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「仲宗根さんは鈴木さんになりました」私は別の人になったのだろうか

  • 2024.12.11

生まれた時、私の名字は仲宗根だった。父方の両親は沖縄出身らしい。だから私の体には、沖縄の血が半分入っている事になる。自分で言うのもおかしな話だが、顔立ちや声質は沖縄が強く出ていると思う。沖縄歌謡を歌うとバッチリとハマるのが自慢だ。幼稚園時代は「おーい、中曽根総理ぃ!」と揶揄われるのが嫌だった思い出がある。

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5歳の時、両親が離婚したため私の名前は母方の姓である鈴木になった。これでもう総理大臣扱いをされないのだと、子ども心にホッとしたのを覚えている。日本の国では鈴木さんがとても多いと聞いて、嬉しかった。ただ年長さんの時、うさぎ組のみんなの前で先生が「今日から仲宗根さんは、鈴木さんになりました」と言われて、私は別の人になるのかなあ、と幼心に考えながら聞いていた。

小学校入学前、祖父が文房具を一揃い用意してくれた。真新しい鉛筆には金文字で「すずき」と刻まれていた。私は鉛筆に刻まれた自分の名前がキラキラ光るから、私も輝いている気がして、祖父の揃えてくれた文房具は一番の宝ものになった。それなのに。

小学2年生で私はある日、谷内になった。谷内と言う人と再婚した母親は私から鉛筆を取り上げて、「すずき」をマジックで塗りつぶしてしまった。キラキラ光っていた私の名前が、黒くグシャグシャになった。母親に見つからないよう、かろうじて1本だけ「すずき」を守り抜いたけど、その鉛筆は結婚する時の荷造りに紛れて、どこかへ行ってしまった。あの鉛筆は今、どこにあるんだろう。

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小学校2年生から、中学校、高校、奨学金でなんとか行けた大学、社会人3年目まで、私は「谷内」だった。でも私はずっと「すずき」の鉛筆を握りしめて、「谷内」じゃない、と自分に言い聞かせていた。私は「仲宗根」であり「鈴木」だけれども「谷内」では決して無い。法律や世間の上では「谷内」だとしても、誰がなんと言おうとも私自身は「仲宗根」であり「鈴木」なのだ。

学校で同級生から「谷内ぃ」と呼ばれるとイラッとした。作文や書類に自分の名前を記入する時は眉間に皺がよる。「鈴木」の時にお手本通りの綺麗な字と褒められていた文字は、雑に書くようになった。パスポートを取得する為に必要だった、当時手書きの戸籍謄本を見て、戸籍法を制定した明治政府と、夫婦同氏制を定めた昭和の改正民法が憎らしくなったほどだ。人生で最も重きをなす小中高時代を、私は一番認めたくない名前を持った自分自身の姿で過ごした事になる。

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25歳で結婚して、主人の名字になった。周りも結婚ラッシュで、友人のほとんどが「自分の名前が変わるなんて不思議っ」とキュンキュンしていたが、私としてはもうお腹いっぱい。「結婚したら凄く珍しい名字になったね」と言われるけど「仲宗根」や「谷内」を経験してるから、そこまで肩肘張ることもない。

ただ結婚して主人の名字になってから、私の人生は開けたと思う。「本当の女性の幸福は40代から」と言うけれど、まさに今それを実感している。子どもは4人産まれて、14年間の結婚生活で主人は一度も、私を怒鳴ったり怒ったりした事がない。私自身は主人にしょっちゅう怒っているから、この場で小声で謝っておこう。ごめんね(ぼそっ)。

家族は私の夢を応援してくれ、ついに今年、私は子どもの頃に置き去りにしたままの、日本画家になるという夢を叶えた。やっとここから、私の本当の人生が始まる。今の私こそが、子どもの時から憧れていた、なりたかった自分自身の姿と名前だったのかも知れない。

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経験者としては名字が変わるのは疲れるものだから、死ぬまで絶対この名字は変えないぞ、と固く心に誓って、和紙に筆を走らせながらスマホを片手にエッセイを書く。小春日のどかな本日だ。

■たれたれのプロフィール
日本画家。夢は十二単を着て写真を撮ることと、中国の歴史遺産を旅すること。そのためにも中国語を習得したい。NHKの語学講座を録画しながら必死に勉強中。

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