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背が低く丸顔の私が偽りなく写る写真が、今の自分に問いかけてくる

  • 2024.12.8

写真は心と身体を丸裸にしてしまう鏡である。

そう私が思ったのは、このまえとある集合写真を撮ったからだ。

どうして写真を撮ることになったのか、という経緯はさておき、その写真に写った私は、なんだか恥ずかしいものだった。

◎ ◎

個人的には十代後半から写真を撮ることが減った。このことは、大人になればなるほど、成長しきった身体だからこそ、わざわざ写して残す必要もないことを、意味しているのかもしれない。

もし近しい未来で私が写真を撮ってもらうとしたら、大学の卒業式だと思う。

背が低くて丸顔。これが私の生態であって、写真はその生態に対して嘘をつかない。お世辞なんて通らないほど、嘘をついていないのだ。一点の曇りなく、その姿が残酷であったとしても美しいものであったとしても、そのままを写してしまう。

そのせいで、大人になった私は、写真を撮ってもらうという行為自体を遠慮しがちである。

しかし学校の修学旅行や遠足では端っこに居ながらも、一生懸命写真映えするように、ピースサインをした自分が写り込んでいる。

あのとき、友達と遠足の帰りのバスで喧嘩したなあ、とか、あのとき性格尖がっていたなあ、給食、ほんま嫌やったなあ、とか。当時の自分が写った写真は、そのときの感情や出来事もそのままに写し取られているから、本当にウソを吐けないものだ。

◎ ◎

写真を見返した瞬間、そのときの心情がよみがえって、今の自分の身体全身に乗り移ってくる。

そんなの大げさじゃないかと思われるかもしれないが、私にとって写真はからだと心、どんなに仲が悪くても皆が同じ方向(カメラへ目を真っすぐ向けていること)を見ていたことは、もう会うこともないはずの旧友との時間を繋げてくれているように思うのだ。

背が低くて丸顔。それは呪いのように今も私の心を揺らしてくるのだが、それでも幼少期の写真を一度も見返したくない、と気を張っている訳ではない。

だから不思議と、写真を避けているのではなく、ただ写真のなかで真っすぐ皆と同じ方向を見ていたあの頃が懐かしいだけなのかもしれない。

特に大人になってからは、まったく同じ環境で、まったく同じ経験をして、まったく同じ人生を送っている友達はいない。それでも、悲しいこと、嬉しいこと、逃げたいほど切ない気持ちを、まったく分かり合えないわけではない。

ごくたまに押し入れの掃除をしていると、どうしても小中高時代の卒業アルバムが目に飛び込んでくるのだ。

◎ ◎

そんなとき、私はいつも思う。ああ、これは写真を見て、昔の自分と目を合わせてごらん。そうしたら、いま何をしたいのか、幸せって何なのだろう、とあの頃の自分が問いかけてくるのだ、と。

本当に大事なもの、幸せを見つける旅が、私にとっては写真を見返すということだといえる。どれだけ背が低くて、丸顔な自分のことが嫌いでも、写真を避けては通れなかった二十二年間の人生が、私は決して嫌いではない。

そんな、写真のなかで統一された自分と周りにいる同級生の視線が、今になっては時々心に宿る切なさから解放してくれる気がするのだ。

そうして二十二歳の秋、私はとある出来事があり、また写真へ写り込んだ。カメラを一点見つめて、その日の出来事に一瞬だけだが心を集中させる。

二度と、まったく同じ状況で写真を撮ることはないとわかりきっている私は、必死に背伸びするときのほうが多いけれど、大人になったのかなあ、と心の中で呟くのだ。

それと同時に、ああ、背が低くて丸顔という呪いのような自分の特徴が、やはり大人になっても変わらないものだと実感させられた。

ここだけの話、そんな写真のなかでも変わることのない自分が、何よりも目を離せなかったりするのだけれど。

■真桜のプロフィール
恋愛の神様、北川悦吏子先生に憧れながら、小説やエッセイを執筆しています。

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