソナチネ』(93)のほうが注目され、欧州での評価軸となった。単純な比較はできないけれどもその美点が当時はおそらく、伝わり切らなかったのだろう。

『お引越し』は要約すると離婚目前の両親(中井貴一・桜田淳子)に挟まれた小学6年生、多感な少女レンコの物語と言える。かたや『夏の庭 The Friends』は“死”に興味を抱く小学6年生の男子3人組が近所の独居老人(三國連太郎)の最期を目撃しようとして、忘れ難い経験をするに至る。どちらも鮮烈なひと夏の「子どもの映画」だが、同時に冷徹な目で大人たちを描いた作品でもある。

三國連太郎演じる孤独な老人と3人の交流を描いた『夏の庭 The Friends』 [c]1994/2024讀賣テレビ放送株式会社 [c]1992湯本香樹実/新潮社
三國連太郎演じる孤独な老人と3人の交流を描いた『夏の庭 The Friends』 [c]1994/2024讀賣テレビ放送株式会社 [c]1992湯本香樹実/新潮社

公開からおよそ30年後、『お引越し』は撮影担当の栗田豊道氏の監修の元、4Kリマスター修復され、2023年、第80回ヴェネチア国際映画祭クラシック部門で最優秀復元映画賞を受賞。さらにはフランスで劇場公開されるや当初の数館から130館以上にまで拡大を果たし、台湾、米国、オランダ、スイスなどでも上映された。『夏の庭 The Friends』4Kリマスター版は今年、大々的な相米監督特集を組んだ香港国際映画祭にてワールドプレミア上映、こちらも好評を博した。

『お引越し』には 宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を思わせるシーンも [c]1993/2023讀賣テレビ放送株式会社 原作:ひこ・田中「お引越し」
『お引越し』には 宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を思わせるシーンも [c]1993/2023讀賣テレビ放送株式会社 原作:ひこ・田中「お引越し」

これは時代がようやく、相米作品へと追いついたのか?2024年、米国ニューヨークの劇場で久々に『お引越し』を観返したという田畑さんは自身が母親の立場になったこともあり、少女レンコだけでなくその母ナズナの気持ちに共感したそう。なるほど、仕事をしつつの子育ての大変さであったり、何かと夫と言い争うのが煩わしくて“自分”を心の内に秘め、それでつい不機嫌になってしまう「女性目線」の繊細な描写は確かに(日本映画の中では群を抜いて!)時代を先んじていた。が、もしかしたら終盤、レンコがひとりで彷徨い、森を抜け、辿り着いた琵琶湖畔にて厳かな祝祭的体験をするという作劇のかぶき方のほうが画期的だったのかも。さながら世界を席巻した宮崎駿アニメ、あの『千と千尋の神隠し』(01)の登場を予告しているようだ。

通常の長回しではなく、キャスト&スタッフ陣が一丸となった“懸命なる念写”

『風花』を遺して2001年に亡くなった相米慎二監督
『風花』を遺して2001年に亡くなった相米慎二監督

相米レトロスペクティブは若い世代も足を運び、数年ごとに盛り上がりを見せているが、2021年のメモリアルイヤーには日本各地で「没後20年 作家主義 相米慎二」と題した特集上映が行われた。そして2023年。ニューヨーク市にて「Rites of Passage:The Films of Shinji Somai」(「相米慎二の世界:不朽の青春」)が開かれた。北米での特集上映は初の試みで、主催は日米交流団体ジャパン・ソサエティーの映画部である。プログラムは『セーラー服と機関銃』(81)、『ションベン・ライダー』(83)、『魚影の群れ』(83)、『ラブホテル』(85)、『台風クラブ』(85)、『光る女』(87)、『東京上空いらっしゃいませ』(90)と長編13本のうち約半数を網羅したのだが、注目すべきはサブタイトル「不朽の青春」――。原語の「Rites of Passage」を和訳すれば“通過儀礼”となり、少年少女がさまざまな試練を乗り越え、大人へと一歩踏み出していくこと。いや、大人であってもイニシエーション的な時間を生きる相米作品の肝が、もはや明確に共有されているのであった。

さて、同レトロスペクティブに長文コメントを寄せ、英訳、抜粋をされて使われたのは現代日本映画の旗手、濱口竜介監督だ。そのコメントは以下の通り。

「No Japanese filmmaker makes a film without being conscious of Shinji Somai’s existence.(相米慎二の存在を意識せずに映画を撮る日本の映画作家はいない)」「For anyone who wants to see a movie that has the power to change and sustain your life, I urge you to see Shinji Somai’s films.(人生を変え、持続させる力を持った映画を観たい人には、ぜひ相米監督の作品を観てほしい)」

ここで省略された箇所から、重要な一文を意訳してみる。こんな感じになるか。

「今回のラインナップを観れば相米監督のスタイルの特徴は長回しであることにすぐに気づくだろう。しかし、オーソン・ウェルズやテオ・アンゲロプロスのそれと比べてはいけない。かような視点からは当時の日本映画が追いやられていた貧しさを感じるだけだ。相米作品のカメラは、人工的なスタジオで作られた“物語”を投げ捨てるかのように、冒険の中にしか存在しない時間と空間へと飛び出し、演技以上の何か、その時空間に置かれた身体、つまりは被写体の“生の本質”を執拗に追求したのである。驚異的な長回しとはそうした執念、情熱の副産物に違いない」

公開記念イベントには森井勇佑、行定勲、黒沢清、瀬田なつき、山中瑶子が登壇
公開記念イベントには森井勇佑、行定勲、黒沢清、瀬田なつき、山中瑶子が登壇

通常の長回しに非ず、なのだ! 相米作品のロングテイクを、意志強固な監督の指揮のもと、キャスト&スタッフ陣が一丸となった“懸命なる念写”と呼んでみたい。例えば『魚影の群れ』。いわゆるアイドル映画、子どもの映画から満を持して大人のドラマへ挑んだ相米監督と、稀代の名優だった緒形拳との一度限りのマッチアップ。役柄はマグロ漁に体を張る一徹な男で、本州最北端の地、下北半島の漁港、大間でのオールロケを敢行し、小型船上における一本釣りを凝視したワンシーンワンカット撮影は荒海と巨大マグロとの闘いの末、本当に釣れるまで続けられた。

あるいは登場人物総出演、主人公レンコの未来像を点描してゆく『お引越し』のエンドロール。朝から準備をして夕方にやっと本番というのは相米組の定番だが、このシーンもそうなった。演じる田畑さんは一気呵成に多彩なシチュエーションに立ち会い、樹の陰で2度、早着替えをする(髪型も変える)。最後にすれ違う、自転車に乗った後ろ姿の豆腐屋は彼女のお父様で、現場見学へと赴いたらエキストラとして出ることに。延々とリハーサルにも付き合ったのだが、レンコが終幕で到達する表情には虚実入り混じった“生の本質”が宿っていて、映画はやはりそれをとてつもないチームワークで念写しているのだ。

『東京上空いらっしゃいませ』も35mmフィルムでBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下にて限定上映中 [c]1990 イール・トウェンティ・ワン/バンダイビジュアル/松竹
『東京上空いらっしゃいませ』も35mmフィルムでBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下にて限定上映中 [c]1990 イール・トウェンティ・ワン/バンダイビジュアル/松竹

ちなみに、画面奥から手前に向かってくる『お引越し』のエンドロールの構図は、相米の監督デビュー作『翔んだカップル』(80)と対応しており、筆者は“第二のデビュー作”だと思う次第。“死と再生”のテーマをファンタジーに落とし込んだ前作『東京上空いらっしゃいませ』(90)を撮ったあと、もしかしたら「映画を辞めてしまう」可能性もあったのだが、そこからの復活という意味でも。次に着手した『夏の庭 The Friends』は“死”への疑問、子どもたちの素朴な好奇心と、独居老人の戦争の記憶をクロスさせ、そして、いつも以上に“生きることの綱渡り”を濃厚に綴って円熟味を感じさせた。

「役者が映画をつくる」ことを信じる

相米作品には1本として正調な、整った完成品はない。奇をてらうのではなく、映画だからこそ表出させられる「奇なるもの」を最初っから狙って、掴み取ろうとしている。物語はそのためのステップボードになる。従って、歪な展開に陥ったり、「なぜ映画でなければならないのか」を自己証明しようと一種無謀な撮り方を推し進め、困惑させることも。だが観る者に「自分はいま、しかと相米作品と対峙している」と強く意識させる醍醐味もまた特性で、その奇矯な魅力はたびたび、賛否が分かれたのだった。

『お引越し』撮影当時小学6年生だった田畑は相米監督から何度も走らされたという [c]1993/2023讀賣テレビ放送株式会社 原作:ひこ・田中「お引越し」
『お引越し』撮影当時小学6年生だった田畑は相米監督から何度も走らされたという [c]1993/2023讀賣テレビ放送株式会社 原作:ひこ・田中「お引越し」

賛否と言えば、相米組の現場の伝説的な過酷さも挙げられる。撮影所システムが十全に機能しなくなっていく中で、リハーサルを繰り返して役者をギリギリまで追い込み、プロフェッショナルなスタッフたちにも無茶振りをし、底力を引き出して結集させていく方法論はやがて、90〜00年代には許されなくなってゆく。なおも相米組を愛し、反面、本読みやリハーサルを独自にアップデートさせた代表格が先の濱口竜介監督だが、取材の場で筆者に「相米監督にはアンビバレントな気持ちを抱いている」と語ったことがある。いつの間にやら自分の心に棲みついてしまった相米慎二は「お前の考え、やろうとしている意図は分かるけれど、それっておもしろいの?」と問いかけてきて、反発しながらも対話をしている」のだと。そう。この世を去っても、存在を意識せずに映画を撮る日本の映画作家はいないのである。

彼がリハーサルを何度も繰り返し、容易な答えを与えず、現場でひたすら待ったのは「役者が映画をつくる」ことを信じていたからだろう。スタッフに対しても。グラデーションはあるが、相米組を経験した者は皆、とんでもないエピソードからは考えられぬ、親密な言葉を捧げている。誰であろうと尋常ではないポテンシャルを引き出し、“生の本質”が宿ったシーンを念写させた男――人ったらしであり、こりゃあ並外れた「映画たらし」だ。

文/轟夕起夫

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