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まだ島民2000人が残っていたのに…日曜劇場の舞台・軍艦島50年前の閉山が「最悪のタイミング」だったワケ

  • 2024.12.22

軍艦島が炭鉱として稼働し、多くの人が暮らしていた時代を再現する日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」(TBS系)。ついに12月22日の放送で最終回を迎える。ライターの村瀬まりもさんは「1974年1月の炭鉱閉山は、当時の資料を調べてみると、国全体のエネルギー対策としても、解雇される炭鉱夫とその家族にとっても、最悪のタイミングだった」という――。

軍艦島(端島)
※写真はイメージです
「海に眠るダイヤモンド」最終回は「端島の終わりの時」を描く

日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」(TBS系)が描いてきたのは、長崎の軍艦島こと三菱鉱業(ドラマでは鷹羽鉱業)所有の端島炭鉱が戦後に最盛期を迎えた1955年から1974年の間。主人公の荒木鉄平(神木隆之介)は、炭鉱夫の父の下に端島で生まれ育ち、長崎大学を卒業後はUターン就職し、端島の炭鉱の「外勤さん」(総務)として働いてきた。

しかし、1964年の甚大な炭鉱燃焼事故で、兄の進平(斎藤工)が内縁の妻と幼い子を遺して殉職。炭鉱長ら上層部は海底1キロまで掘り下げた深部区域を水没させるという決断をした。第8話では、石炭を掘る仕事がなくなって島民の多くが島を出る様子が描かれた。

ただ、島の沖の三ツ瀬地区に石炭が眠っていることは調査でわかっており、残った炭鉱夫たちはそこを懸命に掘り下げて、石炭層にたどりつく「着炭」を目指す。そして、苦労の末にその試みは成功した。

「また石炭が採れる」「見事な黒ダイヤ!」「端島は終わらん」と大喜びする鉄平や炭鉱夫、島の人たち。

絶望的な事故から約半年後のことだった。『三菱鉱業社史』にもこうある。

「昭和40年(1965)を三菱鉱業は明るい展望をもって迎えた。この年、端島鉱(前年水没で操業停止)が採掘条件に恵まれた三ツ瀬地区で出炭を再開」

新たに石炭が採れるようになったが、三菱は閉山を決定

端島炭鉱は見事に復活した。しかし、その9年後の1974年1月15日に“炭鉱のヤマ”としての役割を終え、閉山式を迎えることになる。「海に眠るダイヤモンド」の最終話でも、その終わりの時が描かれるようだ。

『三菱鉱業社史』は、閉山に至った経緯をこう説明している。


端島では引続き三ツ瀬区域を4払体制で操業したが、次期稼行区域として昭和40年度から開発に着手し、探炭坑道掘進中の端島沖区域は、調査の結果炭層が深度1200m以深に賦存ふぞんし、到底とうてい稼行の対象となり得ないことが判明した。そこで45年3月その区域の開発を断念した。

これに伴って同社は直ちに職組、労組に対して、端島沖区域探炭結果や三ツ瀬区域の炭量および今後の操業方針について説明したが、同年4月労組の要請にもとづき、九大松下教授等をメンバーとする調査団が現地調査を行い、会社の説明内容を裏付ける報告をした。その後交渉が重ねられたが、同年9月17日に妥結し、この結果端島は現稼行区域の三ツ瀬区域の残存炭量約200万tを有利採掘して閉山するとの基本路線が確定した。

「この島に骨を埋める覚悟だった」と無念を語った炭鉱夫たち

炭鉱での採掘や石炭精製の作業は、1973年末で終えた。そして、年が明け、1月15日閉山式が行われることになる。14日付の朝日新聞は「軍艦島あす閉山」という見出しで、こう報じた。

ヤマ元では13日から労組の主婦会、職場ごとの部会の解散式が始まった。(中略)島を離れて未知の世界で第二の人生を求める不安が、どの顔にもあった。

「この島に骨を埋める覚悟だった――」というあいさつで、採炭部会の解散式は始まった。地底の第一線で働いてきた110人余りの男たちは、四斗たる(酒樽)のカガミを抜き「どこへ行っても住所を知らせるけん」「元気でな」と威勢よく酒をくみかわした。再就職の話題は努めて避けていた。

下請け組員をふくめ、819人の離職者のうち、約120人は隣の高島鉱へ移る。「炭鉱はやはりカネがいいけん。子ども四人もおっては」(40歳)、「このトシでは他によか仕事もなかろう」(51歳)――と。

閉山式であいさつする岩間正男社長=1974(昭和49)年1月15日、端島小中学校体育館(軍艦島)
軍艦島の閉山式であいさつする岩間正男社長=1974(昭和49)年1月15日、端島小中学校体育館

軍艦島の炭鉱夫たちの待遇は、一般的なオフィスワーカーに比べても良いほうだった。平均月収は12万円余。鉄筋コンクリートの団地の家賃は10円。水道代は無料。プロパンガスの購入補助も会社から出ていた。当時、「三種の神器」と呼ばれたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫も、ほぼ全ての家庭が持っていたという。

家賃・光熱費のいらない島から出れば、生活レベルがダウンする

それに対して、阪神、中京地区から島に来た求人条件は、「残業月50時間程度で11、2万円」というもの。もしそこに転職するならば、これまでと違って家賃・光熱費がかかるぶん、夫婦で「共働きしなければ、生活程度を維持できない」と朝日新聞は書いている。

主婦の解散式会場でも、話題は生活の不安だった。端島には小型トラック1台だけ。そこで育った子どもたちの、都会での交通禍まで、心配の種だった。さらに十数人の60歳を超える離職者。フロ番、船着き場の雑役など、炭鉱だから働けた。
(朝日新聞1974年1月14日付)

「海に眠るダイヤモンド」では、進平と結ばれて男の子の母となったリナ(池田エライザ)が、ジャズシンガーとして活動していたころヤクザともめ、端島に逃げてきたという設定だ。海に囲まれた孤島である端島ならヤクザも追って来ないと踏んで(実際には手下の男を向けられたのだが)、そこで生きていこうとしていた。やはり、実際にも、本島では居場所がなかったり、借金など、なんらかの事情を抱えていたりする人が、端島でひっそりと身を潜めて暮らしていたのかもしれない。

1月15日当日は、午前10時半から端島小中学校体育館に島民が集まり、閉山式が行われた。小中学校の校庭では子どもたちが「サヨナラ ハシマ」という人文字を作って空撮を行っており、その写真が今も残されている。

1月15日に小中学校の体育館で閉山式が行われた

当時、島に残っていたのは約2200人。1月16付の長崎新聞によれば、閉山式には「従業員をはじめ、その家族ら約780人が出席。鉱内事故などで死んだ215人のめい福を祈って黙祷を捧げた」という。

閉山のあいさつに立った炭鉱の岩間社長は「(中略)保安上、採掘できるスミを掘り尽くした。天寿を全うしたとはいえ断腸の思いだ」と愛惜の念で語り、「従業員の方はこれから新しい人生に再出発するが、離島という困難な立地条件を克服してきた精神を忘れずにがんばって欲しい」と鼓舞した。

(中略)従業員を代表して端島労組組合長も「汗と炭じんにまみれ生産に励んできた。炭鉱の閉山突風の中で黒字のまま閉山するのは端島だけだ。この孤島で荒波に鍛えられた精神で第二の人生のスタートを切りたい」とあいさつすると、会場には感慨深く白いハンカチで目がしらを押さる主婦の姿も見られた。
(長崎新聞1974年1月16日付)

最盛期には東京ドーム1.4個分の土地に5000人以上が暮らし、人口密度は日本一。「一島一家」と言われた端島は、島国日本の縮図だった。食堂や市場はもちろん、映画館やスナックもあった。日本で初めてできた鉄筋コンクリート高層住宅が並び建ち、高層階の部屋からはリゾートホテルのように海が見える。そんな暮らしを続けたかった人も多いだろう。

【参考記事】軍艦島で生まれ育った人が「本当に楽しかった」と追憶…炭鉱労働者の島「6畳+4畳半」で家族8人の暮らし

軍艦島の学校跡
※写真はイメージです
石油ショックが始まった中での会社解散は不安しかない

しかし、そんな気持ちの問題、ノスタルジーだけではなく、マクロ経済とミクロ経済の両面で、1974年の閉山は、最悪のタイミングだった。

1973年に第4次中東戦争を機に第1次オイルショックが始まり、果たして石油に依存する暮らしが成り立つのかという社会不安が日本全土を襲っていたからだ。

長崎新聞は「石油危機でにわかに“石炭見直し”がクローズアップしているなかで」と書き、朝日新聞も「エネルギー危機のさ中 数百万トンを残して 軍艦島あす閉山」と批判的な見出しを付けている。

次々と閉山に追い立てられ、端島が四度目のヤマという45歳の鉱員は、他のヤマに行くか、思い切って新天地にいくか、まだ迷っていた。「もう、やり直しはきかんけん」という。そして「端島はあと10年はもつ、ときいていた。まだスミはあるとに」と繰り返した。
(朝日新聞1974年1月14日付)

【図表】エネルギー選択の大きな流れ
出典=資源エネルギー庁「エネルギー情勢懇談会資料」
1974年は夜の街のネオンサインが消える非常事態だった

「まだ石炭は採れる」という炭鉱員と、「保安上、事故のリスクなしに採れる石炭はもうない」とする会社との間に考えの違いがあったようだが、既に1960年代から、国はエネルギーの転換を図っていた。石炭から石油へ。炭鉱の閉山が相次ぐ中、端島は採れる石炭の質が良いということで、三菱の炭鉱の中でも最後まで残された場所だったのだ。

燃料源を日本では採れない石油に転換することで、エネルギー自給率は58%から15%へと激減していくのだが、そんな中、ニクソン・ショックによる円高不況に続いて第1次オイルショックが始まり、「やはり日本で採れる石炭を活用すべきではないか」という意見は、国会でも新聞紙上でも盛んに言われていた。そんな矢先の、バッド・タイミングな端島閉山。

オイルショックと言えば、スーパーの棚からトイレットペーパーがなくなっているニュース映像が思い浮かぶ。政府は国民に節電を呼びかけたが、効果が低く、ついに強制力を持つ電気使用制限等規則により「デパートの営業時間短縮、エスカレーター運転中止」「ネオンサインの早期消灯」「ガソリンスタンドの日曜日休業」「テレビ深夜放送の休止」などの制限をかけた。東日本大震災直後を連想させる非常事態である。

インフレが起こり、求人もない中で端島を出た人たちはどうなったのか

物価は乱高下し、インフレになり、不況の嵐が吹き荒れ、人々の暮らしは苦しくなっていく。1974年のGDPは戦後初めてマイナスに転じた。

【図表】実質経済成長率と内外需別寄与度
出典=内閣府・経済社会総合研究所「二度の石油危機と日本経済の動向」

そんな中で端島に残っていた人たちが職を失うのは、まさに最悪のタイミングだったに違いない。

「海に眠るダイヤモンド」最終回では、食堂の娘・朝子(杉咲花/宮本信子)や、炭鉱長の息子・賢将(清水尋也)とその妻・百合子(土屋太鳳)、そして閉山のときは島にいなかったという鉄平とリナの離島後の人生が明かされる。この3カ月間、見守ってきたキャラクターたちの終わり方がハッピーなものであるように願わずにはいられない。

村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。

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