1. トップ
  2. 恋愛
  3. 「あと何回、母と島根に来られるだろう」未来を思い寂しくなる私の癖

「あと何回、母と島根に来られるだろう」未来を思い寂しくなる私の癖

  • 2024.12.23

私は昔からずっとお別れが苦手だ。

一番古い「お別れが苦手」な記憶は、幼稚園の頃。家に泊まりに来てくれていた祖父母が帰る際、玄関先で「行かないで」と毎回泣いていた。次に思い出すのは、年に1、2回しか会えない従兄弟とお別れする時だ。同じように「行かないで」と叫び、従兄弟が去った後もずっと泣いていた。

生きていく中で繰り返される「小さな別れ」の体験を通じて、別れの痛みや寂しさにはだんだん慣れていくものだと思っていた。しかし私は、大きくなるにつれて「人」との別れだけでなく、「時間」との別れにも寂しさを感じるようになった。

◎ ◎

高校生の時、初めて大好きな漫画のイベントに参加した。その帰り道、「もうこの楽しかった時間は二度と戻ってこないんだ」と思い、泣きながら歩いた。
大学生の時、サークル仲間と全力でオールカラオケを楽しんだ帰り道も、同じように「もう二度と戻ってこない時間」を思って、電車の中でひっそり泣いた。

社会人になってからは、ストレスが増えたせいか楽しい時間がより貴重なものに感じられるようになり、涙する回数も増えていった。そして、「人」との別れや「時間」との別れに加え、「いつか起きる別れ」にも辛さを感じるようになっていった。

◎ ◎

去年の夏、母と一緒に母の実家である島根に帰省した。子供の頃からの恒例行事で、夏は母の実家の田舎でのんびりと過ごすのがお決まりだった。大工だった祖父が建てた広い家、広がるお線香と畳の香り、目の前に広がる田んぼと山々、家のそばを流れる小川ーー感じるすべてが心地よい島根で、母とのんびりと過ごす時間がとても好きだった。

しかし、その夏は仕事の関係で、私は母より先に地元に帰ることになっていた。
帰る日の朝から、母の顔を見るたびになぜか涙が出そうになり、ずっとこらえていた。一緒に朝食をとった時も、駅まで送ってくれた車の中でも、駅のホームで見送ってくれた時も、母を見るたびに涙がこみ上げてきそうで、必死に抑えていた。そして、ついに帰りの電車で一人になった途端、一日中抑えていた涙があふれ出して止まらなくなった。その涙は家に着いた後も止まらず、あまりの長時間泣き続けたせいで、精神の病気にでもなったのかとさえ思った。

◎ ◎

涙が枯れ果てた後、泣き疲れた頭でぼんやりと辛さの理由を考えた。
私は「あと何回、母と島根に来ることができるんだろう」。そんな、いつか訪れる「別れ」を思い、辛く、寂しい気持ちになっていたのだと気づいた。

母は今年で66歳。
平均寿命で考えるとあと21年、健康寿命で考えるとあと7年しかない。これはあくまで平均の数値だが、私がこれまで母と過ごした28年間より短い期間しか残されていないだろう。それがたまらなく寂しい。

「今、こうやって母と過ごすこの瞬間が、いつか幸せだった『過去』となり、私に襲いかかってくるのだろうな」。そう思うと、島根で母と充実した時間を過ごしていると感じるほど怖くなり、母を見るたびに涙があふれてきたのだと理解した。
幸せなのに、楽しいのに、寂しくて、辛い。

◎ ◎

親との死別は、いずれ必ず訪れる。それなのに、今からこんな調子では、いざその時が来たら本当に乗り越えられるのだろうか。最近は何かにつけてそんな未来を想像しては、どんよりとした気持ちになる。この寂しさとの向き合い方がわからなくて、でもこんな話を友達にもできなくて、寂しい気持ちが顔を出すたびに一人で悶々と苦しんでいる。

それなのに母は言う。
「母さんはね、子供たちと別れるのは悲しいけど、死ぬことは辛いことじゃないと思ってるよ。生物もモノも、すべてが生まれた瞬間から終わりに向かっているんだから、それが自然なことなんだよ。それに、『千の風になって』の歌みたいに、母さんは死んでも風や花や、そういったものになってずっと見守っているからね。だから母さんがいなくなったと思って悲しまなくていいんだからね」。

66歳にもなれば、死に対してこんなふうに考えられるようになるのか。
私も早くそんなふうに思えるようになりたい。この未来からくる寂しさの恐怖に打ち勝つために。

■まる麦のプロフィール
約4ヶ月ほど休職しており5月から復職。自分のことは自分が一番大切にするんだ!という思いで日々、人生と格闘中。

元記事で読む
の記事をもっとみる