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「マックイーンを纏うというのは、今を生き抜くための手段のようなもの」──ダブリン出身の若きデザイナー、ショーン・マクギアーの果敢なる挑戦

  • 2024.12.17

一週間ずっと、雨模様が続いたパリ。そのせいでチュイルリー公園のプラタナスの木の葉が落ちて丸裸になっている。しかし、ショーン・マクギアーがルーブル美術館からセーヌ川を挟んだ向かいでアレキサンダー・マックイーンALEXANDER McQUEEN)の2025年春夏コレクションを発表した夜、街は9月の黄金色の光に照らされていた。そのおかげか、2023年10月にジェイ ダブリュー アンダーソンJW ANDERSON)から引き抜かれた現在36歳、ダブリン出身デザイナーは至極落ち着いた様子でいた。彼はマックイーンを所有するケリング・グループ会長兼CEOフランソワ・アンリ・ピノーにラックにずらりと並ぶヘリテージデザインを見せながら、やわらかく軽快なアイルランド訛りでどのようにひねりを加えたかを説明していく。

もっとも、マクギアーの落ち着きも相対的なものでしかないのかもしれない。エコール・デ・ボザールでのショータイムまで20分を切り、続々と到着するVIPに沸き立つパパラッチの声がネオクラシック様式の中庭に響きわたる。バックステージでは、アームピンクッションを腕につけたマックイーンのスタッフたちが慌ただしく動き回るあまり、肩にかけたテープメジャーが吹き流しのように背後にたなびいている。バスローブ姿のモデルたちは真っ直ぐ立ち、部屋の一画では、刺繍士たちがラストルックのヘッドピースの銀糸を仕上げていた。

クリエイティブ・ディレクターのショーン・マクギアー。
クリエイティブ・ディレクターのショーン・マクギアー。

そんな大騒ぎのなかでも、あるディテールに目が留まる。それは、ロンドンの夜を徘徊する反抗的な若者たちへのトリビュートであり、レスタースクエアのナイトクラブ「カフェ・ド・パリ」で行われたアレキサンダー・“リー”・マックイーンの2度目のランウェイショー、1994-95年秋冬で登場したアイルランドに伝わる女妖精「バンシー」へのオマージュである。しかし今夜は、30年前のショーの観客よりも大勢の警備員がエコールのそびえるような鍛鉄製の門をガードしていた。外へ出てみるとちょうどサルマ・ハエックが到着したところで、パパラッチのフラッシュが黄昏のなかで彼女のスパンコールドレスをディスコボールように輝かせている。会場へと戻ったとき、マクギアーはバックステージをこっそり抜けて、業界の審判に向けて自分を奮い立たせていた。

3月のデビューから転換点となった9月の2度目のショーまで、この1年で何カ月もこのデザイナーを追いかけてきたが、彼がその重圧を吐露したのは、後者のショーの72時間を切ったときのこと。サンジェルマン大通りにある仮スタジオの3階で、モデルボードやボタンのトレーに囲まれた何の変哲もないソファに腰かけていたときだった。彼は普段の朗らかな口調で、こう言った。「今朝来て、7時に右腕のスタッフに電話したんですよ。『全部壊して作り直さないといけない』って」

ファッションウィーク・スモーカー”を自認するマクギアーは、ここ数日睡眠時間よりも多くのマールボロ・ゴールドを頼りにしているだろうが、レザーの羽根をあしらった「バーディー」ヒールからルイーズ・ブルジョワにインスパイアされた新作のクモの巣を模したレースについてまで、すべて熱意を持って話してくれた。

色白の肌に暗い色の髪、そして大西洋のように碧い瞳──典型的なアイルランド人の見た目をしている彼は、絶え間なく動いているかのような活発な印象を与える。今日の装いは、胸の真んなかに逆さまのスカルが刺繍されたタイダイのマックイーンTシャツとスキニーデニムにスニーカーだ。「最近はマックイーンばかり着ているんですよ」とマクギアー。「フィット感とか、改善点を知るのも重要ですから。イメージ通りにいかないこともありますしね」。エルフのような顔立ちをした彼は屈託なくよく笑い、その度に右頬にえくぼが現れる。

マクギアーはこちらが拍子抜けするほど温厚でありながら、同時に手厳しい人でもある。階下では、彼の指示に従ってアトリエのチームがアイボリーのカシミアからスカルマスクを編み、何ヤードものオーガンジーをシアリングに見えるように手で裂いている。チームはちょうど3日間にわたるフィッティングを終えたばかりだったが、翌朝になってマクギアーがすべてのフィッティングをやり直すと決めた。もちろん、進行を妨害するためではなく、シンプルに細部のTバーまできちんと動くことを確認するためだった。これはセントラル セント マーチンズの名物教授、ルイーズ・ウィルソンにより叩き込まれたプロセスだ。ウィルソンの教え子にはほかにも、クリストファー・ケインCHRISTOPHER KANE)、ジョナサン サンダースJONATHAN SAUNDERS)、シモーン・ロシャSIMONE ROCHA)、そしてそう、リー・マックイーンがいる。マックイーンはウィルソンのもとを1992年に卒業しているが、マクギアーは教授が逝去する前の最後の卒業生で、2014年期生だ。

「教授にはいつも『違う、そうじゃない……まだ違う』って注意されていましたね。でもそれを、サッカーのフーリガンみたいに思いつく限りの汚い言葉で言うんですよ」とマクギアーは思い出を語る。これは彼のこれまでの人生で最大の忍耐力の試練だったそうだ。「『ちゃんとやれ。さっさとやれ』ときつく言われました。とても実践的でしたね」

シアーで魅せるしなやかなフェミニニティ<br /> 映画『ブルータリスト』の俳優ラフィー・キャシディは、全体に刺繍をあしらったチュールホルターネックドレスを着用。
イングリッシュローズの儚さ<br /> 可憐なレースブラウスを纏ったミュージシャンのフローレンス・シンクレア。薔薇を模したシルバーのドロップピアスを耳もとに添えて。

2023年にケリングがサラ・バートンのマックイーン退任を発表した際、このブランドの仕事が外部から来たデザイナーに務まるのかと、多くの人が訝しんだ。ファッション業界は“コード”を語りたがるが、マックイーンのそれは解読が極めて難しいものとされる。2025年2月はリーの没後15年になるが、文化全体に対する彼のエモーショナルな影響力は未だ健在だ。リーの「Highland Rape」と「The Hunger」のショーは、最も刺激的な90年代ファッションとして今でもX世代のエディターの心に残っているし、ファッションにそれほど詳しくないミレニアル世代もメトロポリタン美術館コスチューム・インスティテュートの『野生の美』展を観ようと千人強の列に6時間も並び、またZ世代のTikTokerは2003年に登場したスカルスカーフを誇らしげに身につけている。カレン・エルソンがパイレーツパンツにこのスカーフを結んでランウェイを闊歩したとき、一部の人はまだこの世に生まれていなかったにも関わらず、だ。

もちろん、リー・マックイーンの物語は忘れがたいものであり、彼の矛盾だらけのエピソードは延々と神話化され続けている。サヴィル・ロウで修行を積み、あの悪名高い「バムスター」パンツを生み出した創設者は自身のデザインに対して極端な反応を渇望し、「皆が私のショーを見て吐くほうがいい」「心臓発作を起こるくらい、救急車が呼ばれるくらいがいい」と語る一方で、アメリカの量販チェーンであるターゲット(TARGET)とプロムドレスのラインもローンチしていた。ロンドンのイーストエンド出身でケルトのルーツを持つというそのバックグラウンドが、イギリスの階級社会と帝国の歴史を痛烈に批判するコレクションを駆り立てていたが、そのレガシーはイザベラ・ブロウステラ・テナントといった貴族階級出身者と切っても切れない関係にあるのもまた事実だ。

誰よりもリーに心酔しているマクギアーは最近、グロスター大聖堂で1989年に行われたブロウの結婚式を研究しているそうで、テナントも一番好きなモデルだという。彼はブランドの揺籃期にあったプレイフルかつ攻撃的な姿勢を取り戻そうと考えており、就任が決まった少し後には「マックイーンには知的な危うさのようなものがあって、それが好きなんです。全くセクシー過ぎることもなく、とてもモダンだと思います」と話していた。今年、キングス・クロスにあるアーカイブに頻繁に足を運ぶなかで、彼は2000年代初頭のより商業的なコレクションは飛ばしてリーの最初期のデッサンに注目したそうで、「彼の線画には自信があって、それがもうすごいんです。驚くほど鋭くて、建築的と言っていいくらいです」と話すと、次に「マックイーンにハマれなかった新しい世代もいますよね?」と投げかける。私には彼が言うことがわかる。バートン時代にブランドは成熟して洗練されたが、マクギアーは自分の代で若いエネルギーに加え、彼が言う「内なる動物性」をテーマにしたいと思っているそうだ。

そうは言っても、セント マーチンズで学んでいた頃からリーの右腕であったバートン、そして彼女がクリエイティブ・ディレクターとして務めた13年間に対して、マクギアーが「深い深い敬意」を抱いていないというわけではない。リーがチャールズ皇太子のアンダーソン&シェパードのスーツの裏地に悪態を書き込んだり、女王の近衛兵の帽子に陰毛を縫いつけたりしたと主張していたとすれば、バートンは2011年にキャサリン妃ウエディングドレスをデザインし、ウェストミンスター寺院の階段で約2.7メートルにも及ぶサテンガザールのトレーンを美しく広げてみせた。またリーのムードボードにはマルキ・ド・サドの『ソドム百二十日』やハンス・ベルメールの手足がバラバラになった人形が載っていたが、バートンのインスピレーションはというと、シェットランド諸島のターティトラグや北アイルランドのブルーフラックスの花畑だった。マクギアーにとっての課題とは、リーのエネルギーやエッジィさを捉えながら、バートンが築き上げた完成度を高めることだろう。

「マックイーンは緊張感がすべてです」と彼は言う。それは魅力と嫌悪、洗練と野生性──そしてもちろん、アバンギャルドと商業的に売れるものとの間にある緊張感のことだ。リー自身も、メディアからジバンシィGIVENCHY)のデビューコレクションで酷評された日には、「一度に両方を叶えるなんて到底無理だ」と語っていたが、バックステージでそれを実現するのは可能なのだろうかと思いを馳せていると、刺繍士たちが仕上げたヘッドピースがマネキンに着せられているドレスと合わせられ、それと同時にモトローラのヘッドセットを着けたマックイーンのPR担当が近くに現れた。「まもなく始まります。お席にお着きください」と彼女は小声で囁く。

創設者が南ロンドンの小さなアパートで生地を切り始めてから33年、マックイーンの本部は今やクラーケンウェルにある6階建ての約2,800平方メートルもある建物に入っている。初めて訪問したのは春夏ショーの3カ月ほど前の7月。デザインチームの近くにいるために上層階から下層階へと引っ越したマクギアーは、床に寝そべって2025年リゾートコレクションのサングラスに使う材質の候補を確認していた。彼のデザインアプローチは概してとても「地についた」ものだそうで、セーフティーピン ブローチでさえサンプルに彼が手を触れずに生産に入るものはひとつもない。オオカバマダラのプリントが気に入っているようで、「マックイーンらしいでしょう?」と見えるように掲げて見せてくれる。マラカイトはあまり好きではないらしい。「炎をモチーフにしたサングラスには反対しない」と、えくぼのできたいたずらな笑顔で付け加える。ロサンゼルスへのリサーチトリップで見かけたそうで、そこではオピウムコアといったファッションに夢中になったそうだ。

若々しさがマクギアーにとってクリエイションの基準であるとすれば、経験に対して彼が抱く敬意の深さも注目に値する。「マックイーンはアトリエの仕事に尽きます」と彼は主張する。彼は自身がよく知るデザイナーやパターナーを何人か連れてきたが、バートンのもとで働いていたチームの多くが残留しており、そのなかにはリーの時代から残っている人もいる。彼が目指すのは、その熟練した技術を使ってイギリスのファッションに大胆な挑戦のスリルを取り戻すことだ。「マックイーンは実験室、クリエイティビティの研究室だと思っています。私のデザインチームにも、いろいろ試してみて、アイデアが固まって別地点まで飛躍できそうになるまで練ってみて、と言っています」

マクギアーにはリーのアイデアや作品に触れるなかで気づいたことがある。それは、「服を通してメッセージを伝えることがとても重要である」というものだ。それがきっかけで、2007年に高校を卒業後ダブリンからイングランドへ引っ越し、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションに入学してメンズウェアを学ぶに至ったのだが、すぐに遊びのほうが大学の授業より貴重な体験になるとわかった。彼の学生時代のアパートはカムデンのライブハウスKokoのちょうど向かいにあり、当時はエイミー・ワインハウスやピート・ドハーティがよくそこの巨大なディスコボールの下にいたそうで、彼のムードボードにも一目瞭然の影響だ。生活費を稼ぐため、夜はソーホーのウォーダー・ストリートにあるゲイバーでバーテンダー兼プロモーターとして働いていたのだが、そこでパパラッチに追われるケイト・モスやアレグラ・ヴェルサーチェなどを見かけることも多々あったという。

それから、彼が自身のセクシュアリティを本当に受け入れ始めたのもこの時期だ。「ゲイの若者にとってカミングアウトは誰しも嫌なものなんですよ。学校にあまり馴染めていないと特にそうです」と話す。しかし、彼の両親はずっと協力的だったとすかさず指摘する。今はどうかと聞くと、「ゲイでとても幸せです」との答えだ。「毎日神様に感謝しています。ゲイの人たちのこれまでの活動や犠牲をとてもありがたく思っていますし、ケネス・アンガー、デレク・ジャーマン、スーザン・ソンタグ、ピーター・ヒュージャーなど多くの作品を残したゲイアーティストたちのことが昔からすごく好きなんです。ゲイの人々を代表すること、代弁すること、支えることが自分の責務だと感じています」

チェーンで描く繊細なシルエット<br /> 2025年春夏ショーのラストルックを着こなすサシャ・クエンビー。ほつれたようにあしらわれたチェーンドレスには、力強さと脆さが交差する。
2025年春夏ショーのラストルックを着こなすサシャ・クエンビー。ほつれたようにあしらわれたチェーンドレスには、力強さと脆さが交差する。

マクギアーがウエストエンドで働いていたとき、お金のことで心配しなくていいほどお金が十分にあったことなんて一度もないと彼は言う。マックイーンの出身地であるイーストエンドのクラブシーンのほうが好きだったという彼が、セント マーチンズのウィルソン教授のことを初めて耳にして彼女の下で学びたいと決意したのは、BoomboxやPonystepに繰り出していた夜のことだった。面接を取り付け、予想通りの厳しい質問を耐え抜いた後、出口へ向かう彼の背後で廊下の向こうから彼女が自分を呼ぶ声を聞いた。「『ちょっと、アイルランド人の子! 今のうちに申請しておいたほうがいい奨学金があるよ。あんたたち学生のことはよくわかっているからね。本当に怠け者でこうしたことを逃すんだから』って。あれは先生なりの『君が勉強できるよう奨学金をあげますよ』って言葉だったんですね」

その奨学金を経済的な支えに、マクギアーは2014年に最終学年を迎え、ピカデリーの詐欺師や『マイ・プライベート・アイダホ』でのリヴァー・フェニックスの役にインスパイアされて、ボールペンで落書きしたデニムのコレクションを卒業制作として発表した。ちなみにこのコレクションは東京のセレクトショップ、CANDYが丸ごと買い取っている。

その後10年間のマクギアーの人生に一貫したテーマがあるとすれば、それはさまざまな都市の中心地に暮らしてそれぞれの若者文化を研究することだろう。彼は新卒でユニクロUNIQLO)に就職すると同時に東京・渋谷の小さなアパートに引っ越し、午前2時までTSUTAYAに入り浸ったり、原宿のカワイイ文化に驚嘆した。2年半後、クリストフ・ルメールが手がけるユニクロのカプセルコレクションでデザイナーとより密に連携するためにパリへと居を移し、パレ・ロワイヤル近くの狭小アパートに暮らしながら、暇さえあればレオン・クラデル通りで若者やスケーターたちの写真を撮って過ごした。2023年までマクギアーはデザイナーとフォトグラファーの両方の肩書で活動しており、写真で賞を獲ったこともあるほか、写真集も出版しているほどだ。そこから、ドリス ヴァン ノッテンDRIES VAN NOTEN)での仕事(彼の最初のコレクションはレーベルのクリスチャン・ラクロワとの浅薄なコラボレーションだった)が決まってアントワープに移った後、再びロンドンへ。そこでジェイ ダブリュー アンダーソンのメンズウェアのヘッドデザイナー、そして後にウィメンズウェアのヘッドデザイナーになった。

マクギアー率いるマックイーンのスタジオの雰囲気は明らかにオープンだ。自分のオフィスはあるが、1940年代のミリタリーチェアであふれかえっていて滅多に使っておらず、キャスティング、デザイニング、フィッティングはチームと一緒にやることを好む。彼はたったひとつの会話のなかで、カラヴァッジョ作の名画『ロレートの聖母』、東京のスカイザバスハウスのコンテンポラリーなプログラム、さらには写真家フィリップ=ロルカ・ディコルシアの作風についても語ることができるほどアートに精通している。これこそが、彼が適任だとピノーが直感した理由のひとつだ。ピノーがマクギアーについて「イギリスのファッションにおけるクリエイティビティの新時代を体現しています。彼の活力に満ちたエネルギーや文化とテーラリングへの情熱、そしてアート音楽の豊富なバックグラウンドが、マックイーンの精神と完璧に共鳴するのです」と期待を寄せる一方で、マクギアーはアートとファッションは別物だと捉えている。というのも、アートは一人の人間から生まれるもので、ファッションは多くの場合、チームによって作られるものだからだ。マックイーンの今回のコレクションでいえば、クラーケンウェルからイタリアのテーラー、イングランド北部の生地メーカー、韓国のマーチャンダイザーと、多くの人々が携わっている。「私は博物館のために服を作っているんじゃありません」とデザイナーは繰り返し強調する。「人々に実際に着てもらうのが重要なんです。マックイーンを纏うというのは、今を生き抜くための手段のようなものです」。昨今の世界の不安定な情勢を踏まえ、彼は自分のデザインが鎧となればいいと願う。

テクスチャーの競演<br /> 重厚なゴールドの刺繍に切り裂かれたチュール、ヘリテージレースといったさまざまな質感が奥行きのある表情をもたらす。
重厚なゴールドの刺繍に切り裂かれたチュール、ヘリテージレースといったさまざまな質感が奥行きのある表情をもたらす。

マクギアーの世界に光を取り込む余地はまだたっぷりある。今日はアトリエの全員を呼んで、ゼブラプリントの生地が「パッツィー・ストーン(テレビドラマ『アブソリュートリー・ファビュラス』の登場人物)過ぎる」か、抽象的なハウンドトゥースが「(フランスにある安い生地・布地専門店)TATI過ぎるか」どうか議論している。確かに、多くのことがまだ定まっていない。壁にかけられたムードボードにはスージー・スーやプラム・サイクスの写真がピン留めされているが、すぐにコレクションの方向性がまた変わったとわかった。その間も、マックイーンの工場は生産開始を待機している。「バンシー」のコンセプトがマクギアーの頭のなかで具体化し始めても、服としてはまだなにも目に見えるものはない。ただ、オリーブグリーンのレザートレンチからデヴィッド・ボウイが着ていそうなスパンコールの稲妻があしらわれたクリームのレーヨンケープまで、リサーチのためのヴィンテージの服がいくつものラックにかかっているだけだ。後に打ち明けられたが、「こういう、今まで新任のクリエイティブ・ディレクターがいなかったブランドは、その枠組みのなかで自分がどういう存在なのか理解するのに“少し”時間がかかる」そうだ。少しといっても、マクギアーの就任が発表されてからの数カ月で彼は52ルックの秋冬コレクションを制作し、彼の下で働く数多くのスタッフと顔を合わせ、31ルックのリゾートラインを監督した後に春夏コレクションに着手し、2回のPRの嵐を切り抜けているのだが。

インターネットに彼の着任のニュースが駆け巡ったのは2023年10月。マクギアーのモノクロ写真はケリングのほかのクリエイティブ・ディレクター5名と一緒にタイル表示された。イヴ・サンローランYVES SAINT LAURENT)のアンソニー・ヴァカレロバレンシアガBALENCIAGA)のデムナ、グッチ(GUCCI)のサバト・デ・サルノブリオーニBRIONI)のノルベルト・スタンフル、ボッテガ・ヴェネタBOTTEGA VENETA)のマチュー・ブレイジー彼はすでに退任が発表されている)だ。SNSですぐ大勢の人が一斉に指摘したように、白人男性ばかりの顔ぶれだった。そのことに触れると、マクギアーは慎重に言葉を選び、「とても重要なトピックですよね」と答えると、「超多様」なチームにすることは彼が常に意識してきたことだったと付け加える。それも人種やジェンダーだけでなく、年齢や国籍においても、だ。

彼は今でも、8億ユーロ(2022年時点)以上の年間売上高があると報告されるケリングのブランドを率いるには並大抵ではない根性と才能、そして強い意志が必要とされるということを口にしない。ダブリン郊外の出身であるマクギアーについて、「彼は労働者階級ですよ」と、同じくロンドンで活動するデザイナーのチャールズ・ジェフリーは話す。二人はセント マーチンズ在籍時にフィッティングモデルを務めたときからの知り合いで、ダルストンのVogue Fabricsで夜な夜な踊り明かしたことから固い友情で結ばれた。「この業界で発言力のある私たちのような(労働者階級出身の)人間はあまりいませんから」

それに加え、マクギアーが1カ月弱で急ごしらえしたデビューコレクションへの反応だ。3月にしては冬のように寒々しい夜にレ・ゾランピアードの廃車両基地で披露したショーで、マクギアーはリーの1995年春夏「The Birds」コレクションのなかから特にサランラップを巻いたドレスを研究し、立体感のあるニットウェアや鋭角的なシルエット、馬蹄などにインスパイアされたシューズなどで要約や曲解を試みた。エディターやインフルエンサーの多くは冷静に言葉を選んで評価していたし、そのどれもが「フーフ」ブーツのバズり具合に影響しなかったとはいえ、あまりにも多くのインスタグラムのコメントがファッション批評をよそおったネットいじめへと逸脱していた。

90年代、リー・マックイーンは自分のショーの報道陣席に金メッキの骸骨を置くことで知られていたが、それは時折彼を非難する報道陣へのあてつけのようなものだった。自分のドレーピング技術を批評する数えきれないほどのコメントに対して、リーならどんな反応をしただろう? と考えてしまうのも無理はない。マクギアーもあるとき、「私がインスタグラムをやっていたらどうなっていたと思います?」と、面白がりながらも同時に怯えた面持ちで聞いてきたことがある。

彼のデビューコレクションをリーがどう受けとめたと思うかと何人ものレポーターに聞かれて、3月にパリの中華街で最後に見かけたときからすっかり精神を消耗しているかもしれない──クラーケンウェルへの道すがら、そんなことを考えていたが、それは私の見当違いだった。マクギアーの服を着せる・着ることに対する歓びは失われていなかった。大手ファッションブランドのミレニアル世代のディレクターたちの間で、ユニクロのクルーネックとリーバイス(LEVI’S®)の501というユニフォームを着ることがある種のお決まりになってきたが、マクギアーは今でも純粋な楽しみのために毎日コーディネートを選んでいる。例えば日本ブランド、キャピタル(KAPITAL)のスキニーデニムに、ステファノ・ピラーティ期のサンローランによるヴィンテージツイードジャケット、そしてアントワープのダイヤモンド地区(「ダイヤを買うならここ」だそうだ)で買ったダイヤモンドのパヴェイヤリングを組み合わせたり、といった具合だ。また、2024年のメットガラについても、ラナ・デル・レイとイベント前夜にプラザホテルの彼女のスイートルームでレッドカーペットでの動きをリハーサルし、さらに『ホーム・アローン』をオマージュして午前2時にM&Mをトッピングしたサンデーをルームサービスしたと、夢中で語ってくれる。「当然とてもストレスフルでしたが、楽しめました」とマクギアーは回想する。「それが大事ですよね」

故郷アイルランドでマクギアーを応援したマックイーン古参の盟友のなかにある人物がいる。ハットデザイナーのフィリップ・トレーシーだ。二人はトレーシーのスタジオで親密になり、トレーシーはマックイーンもその人生のほとんどを傷つけられながら過ごしたと、マクギアーに語った。「今でこそ、言うまでもなくリーもイザベラもヒーローですが──というか昔からそれぞれそうでしたが──(フィリップに)90年代の人々には理解されなかったと教えてもらいました。『みんなリーを嫌っていた』そうです」とマクギアーは話す。「(リーとイザベラは)反抗的ではありましたが、傲慢ではなかった。そこがポイントです」

マクギアーに傲慢なところなど少しもないが、毅然としていると言える。ジェフリーが言うように、彼は常に愛嬌を欠かさず、楽しいことが好きで陽気な印象を放つが、その優しさを弱さと混同するのは誤りだ。ケルトの熱い血のようなものが彼のなかにはある、とジェフリーは付け加える。そして「みんなが背を向けたりNOと言ったりすれば、『じゃあやってやる』という根性もある」とも。

空気のような軽やかさを纏わせて<br /> モデルのサラ・カバジェロはウォッシュドシルクのシフォンドレスを着用。巧みなドレープとレースのトリミングで仕上げられている。
モデルのサラ・カバジェロはウォッシュドシルクのシフォンドレスを着用。巧みなドレープとレースのトリミングで仕上げられている。
ストリートで着こなすテーラード<br /> テレビシリーズ「クイーニー」に登場した俳優サミュエル・アデウンミは、ダブルジャケットにタキシードパンツ、レザースニーカーを合わせて。
テレビシリーズ「クイーニー」に登場した俳優サミュエル・アデウンミは、ダブルジャケットにタキシードパンツ、レザースニーカーを合わせて。

アレキサンダー・マックイーンがクール・ブリタニアを牽引していた時代、マクギアーはアイリッシュ海を臨むダブリン近郊のベイサイドで成人を迎えていた。自室の壁は一面、エモコンサートのチケットが貼られていた。不妊治療に携わる看護師である母のアイリーンによると、マクギアーのデザインへの執着はレゴに何時間も没頭していた3歳の頃に始まるという。また整備士の父ブレンダンは、雨降りの土曜日はダブリンにある彼のガレージでぶらぶらして暇をつぶすマクギアーを覚えているそうだ。

マクギアーは時間があればベイサイドに帰省し、家族と「夜中までお互いに胸の内を打ち明けて話し込む」らしい。また、彼が少しでもおごりを見せると、家族がすぐに態度を改めさせてくれると、加えて言う。「メットガラでラナと一緒にレッドカーペットに出たのを家族が見たときは、『何様のつもりだ?』って言われましたね。私は『ごめんなさい! ドレスを作っただけです! 何様のつもりでもありません!』って平謝り」

8月にキングス・ロードの外れにある昔ながらのイタリアンレストラン、La Famigliaの中庭でランチをしたとき、「マックイーンとは、同じケルトの血を持つつながりのようなものがあるんだと思います」と話してくれた。「私たち二人とも、不思議なことにタータンを持っているし」と加えながらも、マックイーンのほうが「ずっとシックだ」という。90年代から2000年代初頭は週末になると、マクギアーは家族と一緒に「ものすごい田舎」を旅し、ショーンの母方のおじたちがパブを営んでいるアイルランド西岸付近のラハーダンという人口100人余りの村を訪れていた。10歳になると、そこで空いたグラスや瓶を下げる手伝いをし、マックイーンが参考にしていたケルト文化の歴史を客が語るのを耳にした。

とはいえ、マクギアーにとって「マックイーンといえばロンドン」。「この街にはとても直感的でありながら同時に非常に洗練された感じがあります」と話す。だからこそ、この仕事には常に「100万20%」を傾けていても、今でもできるだけ外へ出かけ、自転車で市内を頻繁に散策している。ナショナル・ポートレート・ギャラリーでやっているフランシス・ベーコンの絵画展、テムズ川南岸でのアートロックバンドStill House Plantsのライブ、そしてもちろん、時折開催される「隠れ家的な場所でのクィアレイヴ」にも足を運んでいるそうで、発散するのも必要だとこぼす。ちょうど私たちも、テート・モダンで開催中のオノ・ヨーコ回顧展でガラスのハンマーやウィッシュ・ツリーを見てきたところだ。「彼女の恐れ知らずさがとてもマックイーンらしい」とマクギアーは感じている。

それでも、彼は今のファッションではビジネスがすべてだという現実をしっかり認識している。「あるデザイナーがすごくクールで素晴らしいコレクションを発表しても売れなかった時代は10年、15年前の話じゃありません。今では何もかもがお金になるかどうかで決められています。それを残念に思うか? どちらかと言えばそうですね。でもそれを認め、今生きている時代を理解するほうが重要です」

マクギアーが初めてアレキサンダー・マックイーンのラベルを目にしたのは、百貨店のブラウン・トーマスでのことで、2006年のプーマPUMA)とのコラボスニーカーのソールについていたものだった。また、百貨店のウィンドウドレッサーをしていた父方の祖母モウリーンから1950年代のミシンをもらい、エディ・スリマンの存在を知ったのもこの頃だ。そしてすぐにスリマンの代表作であるディオール オム(DIOR HOMME)のスキニーシルエットを真似て、学校の制服を幅詰めするなどしていた。

現在は、ティーンエイジャーが思い描いたリーとエディのレガシーがマクギアーの美学、そして彼のミューズたちに感じられる。しかもそのミューズたちの誰も、マックイーンからお金をもらってその服を着ている訳ではない。何もかもにお金のやりとりが絡むこの時代に珍しいことだ。彼は、ビヨンセをはじめとする多くの人が彼の初コレクションに登場したボリューミーなシアリングコートを「すごく、すごく気に入っていた」こと、さらにチャーリー・XCXが“ブラットガール・サマー”のほとんどを「フーフ」ブーツで過ごしたことに喜んでいるが、カリブ系イギリス人ミュージシャンであるフローレンス・シンクレアのことを語るときのほうがもっとずっと感情があふれかえっているように映る。王室メンバーとの付き合いを続けていくつもりはあるか、という質問については、「ええ、でもまだ連絡がないんですよね」と冗談を飛ばす。だが「3人の子どもたちはみんなかなりクール」だと思っており、彼曰く6歳のルイ王子が一番「マックイーンに近いエネルギー」を持っているらしい。

マクギアーが暮らすのは60年代に建てられた2ベッドルームのアパートで、ソーホーの飲み客とピカデリー・サーカスの観光客、さらにはセント・ジェームズのプライベート紳士クラブに出入りする上流階級と、実にさまざまな人たちが行き交う街角にある。彼は今でも変わらず自分でスーパーに買い物に行き、祖母モウリーンをiPhoneの待ち受けにしている。また、家族が訪ねてきたときのために予備の部屋があるという余裕をうれしく思っているようだ。もっとも、その部屋のほとんどは彼の80年代のアルマーニスーツのコレクションで埋まっているのだが。

彼は、自分で認めたことだが、「ワーカホリック気味で、仕事をするのが好き」だ。ほぼ毎日7時前に起床し、ポットいっぱいのスロードリップコーヒーを飲みながら前日に自分で自分に送ったボイスメモを聞き、それからウエイトトレーニングしたりヨガをしたりしてから徒歩でオフィスへと向かう。超自然現象を信じるスピリチュアルなところもあり、レイキや冷水浴、心理分析(フロイト派ではなくユング派)にもハマっている。「世界中のすべてが自分の母親との関係に起因しているかどうかはわかりません」と彼は言う。それから、セックスは「とても大切」だとも。

スーツに宿るアティチュード<br /> テーラードジャケットを纏ったサラ・カバジェロ。レディな印象を放ちながらも、そこにはマックイーンらしい反骨精神がのぞく。
テーラードジャケットを纏ったサラ・カバジェロ。レディな印象を放ちながらも、そこにはマックイーンらしい反骨精神がのぞく。

昨年の10月から、何が彼を支えてきたのだろうかと考えている自分がいた。私たちは今、タクシーに乗って、黄金に輝くクイーン・ヴィクトリア記念碑、そしてピカデリー・サーカスのカーブを描くリージェント・ストリートを通り過ぎ、ロンドン中心街へ向かっている。彼が降りる地点が近づき、思い切って尋ねてみた。いったいネット上の誹謗中傷にどう対処してきたのか? 彼の答えは控えめだったが、ハッとさせられるものだった。「当然私は心のある人間なので、誰かがちょっと意地悪なことを言えば傷つくかもしれませんが、同時にそれはただの雑音なんですよ。雑音は常につきものです」。別れの挨拶を交わして、彼はソーホーの雑踏に飲み込まれていった。問題は──特に若いデザイナーにとって──その雑音に自分の声がかき消されていないか、ということだろう。

9月のショーの日、席に着いた私たちを出迎えてくれたのは、トニー賞受賞歴のあるトム・スカットによるインスタレーションだった。それはパレ・デ・ゼチュードのフロアタイルをドリルできれいに壊し、その瓦礫のなかに鋼板のランウェイを設置したかのような錯覚を与えている。「ショーンが私に説明したアイデアというのは、午前3時にソーホーの街を歩くような彼自身のロンドンでの生活でした」とスカットが説明する。「街のど真んなかで暮らす様子や、夜と昼の間に別世界への扉となる夢のようなリミナルスペースなど、アイデアについてたくさん話し合いを重ねましたね」。そして実際にエコール・デ・ボザールを見学したとき、二人は閃いたそうだ。「学校の床を引き剥がして精神のようなものを解放するというアイデアには、どこかすごくマックイーンらしいものがあります」

まだ何人ものゲストたちが床に描かれたトロンプルイユのトリックアートを見つめていたが、照明が落ちると、サイラス・ゴベービルのサウンドトラックを合図にマクギアーの「バンシー」たちが霧のなかから姿を現す。そこには続々とマックイーンのスケッチの建築的なラインが、特徴的な襟へと姿を変えて登場する。バートンがこよなく愛したイングリッシュローズのレザーチャームに、繊細なシルクのフリルを加えて再解釈した「バムスター」、ラナ・デル・レイのメットガラルックをオマージュしてサンザシの枝をあしらったジョーゼットのドレス……。そして会場の視線を釘付けにしたのが、光り輝く「バンシー」ドレスだ。モデルたちが最後に一周すると拍手が沸き起こり、マクギアーが出てきて慣例のお辞儀をする。彼の目は真っ赤だった。

ショー後にバックステージできちんとおめでとうを言うつもりだったのだが、乾杯し合っているモデルたちに合流したとき私たちを待っていたのは、大混乱だった。マクギアーによるマックイーン初コレクションのジャケットを着たダフネ・ギネスがTikTokerたちとリングライトを掻き分けて駆けつけ、息を切らしながら2000年代にリーがしたように自分の「ヴィクトリアナ」のコレクションを解剖してみてはどうかと提案したかと思えば、ファーに身を包んだカーディ・Bは「ダークで、エッジィで、素晴らしかった(それから、襟のついたドレスが14着欲しいとも)」と興奮気味に感想を述べる。それからマクギアーはピノー氏に感謝を伝えに行き、あちこちでさまざまなメディアに対してムードボートの解説を繰り返すことに──。

この光景をどことなく面白く思いながら見ていたとき、マクギアーの母もまた、声が響きわたる大理石の部屋の反対側で見守っていることに気がついた。彼女のところまで行き、この狂喜を正直どう思うか尋ねた。すると彼女は、「そうですね、“マックイーンのマクギアー”か……」と感慨深く言い、一瞬止まってほほ笑んだ。「いい響きじゃないですか」

Text: Hayley Maitland Fashion Editor: IB Kamara Photography: Campbell Addy Hair: Cyndia Harvey Makeup: Bea Sweet Manicurist: Ama Quashie Tailor: Della George Adaptation: Motoko Fujita

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