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名字に対して異なる思い。結婚できず離れることもできない私たち

  • 2024.12.9

一緒に暮らし始めてもう1年か。キッチンに立つ、いつも通りの夕食後。食べたお皿を洗い流しながらぼんやりと考えていた。

◎ ◎

よく気が合う人。味覚も、笑いのツボも大体同じ。一緒にいると、これまでにないほどの心地よさを感じる。何より、心を閉ざしがちな私を初めて受け入れてくれた人。この人と一緒なら、何十年先までも見通せる気がした。これが、ピンとくるということか。

雰囲気は敏感に感じ取っていた。「どんな願い事をしたの?」神社にお参りに行った日の夜。いつもなら子供っぽく見つめてくる瞳が揺れていた。初めて伝えてくれた日の、あの瞬間の空気にどこか似ている。分かっていたことだ。半分くらいはそのつもりで聞いた。なのに、どうしてだろう。自分から吹っ掛けたのにも関わらず、言葉を濁して終わらせた。人生において最大級に喜ばしいシーンのはずなのに、なぜか戸惑っている自分がいた。

◎ ◎

私の氏名は至って平凡だ。同じ名字の人が、クラスに1人いるかいないかというくらい。下の名前もありふれてはいるが少し古風だったので、小学生だった頃なんかは現代風の可愛らしい名前に憧れたものだ。それも、大人になるにつれ少しずつ気にならなくなっていた。今では、名字と名前ともにお気に入りだと言える。

生まれてから現在に至るまで、どのような時も共にあったのだ。今まで何万回と呼びかけられてきた自分の氏名に対して、切っても切り離せないものだという認識があった。この人と一緒になるということは、もはや自分の一部となった名字を切り離すということ。私はこの時、はっきりと認識していた。それが私にとって耐えがたいことであることに。

◎ ◎

思えば、学生時代に好きな人がいたときもそうだった。好きな人の名字になる自分を想像して興奮する、みたいな女子なら一度は経験がありそうなことを、私は一度もしたことがない。きっと私の感覚は、他の女性たちとはどこかズレているんだ。こんなことを伝えれば、変な女だと嫌われるだろうか。いや、大切な人だからこそ心の最奥にある部分はきちんと伝えるべきだ。

「……私はね」

受け入れてもらえないかもしれない恐怖と、核心に近いことを話す時の胸の高鳴りに押しつぶされそうになりながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「……名字は、今までずっと自分と共にあったから」

相手の反応を横目に見ながら、震える唇で呟いた時だった。私の頭の中で子供時代の思い出が一瞬にしてよみがえった。

実家にいた頃、両親と妹と四人で過ごした何気ない日々。その記憶は温かさをもって心に刻まれていた。今になって自覚した家族への思いと、とめどなくあふれてくる涙とを抑えることに必死だった。

◎ ◎

私にとって名字とは、自分の一部であり家族と強く結びついているものであった。名字が変わったとしても、家族との繋がりが途絶えるわけではないと分かっている。ただ、表面上は変わらなくても、深いところで何かが変わってしまう気がしていた。それは、どこに属しているかという意識なのかもしれない。

私は、生まれた時から属していた家族の一員である“私”でありたい。愛する人と出会い共に人生を歩みたくても、愛する人の家族の一員である“私”にはなれない。最期まで、元々の家族の一員でありたいと思う。自分でも複雑で分かりにくい感覚だと思った。それでも、出来る限り正確に伝わるように、自分のことすらも納得させるように、言葉を噛み砕きながら話した。

長い沈黙。明らかに戸惑っている気配がして、背中がジリジリとした。やはり無理かと諦めかけたその時、

「……うん、分かった」

微笑みかけられて、少しホッとした。だがそれ以降、この話題が2人の間に上がることは無かった。

◎ ◎

それから半年くらい経った頃。再度この話題を切り出したのは私だった。2人の今後を考えるのなら、いつまでも避けていては前に進めない。さすがに話し合わなければならない、と覚悟を決めたのだ。

私たちは再び、結婚と名字の問題について互いに意見を出し合った。私の名字に対する思いを聞いてから、相手の方も様々に考えを巡らせていたようだ。

「俺は、無理に結婚しようとは言わない。でも、一緒にはいたい」

複雑な気持ちだった。自分の譲れない価値観のせいで、大切な人を悩み苦しませてしまっている。その姿に胸が痛んでも、自分の考えを曲げることもできない。やるせない気持ちで一杯だった。

けれども、私が無理をして姓を変えることは相手も望んでいない。私はこの時、事実婚という提案もしてみた。事実婚であれば籍を入れず、別姓のままで夫婦になれる。だが、彼はうーん……と唸ったまま黙ってしまった。

「本当は……私に名字を変えて欲しい?」

うつむく相手を見かねて、おそるおそる聞いてみる。下を向いたまま少し考え込んで、彼は言った。

「できるなら法律婚がいい。でも、2人ともが納得できないのならするべきじゃないよ」

今まで、あまり意見が衝突することが少なかった私たち。結婚という重大な選択において、初めての大きな意見の食い違いが起きていた。

◎ ◎

私たちができるのは、このまま同棲し続けることだけだ。

初めて名字に対する思いを打ち明けてから約1年。

「俺たちの関係って、何だろう」

何気ない時間を過ごしていた時、ふと彼が呟いた。

「俺は分からない」

私ははっとして顔を上げた。

「……分からないけど、一緒にいたい」

私も同じだった。私たちの関係に名前は無く、安定してもいない。それでも、一緒にいたい。

◎ ◎

もしかしたら私たちは、名字に縛られているのかもしれない。どちらかが名字へのこだわりを捨てることができれば、さらに良い未来に向かって歩き出せるのだろう。だが、それは簡単なことではない。私にとって名字は自分の根源であり、愛しい人にも揺るがすことのできないものだ。

2人の未来における正解は未だ見つからない。今は、無理に見つけようとはしていない。不思議な関係だとしても、一緒にいることに意味があると信じているから。

■おけいのプロフィール
何事もついつい考えすぎる根暗な女。心を表現したものが好きです。人と働くことの難しさに打ちのめされて退職後、執筆活動を始めました。

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