1. トップ
  2. ライフスタイル
  3. オペラ歌手から探検家へ。アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール、100年の旅。

オペラ歌手から探検家へ。アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール、100年の旅。

  • 2024.12.10

19世紀から20世紀前半、男性優位のパリにあって我が道を歩んだ女性たちがいた。自分の意思を貫き、自由に生きた女性たちに焦点を当てる連載「知られざるパリの女たち、その生き方」。第6回目は男性でも二の足を踏むような東洋の奥地に旅をし、見知らぬ土地で長逗留もいとわなかったヴァイタリティあふれるアレクサンドラ・ダヴィッド=ネール(1868~1969年)を紹介しよう。薔薇の愛好家なら彼女の名前がつけられた、花弁がひらひらレースのようなピンク色の大輪のバラが目に浮かぶだろう。またマリアージュ・フレールの東洋を想起させるスパイスの利いた紅茶、ルイ・ヴィトンでは複数のカードを収められる旅に重宝なお財布にも彼女の名前がつけられている。フランス人の心に語りかける功績の持ち主なのだ。

43歳で14年続く人生最長の旅に出たアレクサンドラ・ダヴィッド=ネール。

願望通りの人生を彼女が歩み始めたのは43歳の時だった。自分が100歳まで生きるとはおもわず、その後も旅に出ることがあるなど想像せず、''人生の最後に'' とその時のアジアへの旅の決意を彼女は表現している。アナーキスト、ブルジョワ、仏教徒、オペラ歌手、東洋学者、探検家、ジャーナリスト、作家、etc ・・様々な肩書きをつけられる彼女だが、世界的に知られているのは人生後半の活動における''チベットの首都ラサに初めて到達したヨーロッパの女性''としてだろう。彼女はその旅の仔細を『パリジェンヌのラサ旅行』(1927年)という1冊に残している。

241120-Alexandra_David-Neel-01.jpg
Alexandra David-Neel(アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール/ 1868〜1969年)。photography: (c)Zoom Historical/Alamy/amanaimages

生涯のテーマ、仏教とアジアに出会う。

よちよち歩きの頃から、アレクサンドラは自由と未知の土地への希求に導かれて外に向かって生きていた。父の政治傾向ゆえパリを離れてベルギーで暮らし始めるのは彼女が6歳の時で、その家で彼女がむさぶるように読んだのはジュール・ヴェルヌの旅物語。地図を眺め、見知らぬ土地へと思いを馳せて......。その背景には、母から愛情が得られないということもあったようで、15歳の頃、ベルギーの海辺の町でのバカンス中に英国へ脱出を試みたこともある。それにしてもパリ郊外のサン・マンデに生まれて幼少期を過ごした彼女が、なぜ冒険の地にアジアを選んだのか。その鍵は1889年、パリ16区にギメ東洋美術館が設立されたことにある。21歳だった彼女は、ここで仏教とアジアという生涯のテーマを見つけたのである。と言っても、彼女を世界的に有名にするチベットの旅にすぐに出たわけではない。

その以前、東洋のセクトであるグノーシス派に興味を掻き立てられた彼女は、本部のロンドンで暮らせる良い機会だ! と、英語を極めるという口実で両親を説得して向かったロンドンでの滞在中に、インドが拠点で19世紀末に隆盛を極めた神智協会に関心を抱く。そして、その伝を頼りに23歳の時に、19世紀末にインドの旅に出るのである。つば広の帽子をかぶり、白いモスリンのドレスで装った彼女はマルセイユからスエズ運河経由でインドへ向かった。この19世紀末は航海の手段が進歩したこともあって、世界中で大勢の女性たちが''動き''始めた時代である。アレクサンドラのインド旅行が可能となったのは神智協会からの推薦状が得られたから。その後に行う旅でも言えることだが、彼女は常に何かしらのツテを活用し、招待状を持って行き先に出向く方法をとるようにしていた。

241120-Alexandra_David-Neel-02.jpg
パリ16区のギメ東洋美術館。この美術館が開館したことから、彼女はアジアの旅と仏教研究に勤しむ路を見つけることに。晩年、アジアの旅先で彼女に贈られた希少な書物は美術館に寄贈された。photography: Mariko Omura

情熱と旅を両立できる、オペラ歌手を目指す。

彼女がオペラ歌手の道を歩み始めるのは、この旅の後のこと。実家の経済状態が怪しくなり、結婚するつもりがない彼女は収入をもたらす仕事を見つけなければならず。ピアノと歌を習ったブルジョワ令嬢の趣味の延長としてではなく、情熱と旅を両立できる仕事として、歌の才能に恵まれていた彼女はオペラ歌手になるのだ。すぐには芽が出ず、デビュー後3年間は巡業が続いたが、ツアーの合間に仏教研究に勤しみ、インドにも2度目の旅を敢行している。男性との出会いもあった。一人目はジャン・オートンという美貌のピアニスト&作曲家で、当時には珍しく入籍をしない共同生活をふたりは営んだが......その関係はたった3年で終止符を打つ。

1899年にアテネのオペラ座と契約を交わし、その翌年にオペラ座のディレクター契約をしたチュニスで、彼女は31歳の鉄道技師フィリップ・ニール・ドゥ・サン・ソヴールと知り合うのだ。自由と独立を求め、服従を知らぬアレクサンドラは、それまで彼が知っていた女性とは異なる魅力に溢れていた。フィリップは執拗にプロポーズを繰り返し、ついにアレクサンドラも承諾する。独身女性は銀行口座を持てない不自由な時代。結婚は彼女に有利な面もあったのだ。娘は生涯独身だろうと思っていた父親はこの決定にいたく驚いたという。

1904年8月4日、チュニスでふたりは挙式を行う。彼が弾くヴァイオリンに合わせて彼女が歌い......という平和な晩もあった。しかし、彼女の心の中には結婚後ずっと''旅立たねば!''という思いが潜んでいた。それを実行に移す後押しとなったのは、夫フィリップの女性関係だった。彼女は''たとえ自分が留守をしても、代わりに彼の面倒を見てくれる女性がいるのは良いことだ''、と思うことにして前を向いた。傷ついた心を抱え、まずはフェミニズムに関する執筆活動へと邁進する。この当時の彼女のペンネームはオペラ歌手名として使っていたアレクサンドラ・ミリアルだった。

3度目のインドの旅へと出るのは、初の旅行から20年を経た1911年のことである。18ヶ月の予定で出発したが、ヨーロッパに彼女が戻ったのは14年後だった。この旅の締めくくりとなるのが、彼女を有名にするチベットのラサ入りである。その計画を夫に手紙で打ち明けているのは1917年のことなので、実現まで8年を有したことになる。1916年にヒマラヤ山脈に位置するシッキム王国を訪問した際に、13代目ダライ・ラマと会い、マハラジャの息子と知り合い、さらに彼女が1929年に養子にとるアフュール・ヨングデンに出会うのだ。彼は両親によって教育のために僧院に預けられていた5か国語を話す16歳の若者である。その彼ともう1名を連れ、彼女は28個のトランクとともに新たな旅に出る。それは1925年まで続くことになり、ヨングデンにとっても思いもかけぬほど長い旅となった。道中彼は彼女を母のように慕って、敬い、そして護って......。彼女のラサの旅は、彼なしでは成し遂げられなかったと言われている。

長旅の終盤、いよいよチベットのラサへ。

この14年の旅の間、フランス初の仏教徒と自己紹介をする彼女は、行く先々で仏教哲学の研究者として受け入れられ、ヨングデンとともに僧院に寝泊りすることができた。また4か月の間駆け巡ることになるネパール王国の旅は、シッキムのマハラジャからネパール王室への推薦状がもらえたこともあり、最初は40名を従えてのお姫様旅行となった。彼女は4人が担ぐ籠に揺られて移動し、夜は大自然の中に立てられたテントで眠り......。長い旅の間では、もちろん危険にも遭遇することもあったが、どんな旅でもアレクサンドラが何よりも固執していたのは清潔。入浴は欠かせぬ習慣で、旅先ごとに従者たちが彼女のために浴槽を仕立てていたそうだ。

241120-Alexandra_David-Neel-02.jpg
チベットの伝統的衣装をまとって。1916年にシッキム王国の僧院で出会って旅を共にしたアフュール・ヨングデン(右)を彼女はフランスに戻ってから養子に迎えた。photography: (c)Zoom Historical/Alamy/amanaimages

当時、ラサは外国人が入ることを禁じていた街だ。他の人がしないことを成功させたいという欲を最初のインド旅行の時から抱えているアレクサンドラが、ラサを訪問したいと切望したのも無理のないことだろう。夫に別れの手紙を書き、覚悟を決めた彼女はこの旅では召使いを連れず、ヨングデンとふたりだけでラサに向かったのだ。チベットでは17世紀から女性たちは黒いクリームを塗っていたので、彼女も髪を三つ編みにし、髪を炭で染め、灰を混ぜた染料で顔を黒くしてチベット女の物乞いのような扮装をした。156cmの彼女と150cmのヨングデンは、傍目からは信心深い巡礼者の母息子といったように見えたらしい。川が凍って上を渡れる冬を選んでのラサ入り決行。2000kmを駆け巡った到着時の彼女の写真を見ると、頑強な彼女も流石に13年前の出発時に比べてすっかりとやせ細っているのがわかる。

1924年2月28日のラサ入りから2ヶ月が過ぎたころ、夫もお風呂もまともな食事も恋しく、それに何よりも自分のこの快挙を書物にしたいと思いが膨らみ始めたのだ。服に縫いこんであった金貨で馬を二頭買い、ヨングデンとふたり、インドとの国境へと道を進めた。インドからヨーロッパへの旅費は夫がいつものようになんとかしてくれたものの、ひとつ問題が。その頃夫が暮らしていたアルジェリアの自宅に彼女がヨングデンを連れ帰ることを彼が望まないことだった。

1925年5月10日、フランスに戻ったふたりがル・アーヴル港からパリのサン・ラザール駅に到着するとジャーナリストたちが待っていた。彼女のラサ入りはメディアの注目を集めていたので、帰国後しばらくは講演会、執筆に勤しんでという暮らしを続けた。1928年、終の住処となる家を建てる土地をニースから遠くない村ディーニュ・レ・バンに見つけた彼女は、フィリップとの暮らしを夢見て家を設計した。そこで暮らすことはなかった夫だが、数日間滞在した折にヨングデンと出会い、彼を評価し......彼女が彼を養子に取ることに反対はせず。かくしてヨングデンはアルベール・ヨングデン=ダヴィッドというフランスの戸籍を得ることになった。

241121-Alexandra_David-Neel-01.jpg
ディーニュ・レ・バンに構えた自宅で本格的な執筆活動を始めた1947年ごろのアレクサンドラ。photography: :(c)Henri Martinie/Roger-Viollet/amanaimages

1937年彼を連れて彼女は再び旅に出る。1925年に戻って以来のことで、この時すでに69歳となっていた。日中戦争の最中の国で1年半を過ごし、次いでチベットへと向かい5年間滞する間に、アレクサンドラは夫フィリップの訃報を受け取るのである。ふたりが共に生活をした時期はわずかだが、40年の結婚生活の間に交わした手紙の量は膨大である。「最高の夫であり唯一の友だった」と彼女は夫を偲ぶだった。それから14年が経ち、作家として活動していたヨングデンが56歳の若さで尿毒症で急逝。87歳の彼女は一人残されることになってしまう。幸い4年後に秘書であり身の回りの面倒を見てくれる女性が見つかった。一時期離れたディーニュに戻った彼女は1969年9月8日、101歳を迎える直前にここで人生を終えるのだ。アレクサンドラの功績を知る人が必ず語るのは、彼女が100歳の時にパスポートを更新したエピソード。そう、彼女は再びアジアへ旅立とうと願っていたのである。

元記事で読む
の記事をもっとみる