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「アンチは無視しろ」キュリー夫人に送ったアインシュタインの手紙が過激

  • 2024.12.8

1911年当時、キュリー夫人は人生の中でも最も苦痛な日々を過ごしていました。

5年前に夫が亡くなり、さらにその夫の弟子と関係を持ったことで、メディアなどから毎日のようにバッシングを受けていたのです。

また「女性」の科学者というだけで、一般社会やアカデミックな世界の風当たりも非常に厳しいものでした。

その中で彼女に味方する手紙を送ったのが、天才物理学者アインシュタインです。

彼はキュリー夫人の知性や聡明さを深く尊敬していました。

そう聞くと「さぞ、心温まる優しい言葉でもかけたのだろう」と思われるかもしれません。

もちろん、手紙にはそうした言葉も溢れていましたが、意外にもアインシュタインはキュリー夫人のアンチに対して「下劣な連中」「爬虫類ども」といった過激な文言を使っていたのです。

さてアインシュタインは一体どんな手紙を送ったのか、当時キュリー夫人が置かれていた状況も踏まえて見てみましょう。

目次

  • 1911年、キュリー夫人に向けられた大バッシング
  • アンチを痛烈に批判したアインシュタインの過激な手紙

1911年、キュリー夫人に向けられた大バッシング

「キュリー夫人」の愛称で知られるマリ・キュリー(1867〜1934)は、ポーランド出身の化学・物理学者です。

彼女は1895年7月26日にフランスの物理学者であるピエール・キュリー(1859〜1906)と結婚し、キュリー姓を名乗るようになりました。

キュリー夫人は夫のピエールと共同で放射能の研究をし、1903年にはその功績が認められて、ピエールと共にノーベル物理学賞を受賞します。

ノーベル賞を受賞した女性はキュリー夫人が史上初めてです。

左からピエール、長女イレーヌ、マリ・キュリー/ Credit: ja.wikipedia

多忙ではあったものの充実した研究生活を送っていた矢先、悲劇が彼女を襲います。

それは1906年4月19日の木曜日のことでした。

雨が降る中、夫のピエールはいくつかの用事を済ませ、馬車が行き交う通りを横断していた際に、足を滑らせて横転し、6トンの荷物を積んだ馬車に轢かれて亡くなってしまったのです。

このとき、ピエールはまだ46歳の若さでした。

キュリー夫人は夫の死の知らせに凍りつき、しばらくは誰の問いかけにも答えられない状態だったといいます。

その後、深い悲しみが彼女を苦しめ、ときには悲鳴をあげるなど不安定な精神状態が続きました。

当時の日記には「夫と同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書き残しています。

キュリー夫人は30代半ばにして未亡人となってしまったのです。

研究所のキュリー夫妻(1890年代に撮影)/ Credit: ja.wikipedia

それでも時がゆっくりと彼女の悲しみを和らげ、研究生活に戻れるようになりました。

そして1910年に、夫ピエールの元弟子だった物理学者のポール・ランジュバン(1872〜1946)と出会います。

ランジュバンはキュリー夫人の5歳年下でしたが、研究熱心なところが夫のピエールとよく似ており、彼女の心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれる存在となりました。

ランジュバンは妻子ある身だったものの、その夫婦仲はとうの昔に冷めきっており、すでに別居状態にあって、裁判沙汰にまでなっていたといいます。

キュリー夫人とランジュバンは互いに研究生活を送る中で関係を深め、次第に恋仲にまで発展しました。

後年のランジュバン/ Credit: ja.wikipedia

ところが、この2人の関係がランジュバンの妻にバレてしまいます。

彼女はこっそりと使いを送って、キュリー夫人とランジュバンがやりとりしていた手紙を盗み出し、マスコミにリークしたのです。

これはキュリー夫人を叩きたかったマスコミにとっては最高のネタでした。

1900年代初めの社会は「女性」が科学の道に進むことを良しとしておらず、優秀なキュリー夫人の成功を苦い顔で見る人も大勢いました。

その中で飛び込んできた不倫のスクープをマスコミが利用しないはずがありません。

彼らはすぐさま猛烈にキュリー夫人を誹謗中傷し、新聞では彼女を「人様の家庭を壊すユダヤ女(Jewish homewrecker)」とレッテル貼りをします。

しかし事情をわかっている人にはこれが不当な批判であることは明らかでした。

ランジュバンの家庭はもともと壊れた状態にありましたし、そもそもキュリー夫人はユダヤ人ですらないのです。

1911年当時のキュリー夫人/ Credit: ja.wikipedia

さらにこの時期は、キュリー夫人がフランスの科学アカデミーの会員選挙に落選したばかりでした。

科学アカデミーとはフランス国内の科学研究を発展させるため、1666年に創設された歴史ある学術団体です。

1911年当時は会員に一つ空席が出ており、関係者の多くはキュリー夫人の優秀さや功績から、彼女を会員候補に推していました。

しかし保守的な会員たちは、キュリー夫人が「女性」であることと「外国人」であることを理由にこれを却下したのです。

まさにこの時期のキュリー夫人は一般社会から徹底的に叩かれ、アカデミックの世界からも差別される人生で過酷な時期にありました。

その中でキュリー夫人の味方についたのが、かの有名なアインシュタインだったのです。

アンチを痛烈に批判したアインシュタインの過激な手紙

この激動の中、キュリー夫人はベルギーのブリュッセルで開催されたある会議に呼ばれます。

それが1911年のソルべー会議です。

これは優秀な物理学者たちが一堂に会した科学会議であり、第一回のお題は「放射理論と量子」についてでした。

そのメンツはまさに”物理学界の銀河系軍団”と呼べるほど豪華なものです。

キュリー夫人の他、

・1902年にノーベル物理学賞を受賞し、ローレンツ変換などでお馴染みのオランダの物理学者ヘンドリック・ローレンツ

・ポアンカレ予想で有名なフランスの数学者で理論物理学者アンリ・ポワンカレ

・量子論の創始者の一人であるドイツの物理学者マックス・プランク

・原子核を発見し原子核の人口変換も成し遂げた、”原子物理学の父”とも称されるイギリスの物理学者アーネスト・ラザフォード

・相対性理論で知られるドイツの天才物理学者アルベルト・アインシュタイン

などが顔を揃えています。

第1回ソルベー会議出席者(1911年)/ Credit: ja.wikipedia

この歴史的な会議の中で、アインシュタインはキュリー夫人の知性や聡明さ、誠実さに接し、彼女を深く尊敬するようになりました。

しかし当時はキュリー夫人がマスコミや世論から大バッシングを受けている真っ最中であり、彼女の家を群衆が取り囲んで、投石までするほど悪化していたのです。

そのニュースはヨーロッパ中に波紋を広げ、アインシュタインの元にも伝わりました。

マスコミや大衆の馬鹿げた批判を見かねたアインシュタインは、キュリー夫人に宛てて一通の手紙を送ります。

そこにはキュリー夫人に味方する温かい言葉と共に、マスコミのような愚劣なアンチは無視するようにと、かなり過激な文言が書き記されていました。

では、その全文を翻訳した1911年のアインシュタインの手紙を見てみましょう(英文の写真はこちらから)。

敬愛するキュリー夫人へ
どうか私が、特にこれといった賢明なことも申し上げられないまま、あなたに手紙を書こうとしていることを笑わないでください。
ですが、世間が近頃、あなたのことをあのように卑劣な方法で取り上げていることに、私は激しい怒りを覚えずにはいられません。そのため、どうしてもこの感情を吐露しなければ気が済まないのです。
とはいえ、あなたは、そのような下劣な連中が、へつらうように尊敬を示そうとしようが、あるいは扇情的な欲求を満たそうとあなたを利用しようが、一貫して彼らを軽蔑しておられることと私は確信しています!
私としては、あなたの知性、行動力、そして誠実さをいかに深く敬服しているかをお伝えせずにはいられませんし、ブリュッセルで直接お会いできたことを幸運に感じております。
あの「爬虫類」のごとき連中に属さぬ者であれば、今も昔も、あなたやランジュバンのような人物が我々の中に存在していることを喜ばずにはいられず、そのような真に価値ある方々と接することができることを光栄に思うに違いありません。
もし下卑た大衆が今後もあなたについて騒ぎ立てるようなら、そんなくだらぬ戯言は読まずに、むしろそれを自分たちのために捏造した「爬虫類ども」に放っておけばよいのです。
あなた、ランジュバン、そしてペラン(※)各氏へ、敬意を込めて。
A. アインシュタイン

(※ ペランは、キュリー夫人と親交のあったフランスの物理学者ジャン・ペランのこと)

アインシュタインとキュリー夫人/ Credit: ja.m.wikipedia

このようにアインシュタインは、マスコミなどのアンチ活動する人たちを指して「爬虫類のごとき連中」と言い放っています。

ただこのときのキュリー夫人にとっては、アインシュタインの痛烈な言葉は心強い味方となってくれたのでしょう。

彼女は再び自身の研究に集中し、ついに同年の1911年にはラジウムとポロニウムの発見によりノーベル化学賞を受賞することになるのです。

アインシュタインとキュリー夫人はその後も親交を深めており、お互いの子供らを交えて一緒に休暇なども過ごしています。

キュリー夫人は1934年にこの世を去りますが、その追悼式でアインシュタインは改めて彼女の知性や聡明さ、意志の純粋さ、そして人間としての偉大さを称賛しました。

彼の言う通り、キュリー夫人は男女の枠組みを超えた一人の偉大な科学者として、今日も人々の間で語り継がれています。

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参考文献

In 1911, Einstein wrote a letter to Marie Curie, telling her to ignore the haters
https://www.zmescience.com/science/physics/einstein-curie-letter-repubz/

Albert Einstein to Marie Curie: Haters Gonna Hate
https://fs.blog/albert-einstein-to-marie-curie/

Albert Einstein Told Marie Curie To Ignore The Haters
https://www.iflscience.com/albert-einstein-told-marie-curie-ignore-haters-26525

ライター

大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。

編集者

ナゾロジー 編集部

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