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物語を書く上で大事なのは“喉ごし”──チョン・セランが『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』で届ける果敢さ

  • 2024.12.13
11月に新刊『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』を刊行した作家のチョン・セラン。
11月に新刊『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』を刊行した作家のチョン・セラン。

掌篇19篇と詩2篇で構成される『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』。その原題『アラの小説』は、同名の2篇を含めた5つの掌篇に、アラという人物が登場するため名付けられたという。アラという名前は、韓国では1980〜90年代によく付けられていたそうで、1篇終わるごとに作家自身が綴る解説では〈最も果敢なタイプの主人公に付けることが多い名前〉と説明されている。「ハングルには、パッチムという音節があって(母音の後にくる最後の子音)、それがある言葉とない言葉があります。アラ(아라)という言葉はパッチムがないので、 玉が転がるように滑らかに聞こえるんですね。ですが、アラはあんまり笑わない。私は、笑わない女性に対して感嘆するところがあって、そういった人物を書いてみたかったんです。 名前はすごく滑らかだけど、笑わない女性のギャップを表したいと思っていました」

批評や小説も執筆する作家であるわたし(鈴木みのり)は、果敢に出版業界の問題に葛藤するアラに惹かれた。フリーランスの書き手、編集者、翻訳者の生活と直結する原稿料、編集料、翻訳料が上がらないという問題に焦点を当てる掌篇「アラの傘」。韓国でも物価が上がっているにもかかわらず、賃金が上がらない。労働環境での搾取や暴力、それらを変えられるはずの立場の人たちが闘わない、といった問題は、日本の出版・文学業界で見てきた風景と重なった。

「新人のときは私もあまり考えたことがなかったんですが、私が契約をした内容を基準にして、その次に契約する作家たちに(出版社が)もっと下がった内容で契約を結ぼうとする/したっていう噂を聞いたんです。そのときに、私が闘っておかないと、その後に来る人たちが被害を受けると気がつきました。誰かが果敢な行動に出る必要があると思います。純文学界にはないんですが、SF小説作家には『韓国科学小説作家連帯(한국과학소설작가연대:SFWUK)』(日本語では「韓国SF作家連帯」として紹介)という団体があります。作家同士の連帯や弁護士との相談を通して、誰かが不当な扱いを受けた場合に合理的な権利を主張する方法や、(労働に関する)リスキーな情報を共有したり、意見交換をしています。互いが互いを守るような試みです。団体を維持するのは決して簡単ではないですし、そういった努力を個人だけでやることやフリーランス同士が繋がるのもとても難しいと思いますが、翻訳家だったり作家だったり、いろいろな分野においてこういった団体が作られればいいなと思ってます」とセラン氏。

「アラの傘」でも触れられるトリクルダウン理論どおり、富が上から下に流れて再分配されることはなく、今の20代、30代は気候危機や経済危機で厳しい状況に置かれる。そんな下の世代の人たちのために、という果敢さに共鳴する。同時にわたし自身の状況を考えると、マイノリティ属性や社会的な立場によって、余力が圧倒的にないという葛藤に悩む。

「私はいつも、純粋な人ほどたくさん怪我をすると思うんですよね。そういう人たちは、(周囲や問題から)目を逸らすことを恐れ、逃げられないでいるように見えます。でも私は、長い闘いこそ長い呼吸でしていく必要があり、逃げたり一歩下がったりして、自分をもう一度整えてから立ち向かう時間も必要なのかなと思います。その場から離れて、いつか起き上がってまた戻ってこられるような闘い方もあるんじゃないでしょうか」

しかし、逃げようにも、逃げ場所がない、逃げるための手段が思いつかないということもある。セラン氏も、「アラの小説2」で〈女性が女性的な声を出してはいけないというのは、いつも荒唐無稽に聞こえたし、 大河小説以外はどれも「小物」でしかないのに、どうして女性作家の作品だけを「小物」扱いするのか理解に苦しんだ〉と書く。これは女性だけに限らず、マイノリティである作家たちがいつも直面している問題だ。つまり、マイノリティの作家たちは、なぜ狭いテーマばかり書いているんだ、とか、それは全体には関係ない問題だ、といった不当な問いを投げかけられる。韓国の文学界では、こうしたマイノリティゆえに突きつけられ、逃げ場を失いやすい処遇や評価に関して、なにか取り組みはあるのだろうか?

「韓国も日本と同様、(マイノリティにとっての)機変や場所を増やしていくという課題を抱えています。最近ある作家が、性的マイノリティが主人公の小説を集めたリストを発表する試みを行ったのですが、やはり一人だけの知識では足りないということで、さまざまな人たちに推薦したい作品を挙げてほしいと呼びかけたんです。文学界は、私だけが好きでいたい、自分だけで大事にしていたい、と内向きな人たちが多い業界でもあると思います。何かが書かれても、話題にならなければよく見えないことも多いですよね。特に注目されにくいマイノリティ文学では、いいものを見つけたときに一所懸命に紹介する人や、リストを作ることが重要だと思います」

「また、性的マイノリティを描いた小説で、日本でも翻訳されているパク・サヨンさんの『大都会の愛し方』(亜紀書房)が、最近韓国でドラマ化され、今すごく成功してるんです。ドラマ制作が発表されたときに反対デモがあって、私もすごく傷ついたんですが、完成度の高いドラマになって作品のメッセージがマイリノリティではない人たちにも届いている。『ただの恋愛小説でしょ。なんで読むの?』などと(軽視して)言う人もいるかもしれませんが、誰かの目に“小物”にしか見えないものこそ意味があるのではないでしょうか。屈しないで、マイノリティである多様な人たちが肩で押し合って、自分たちの領域をどんどん広げていくということが必要かなと思います」

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーノンバイナリー、アセクシュアルやアロマンティックといった性的マイノリティの人々にとどまらず、人種主義、経済格差、就学・就労機会、健常性などによって生じる構造的な差別、人々の差別意識や偏見にあらがう政治的な態度であるクィアは、韓国でも「キア(퀴어)」という言葉で表されており、本書にも登場する。「アラの小説1」には〈クィアとしてのアイデンティティをもって、真剣に書いている作家がいるというのに、自分がクィアの恋愛について繰り返し書いたら、これまたねじくれたことになりそうな気がする。あくまでクィアの友だちなのだからクィアの友だちの話を書くべきで、当事者目線の話を書くべきではないのかもしれない、と弱気になってしまう〉や、〈アセクシャルにとっては恋愛小説そのものがうんざりなんだろう……〉といった葛藤が綴られている。

「サイン会やトークイベントで、キア小説を書いてください、とおっしゃる読者の方がいて、『あ、私が書いていいのかな?』って悩むんです。同時に、多様な感じ方をする読者それぞれに、私の作品を読んで自分の居場所がある、と感じていただきたい。私のキアの読者たちが、自分と似ている人がいるな、自分の存在があるんだな、と感じてくれたらうれしいですが、そうするには間違える覚悟で書いていくしかないとも思っています。以前、キアを描いた物語を執筆したことがあります。作品を発表する前に当事者の仲間たちや、キアの物語を手がけている出版社に読んでもらっていたので、大丈夫だろうと思ってた作品でしたが、日本語訳が出たあとに用語がまちがっている、と(日本の読者から)指摘を受けました。アメリカと韓国基準で考えていたのですが、国によって文脈が異なることに想像が至らず、日本での受け取られ方は違って、不本意ながら読者の方々を傷つけてしまう結果になり、本当に申し訳なく思いました。 その後、日本の編集者や翻訳者と話し合い検討した内容を公開し、私が知らなかった部分を改めて知るきっかけになりました。私は失敗をしてでも、多くの人に触れることが重要だと思います。今から3〜4年のあいだには、自分の作品のなかでもっと大きい場を持っている重要なキャラクターとして、キアの登場人物を具体化していきたいと考えています。間違いを認めつつ書き続ける、その流れを止めないことが大切です」とセラン氏は語る。

本書は、性暴力や、ジェンダーに基づく差別や偏見に関するエピソードが出てくる「アラ」で始まるが、次にくる「十時、コーヒーと私たちのチャンス」でちょっとひと息つけるように、構成に緩急がある。韓国語のカンヤクチュンカンヤク(강약중강약:強弱中強弱)という言葉のように、リズムを作って構成されており、シリアスな問題に浸りすぎずに済む。軽やかな文体で書かれた個々の掌篇のなかでも、近未来や日常の話に現在の社会問題、歴史、政治課題、差別といったテーマがスッと入ってくる。掌篇のため、気楽に手に取りやすいとも思う。

「短い小説を読むことはときにチャレンジになり、だからこそ掌篇小説が好きな読者には果敢さがあると思います。この本に収録された掌篇は、百貨店の雑誌、美術館のカタログなど、さまざまな媒体によって自分の身体を変えながら書いてみたものです。一篇が終わるごとに、この話をどのような依頼と発想で書いたのかを必ず付記しています。それでちょっとした笑いを与えたかったのと、読者自身が『自分だったらこの紙面とテーマでどういう話を書くだろう?』と想像できる余地を作りました。ものを書くという道には誰でも進める、誰でも入ってこれると思うので、(読者の)“書きたい”という気持ちをくすぐる作品にしたかったんです」

セラン氏との話が終わりに差し掛かる頃、同席した編集者がこう言った。「(本書を)読んでいて、自分では絶対に持てない身軽さみたいなものを感じて羨ましく思いました」

それに対しセラン氏は、「物語を書く上で“喉ごし”をとても大事に考えているんです。滑らかに流せるような物語を書くことが大切だと思います。私はいつも空気を作りたいんです。ふわふわしたり、ぶくぶくしたり、そういう泡や空気みたいなもの。要は息抜きができるような場所ですね。なので私は、ビールを開発する人のように、喉ごしのある小説をこれからも書いていきたいです」と応える。

ビール! 韓国でビールといえば、クラフトビールみたいなものはあまり見かけない。セラン氏はどんなビールが好きなのだろうか。おすすめを聞くと、「カンウォンドン(江原道)の、カンヌン(江陵)、ヤンヤン(襄陽)、ソクチョ(束草)といったところに、地域ビールがあるんです。飲んでみたらすごくよかったので、もし韓国に行く機会がありましたら、ぜひお試しください」と教えてくれた。小説のとおり、最後までカンヤクチュンカンヤク(強弱中強弱)のある、充実した1時間だった。

『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』チョン・セラン著、すんみ訳

仕事はぼちぼちで、海外旅行なんて行けないけれど、ルームメイトと乾杯する小さなテラスはある──『フィフティ・ピープル』のチョン・セランが、明るい未来が見えない世界だからこそ、ささやかな希望を失わずに生きる人々をおかしみをもって描く、掌篇小説集

URL/https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210374/

Text: Minori Suzuki Editor: Nanami Kobayashi

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