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軍艦島の「半地下の食堂」から「独身女子寮」まで日曜劇場の再現度は驚異的…家賃ゼロの炭鉱夫の破格の収入は

  • 2024.12.8

世界遺産の軍艦島に約5000人が住んでいた頃の様子をリアルに再現した日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」(TBS系)。過去に現地で取材を行った編集プロダクションの風来堂さんは「ドラマを見て、島のシンボルである地獄段からヒロインが働く食堂までリアルに再現されているのに驚いた」という――。

食堂で焼いていたパンまで、70年前の軍艦島を忠実に再現

この秋から始まったTBSの日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」。その舞台となっているのが、九州の最西端、長崎県・野母崎半島の約4km西の海上に浮かぶ無人島の端島、通称「軍艦島」だ。ドラマでみごとに再現された70年前の端島の姿に衝撃を受けた人も多いだろう。当時の白黒写真をカラーでよみがえらせた『カラーでよみがえる軍艦島』(風来堂、イースト新書Q)を手がかりに、ドラマの世界がどこまで現実に忠実なのか、探ってみたい。

物語は、かつて端島で暮らしていたという老齢の女性いづみ(宮本信子)の回想を中心に進んでいく。回想シーンは1955年から始まって、6人の若者たちが登場し、端島の生活をリアルに再現するとともに、彼らの青春時代が描かれる。

たとえば、第1話で長崎市から端島に帰ってきた鉄平(神木隆之介)と百合子(土屋太鳳)が訪れた、幼なじみの朝子(杉咲花)が家族とともに切り盛りする食堂。モデルとなったと思われる「厚生食堂」そのままに、建物の半地下に位置している。提供されている料理も、看板メニューのちゃんぽんなど、そのままだ。

「日給社宅18号棟の1階には『厚生食堂』という食堂があった。戦前に会社の福利厚生施設として運営していたため、この名前が付けられた。和洋中さまざまなメニューを提供し、島民に愛された食堂だった。ちゃんぽんやうどんの他、奥にある窯ではパンが焼かれていた。」(『カラーでよみがえる軍艦島』)

また、リナ(池田エライザ)が暮らしていた独身女子寮が寺の1階部分にあることも、残されている端島の記録の通りだ。

2層分の高さがある鉄筋コンクリートの人工地盤と、岩盤をまたぐように寺院の本堂が建てられているため、下の道からはかなりの高さがある。1階の独身女子寮の窓からリナが顔を出し、下にいる進平(斎藤工)と言葉を交わすシーンは、当時も実際にこんなことがあったのかなと思わせる。

地獄段も、高層建築物に囲まれて長く伸びている様子が実によく再現されていた。

「地獄段は端島銀座から始まり、日給社宅の16号棟と宮の下社宅と呼ばれた57号棟の間を、壁に沿って島の中央部の岩礁に向かって上っていく。この地獄段の下からの写真は、端島の代表的な風景として用いられることが多い」(同書)

ドラマの中でも、買い物をする多くの島民が地獄段の下の端島銀座を歩き、長い階段を行きかっていた。

【図表】軍艦島島内図
出典=『カラーでよみがえる軍艦島』を一部加工
同じ島民でも職種により生活環境は異なっていた

当時の端島では、三菱鉱業の管理職や職員、鉱員、島の生活を支える商店などの立場の違いで、生活環境も大きく異なった。

炭鉱長の息子である賢将(清水尋也)の家は、応接室などもある島内唯一の戸建て住宅だが、鉱員の息子だった鉄平(神木隆之介)の家は高層建築に長屋のような狭い住宅がたくさん並ぶ、鉱員住宅だ。風呂などはもちろんなく、トイレも共同だった。

『カラーでよみがえる軍艦島』には、元島民の石川東あずまさんのインタビューが掲載されていて、当時の暮らしを語っている。

「6畳と4畳半の二間に、両親と祖父、兄弟5人の家族8人で暮らしていました。48号棟に入居した当時はたいした家電もなくて、高校までは毎朝、かまどで薪を燃やしてご飯をたいていました」(同書)

当時、端島といえば日本最先端の環境が整った先進的な生活だった、というイメージで語られることが多いが、家庭によっても多少異なっていたのだろうか。

ピーク時には南北約480m、東西約160mの小さな島に約5300人が暮らし、人口密度は世界一とされた。その当時の様子が、見事に再現されているのだ。

地獄段を降りると商店が並ぶ端島銀座が広がっていた
地獄段を降りると商店が並ぶ端島銀座が広がっていた
台風を怖がっていては本物の島民になれない?

第2話では、端島を大型の台風9号が襲った。寺の1階に暮らしていたリナとともに多くの島民が本堂に避難し、防波堤を越えてくる高波の浸水を防ぐため、朝子が食堂の前に土嚢どのうを懸命に積む様子が描かれていた。

しかし、当時の人々は脅威を感じていたばかりでもないようだ。

「ただ、端島の住民にとって脅威だったはずの高波は、日常の光景の一部であったのもまた事実だ。台風が島に接近した際に危険なのにもかかわらず、大波見物に出向く住民も少なくなかったようだ。『台風を怖がっていては本物の島民にはなれない』とも言われていたらしい。」(同書)

実際に、1956(昭和31)年と1959(昭和34)年には、大型の台風が端島に上陸し、大きな被害をもたらしている。1956(昭和31)年の台風9号では島の南側と西側の護岸が約100mにわたって崩壊し、木造の商店なども被害を受けた。

このときは波高8mもの大波がたたきつけたという。また、真水運搬船がやってこないことで、島の飲料水が枯渇するのも実際にあった大きな問題だった。

ドラマでは、戦後のストライキの様子もかなりリアルに再現

端島は三菱鉱業が所有する島だった。戦前はかなり劣悪な労働環境で、労使間で暴動や自然発生的サボタージュ、ストライキなどが頻発していたという。

WEBサイト「軍艦島の真実」にある端島に関する年表によると、1897(明治30)年4月には炭鉱夫約3000人による11日間にわたる大規模なストライキが起きたという。納屋頭2人が殺害され、警官40人以上が出動したというものだった。

しかし、太平洋戦争後の1946(昭和21)年に端島にも労働組合が設立され、労働条件が向上。8時間勤務の1日3交代制が実現した。また、国の石炭増産政策などにより、労働者の数とともに島の人口も増加し、生活環境の改善も図られていった。

1950年代に入ると、三井三池争議に象徴されるように日本各地で労働争議が激しくなる。第5話で描かれたように、端島にもその波がやってくる。「軍艦島の真実」によると、1956(昭和31)年に労働組合がストライキを起こしたことに対し、会社側はロックアウト(労働者の職場からの締め出し)を実施した。

WEBサイト「軍艦島デジタルミュージアム」に掲載されている、当時端島や高島で働いていた松浦さんの講演記事には、当時の労働争議のリアルな話が載っている。

近くにあった三菱の高島炭鉱では組合側の力が強く、1958(昭和33)年に起きた労働争議はかなり激化した。

1973(昭和48)年のメーデー。67号棟にスローガンが掲げられている
1973(昭和48)年のメーデー。67号棟にスローガンが掲げられている

しかし、端島が加わっていた全炭鉱組合は、比較的会社側に協力的だった。「一山一家」という家族主義的コミュニティを築いていたことも影響していたのかもしれない。端島炭鉱では、三菱側も「労使問題のない三菱」のイメージを打ち出してなるべく労使の争いを穏便にすませたいという思惑もあり、激しい労働争議の話は表立って出てこない。

炭鉱夫は家賃ゼロで給与は約4倍という好待遇

端島では鉱員の暮らしぶりは悪くはなかったようで、そのことも労働争議が激しくならなかった要因のひとつだろう。

家賃はかからず、水道光熱費は1959(昭和34)年時点で10円程度だった。当時の国内の6畳1間共同トイレ風呂なしのアパートの家賃が平均3000円だったので、かなり恵まれていたといえる。

1972(昭和47)年当時でみると、新卒の月給が5~6万円程度だったのに対し、端島では月約20万円を受け取っていたのだ。収入を見ても、生活環境を見ても、かなり好待遇だったといえるのではないだろうか。

島内のアパートには部屋ごとにかまどがあったが、それもやがてプロパンガスが使われるようになり、プロパンガスは2個まで無料で配布された。電化が進むと、国内ではまだ一般家庭にテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の三種の神器が広まっていなかった時期に、端島では普及率がほぼ100%だったという。

水問題は世界でも類を見ない海底水道の大工事で解決

離島の生活で最も大変なのは、水の確保だ。端島はもともと南北約320m、東西約120mの岩礁からなる島で、水源がない。1891(明治24)年に設けられた製塩装置による塩の精製過程で造られる蒸留水を、各家庭に飲料水として配給していた。

昭和30年代の軍艦島の生活風景。行商のほか常設の個人商店もあった
昭和30年代の軍艦島の生活風景。行商のほか常設の個人商店もあった

それだけでは当然水は足りず、飲料水以外の生活用水には海水を使用し、さらに昭和に入って、給水船「三島丸」が運航を始めた。のちに船は3隻まで増やされたが、まだまだ水不足解消には至らなかった。

風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)
風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)

1956(昭和31)年に、九州本土から端島へ海底水道をひく工事が始まる。野母崎半島から約6.5kmにわたり海底に2本の鋼管を通した、日本初、世界でも類を見ない工事だった。約1年後に水道が開通。1日あたり約1000tの生活用水の供給が可能となり、家々に水がいきわたるようになった。この様子もドラマで描かれた。

「海に眠るダイヤモンド」では、今はもう歴史の中で語られるだけの離島の、華やかなりし頃の様子をリアルに感じることができる。この賑やかな時代から、やがて閉山へと向かう姿がどのようにドラマで描かれていくのかも、まだまだ気になるところだ。

参考文献:後藤惠之輔・坂本道徳『軍艦島の遺産 風化する近代日本の象徴』(長崎新聞社)
黒沢永紀『軍艦島 奇跡の産業遺産』(実業之日本社)

構成・文=加藤きりこ

風来堂(ふうらいどう)
編集プロダクション
編集プロダクション。国内外問わず、旅、歴史、アウトドア、サブカルチャーなど、幅広いジャンル&テーマで取材・執筆・編集制作を行っている。バスや鉄道、航空機など、交通関連のライター・編集者とのつながりも深い。編集した本に『秘境路線バスをゆく 1~8』『“軍事遺産”をゆく』『地下をゆく』(イカロス出版)、『攻防から読み解く「土」と「石垣」の城郭』(実業之日本社)、『路線バスの謎』『ダークツーリズム入門』『国道の謎』『図解 「地形」と「戦術」で見る日本の城』『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト・プレス)、『ニッポン秘境路線バスの旅』(交通新聞社)、『2022年の連合赤軍 50年後に語られた「それぞれの真実」』(深笛義也著、清談社Publico)、『日本クマ事件簿』(三才ブックス)などがある。

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