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「年末の家族」を乗り越えて|抜毛症のボディポジティブモデルGenaさん連載「私が祈る場所」

  • 2024.12.23

日本に住んでいたとき、年末が近づくと空気の匂いが変わるのを感じて、毎年憂鬱な気持ちでその空気を嗅いでいた。

気温はどんどん下がっていくのに、反比例するように街は盛り上がっていく。楽しそうな人々と慌ただしそうな人々が行き交う。

クリスマスと正月、フライドチキンとおせち、クリスマスプレゼントにお年玉、帰省に買い出し、大掃除に忘年会。そんなものが全部一度に混ざったような、ハレの日が連日続くような高揚感のある雰囲気の中にいても、ふと自分の気持ちがひどく冷めているのを自覚する。

私の実家がある地域には古き良き商店街が残っている。シャッター商店街が増えたと言われる今日この頃、生き残った商店街は人が人を呼び、年末にはすさまじい賑わいを見せる。おせちのための買い出しに母に付き合っていたときは両手にクーラーボックスと買い物袋を持ち、人をかき分けて母について回りながら、冷蔵庫の空きスペースがあとどれぐらい残っているのかをときどき母に思い出させなければいけなかった。

商店街どころか、ドラッグストアもデパ地下もどこもかしこも混んでいる。師走の空気が蔓延していて、いやでも年末が近いということを実感する。

最近でこそ年末が辛いとか実家に帰りたくないという声がSNSで目につくようになってきたけど、私も年末に気が滅入る人間の一人だった。この時期に家出を試みたこともある。

幼い頃はサンタクロースからのプレゼントやお年玉、従兄弟たちに会えることなんかを心待ちにしていたのにね。

必ずしも「大人になる」ということが「純粋に楽しみな気持ちを失う」ということではないと思うけれど、自分が大人になる過程では心をすり減らしてしまった感じがしている。

私と妹が幼かった時分から、年末年始は東京の西の方にある父方の祖父母の家で過ごすのが恒例だった。

大体毎年12月の28日ぐらいから泊まり、元旦の昼過ぎには出発して今度は神奈川にある母方の祖父母の家に向かう。こうすれば両方の家で元旦を過ごせ、それぞれに帰省している親戚たちとも顔を合わせることができるから。

両親は慌ただしくしていたと思う。私と妹は栗きんとんをつまみ、従兄弟たちと遊び回り、お年玉袋に誰からもらったのか分からなくならないように名前を書いたりして過ごしていた。

年末ぎりぎりではなく28日から行くのは、祖父母の家の大掃除とおせちの仕込みをするからだった。

元々は平屋だったのを改築して二階建てにした昭和の家で、廊下や洗面所はひどく冷え込む。この家のほこりを叩き、窓を磨き、お風呂場をぴかぴかにし、金魚の水槽を洗い、台所の掃除もしつつ平行して母によるおせちの仕込みが始まる。

私は小学校低学年ぐらいまではよく仏壇の掃除を担当していた。金属で出来た仏像やお榊をピカピカになるまで磨いた。
合間に母が買い忘れたという料理酒を買いに出たりなんかして。

祖父母はとてもありがたがっていた。祖父に至ってはお小遣いもくれた記憶がある。お年玉まであと数日なのに。いいんだいいんだ、といつもの赤ら顔で言っていた。

大体の場合、年末の大掃除は31日の早い時間には終わったが、おせちの仕込みは日付が変わるぎりぎりまで続いた。

私は母に早く休んでほしくて、可能な限りの手伝いをするようになった。次の仕込みはなに?足りないものはない?お重を洗っておくね…。
子供なりの助力に反して、その後に起こったことといえば、おせちの種類が増えたことだった。母が増やしたのだった。私のことを戦力になると判断した母が自分の理想を追求した結果だった。

(祖父母の名誉のために書いておくけれど、彼らは嫁である母をこき使ったり手作りのおせちを強要したりなんかしなかった。すべてはこれが正しい年末年始の過ごし方だと信じる母が義理実家で意気込んでいたのだった。)

母はもともとなんでも手作りがいいと信じる熱心な手作り狂で、おせちに関しても妥協がなかった。
最初の数年は頼りにしてもらえるのが嬉しくて頑張ったけれど、頑張るほど仕事量が増えて、母からの要求も多くなり、がっかりして、そしてまたイライラするようになった。

気がついたら私は母の労働力の一部として当然のように組み込まれていた。もし手伝わなかったら、除夜の鐘を聞きながら私たちがテレビをみる間に、台所で母が飴にまみれた田作りを広げる作業をすることになるのが目に見えている。

だから途中で放り出すわけにはいかなかった。母が自分自身を人質に取ることで、怠惰な娘である私を働かせている気がした。

誰かの期待に応える形で自己ベストを更新し続けたら、その誰かが次にもっと高いハードルを用意してくるような事象は、その後の人生で幾度も経験している。何度も同じような状況を招くあたり、私は本当に学習していない。もうそういう性分なのだと割り切るしかないだろうか。

これがよくないのは、義務感とか期待に応える形で行動している場合、自分の頑張りが誰かに吸い取られ続ける感じがすることだ。そうして私は干からびる。

次第に年末年始は楽しい思いもする以上に、自分から出ていくものが多くなる時期になった。

それに輪をかけたのは親戚の存在だった。裕福な伯父家族は大掃除に参加せず、その代わりに毎年のように旅行に行く。元旦に来ておせちを食べ、その罪滅ぼしのように多めのお年玉をくれた。大きくなるにつれて、年末年始の戦力になるにつれて、金額は跳ね上がったから私は戸惑った。

自分や父母の労力が、勝手に値段をつけて買われた気がした。戸惑いは怒りになり、高校生のころの私は高額のお年玉にむかついていた。

それに彼らは母の力作のおせちを食べて、大変だろうから来年からはおせちは買おうと言う。人も料理も、なんでも金で買えるんだな、と冷え冷えとした気持ちでそんな会話を聞いていた。

母の一部のようになって料理や掃除を押しつけられるのに反発する反面、伯父たちが自分たちの労働にお金を払っているような気がすることに母の分まで怒りを感じるなんて。
自分の認識の中で、母との境界線がどれだけ淡かったのか今なら少しだけ客観的に見れて、こんな風に文章にまでできるようになった。

だけど当時は整理できない思いが胸の中で渦巻いていて、怒りは重たい憂鬱になって心の奥に沈んでいた。

違う過ごし方をするようになった今でも、日本の年末のあの空気というのは当時の憂鬱さを思い出させる。

母が自分の実家で行われていた家父長制の習慣を、義理の実家でも再現しようとして、私はそれに巻き込まれていたんだと思う。ちょっと特殊なケースかもしれないね。だって父方の祖父母は誰もそんなことを強要しなかったのだから。

そんなことを自発的に始めた母に、私はずっと反発していたのだと今、32歳になって腑に落ちた。

そんなややこしい状況は、祖父が亡くなり、祖母が長く老人ホームへ入居したことで終わりを迎えた。
毎年せっせと掃除したあの家は、誰にも引き継がれることなく売りに出され、今ではまったく違う人が住んでいる。

私は今でもときどきあの家を見に行くことがある。

子どもの頃、私の人生の基礎になるようなたくさんの愛情をもらった家。成長するにつれて、次第に苦しくなって、逃げ出したこともあった家。

人手には渡ったものの、まだあまり改装されていないようで、かつての面影を見つけることができる。

最近、私の中で第二次オカルトブームが来ていてYouTubeでいろいろ見ているなかで、面白いことを聞いた。一説によればどうやら家というものは呪物であるらしい。

家という漢字は、ウ冠の下に豕という字が組み合わされて成り立つ。豕というのは豚を意味し、つまり家という漢字は「生贄の豚を祖霊に捧げる霊屋」であると解釈できる。

何かを犠牲にして祖先の霊を祀るために建てられた家、古くはそれを親から引き継いできた。引き継がれるのは建物だけでなく、家族間で果たすことを求められる役割や扶養関係など、家族の繋がりやしがらみをも含む。

年の瀬近くに見たこともあって、自分の体験ともリンクして妙に納得してしまった。

ここで書いている私の子ども時代は平成の関東の話なので、それほど要素は濃くはないかもしれない。

それでも一族の中心的存在だった祖父の死をきっかけに親戚は集まらなくなり、家は人が集まる場としての機能を徐々に失い、最後は他人の手に渡った。そして緩やかに家族の網がほどけていった。あれほど頻繁に顔を合わせていた親戚とも、もう何年も会っていない。

今、こんなエッセイを書いているのは、自分が長年の呪いから解放されつつあるのを感じているからだ。

ベルリンの年末は、もちろん日本とも空気が違う。

でも場所を離れたからではなくて、私が本当に大人になったからなんだと思う。

自分で選んだ家族を持ってはじめて、私はあの呪いのような気持ちから解放されたような気がする。

失うことで新しく得るものがあると言うけれど、この言葉がとてもしっくりくる。

幸せな時代や苦しい時代を経てある家族が終焉を迎え、私たちは新しい家族(それはもちろん必ずしも婚姻関係に限定するものじゃなくて)を選び、繋がっていく。

そんな家族観を得た2024年の年末。

来年はどんな年になるかな。

25という数字に縁があるので(私は25日生まれ、小学生のころの出席番号はだいたい25番前後だった)、なんとなく自分にとってラッキーな年になるんじゃないかという気がしている。

写真
おそらく年末の大掃除中、父が撮影した写真。

もう一方の家の家父長制については個人ブログにも少しだけ書いています。

Gena

90年代生まれのボディポジティブモデル。11歳の頃から抜毛症になり、現在まで継続中。SNSを通して自分の体や抜毛症に対する考えを発信するほか、抜毛・脱毛・乏毛症など髪に悩む当事者のためのNPO法人ASPJの理事を務める。現在は、抜毛症に寄り添う「セルフケアシャンプー」の開発に奮闘中。

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