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「家族なのに名字が違うなんておかしい」忘れられない同級生の一言

  • 2024.12.21

小学1年生のある日、下校中に同級生にそう言われた。

◎ ◎

私は小学5年生まで、母方の祖父母と二世帯で暮らしていた。表札には母の旧姓、すなわち祖父母の名字が書かれていた。母の旧姓は小学1年生でも読み書きできる名字だったため、一緒に下校していた同級生から

「どうして違う名前の家に住んでるの?」

と訝しげに聞かれたことも一度や二度ではない。

名字こそ違えど、私は祖父母のことをまぎれもなく「家族」だと思っていた。生まれた時から一緒に暮らしており、「同じ家にいるのが当たり前」だったからだ。
それなのに、名字が違うという理由だけで「家族」の形が否定されているような気がした。

「おじいちゃんおばあちゃんと一緒に住んでいるんだ」と言うと「そうなんだ」とあっさり受け入れられるのに、「名字が違う」というプラスアルファだけでこんなにも相手の反応が変わるのか。ずっと不思議でならなかった。

◎ ◎

25歳で結婚をして姓が変わった。

どちらの名字にするかは、人口の多い名字の方が変えるか、あるいはジャンケンをするかのつもりで夫とも話していた。

しかし、私の旧姓と夫の名前の組み合わせでは、語呂が悪く違和感があった。例えるなら三木ミキさんや佐々木サキさんといったイメージである。名字と名前の組み合わせとしてどことなく不自然なのだ。
さすがに夫が今後数十年付き合っていくフルネームがそれでは不憫だと思い、私は改姓を受け入れた。

姓が変わったからと言って、それまでの「家族」が急に赤の他人になるわけではない。
違う家に住み、違う姓を名乗ってこそいるが、両親やきょうだいとの「つながり」の感覚はそれまでと何ら変わらずに連綿と続いている。

◎ ◎

夫との関係性も然りである。
名字が同じになったからと言って、2人の関係において感覚的な変化が生じたかといえばそうでもない。 結束が急に強まったとかいうこともない。「つながり」や「絆」の感覚は結婚前とさして変わらない。

選択的夫婦別姓の是非については、長らく物議を醸し続けている。
反対派の主張として、「名字が異なると家庭の一体感が育まれない」というものがある。
家庭の一体感を理由に夫婦同姓を主張すればするほど、かえってその絆を軽視しているように思えてならない。

他者と一体感や絆を形成するにあたって、名字が同じかどうかなどは瑣末なことに過ぎないだろう。
むしろ、名字が同じでなければ保てないような関係こそ、「家族」と呼ぶにはあまりにも脆弱すぎる。
そんな上辺だけの形式的なつながりに、果たして意味はあるのだろうか。

◎ ◎

聖書には、「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」という一節がある。

また、サン・テグジュペリの「星の王子さま」には「心で見なくちゃものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ」という台詞が登場する。

人はつながりを実感していたい生き物である。名字という目に見える形で、他者とのつながりが自分にも、他人にも明確に示されていることで安心できるのかもしれない。
しかし、名字が変わったとしても、目に見えない絆は変わらずに続くのだ。

◎ ◎

小学校に入学し子ども同士で登下校するようになって、我が家に向けられた同級生からの奇異な視線。
名字が違うと家庭の一体感が育まれない、そう主張する人は20年が経った現在でも少なくない。

名字という目に見えるものに縋らなくても、目に見えないつながりは確かにそこに存在する。家族の結びつきを「名字」という形で可視化する必要なんて、きっとないはずだ。

■月々のプロフィール
転勤族の妻。キャリアに悩みつつも、色々な地域に住めることを楽しんでいきたいと思っている。休日はインドア派。note:https://note.com/moc451430

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