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一体感は生活の中で育まれる。だからこそ個人が納得のいく名字の選択を

  • 2024.12.7

私が初めて自分の名字が変わったのを実感したのは歯医者の待合室で自分の順番が来た時だった。

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お会計を待っていた私は、自分の名字を呼ばれて、しばらく無視してしまっていたことに気が付き、慌てて立ち上がった。それは、入籍してからありとあらゆる改姓手続きが終わって、一週間後のことだった。

その時、健康保険証に印字されたいつもと違った名字と下の名前の並びに違和感は覚えつつ、好きな人と同じ名字になったんだなぁとお花畑気分になるくらいには、「新婚」の2文字に浮かれていた。中学生の頃、友人とアイドルやキャラクターの名字と自分の名前を繋げて書いて、雰囲気が合うか合わないか、それだけで盛り上がっていた頃とさして変わらないようでちょっと情けない。

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なんだかんだ、私は佐藤(仮)という旧姓を気に入っていた。なぜなら、私は佐藤っぽいから。漠然としすぎているのは承知だが、名字の持つイメージと自身の雰囲気が合致している、と言えば説明がつくと信じたい。たまに、あ、この人この感じで田中なんだ~的な、名字と人柄のアンバランスさがある人がいるが、私はなにせ佐藤らしい佐藤なのである。

友人に結婚の報告をしたときには、私のことを下の名前で呼んでいたにも関わらず「佐藤じゃなくなるのがさみしい……」と言われるほど、とにかく自他共に認める佐藤中の佐藤なのだ。

なんだかんだ気に入っていた、というのはちょっと控えめすぎたかもしれない。アイデンティティとしてさえ感じていたのには違いない。そんな佐藤に自信たっぷりだった私だが、不思議と改姓することに疑問を抱くことはなかった。そういうもの、と便宜上仕方ないという現実的な都合に、なんとなく丸め込まれたのも正直ある。

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結婚を機に転職したため、職場で改姓による不便や不利益を被った経験はない。それで特にこだわらずにいられたのもある。そして新しい名字、長澤(仮)として過ごして、一年が過ぎた今も、名字に関して、特筆すべき困りごとも、素晴らしい出来事も起こっていない。私は佐藤をとても気に入っていたし、長澤もすっかり馴染んできたところである。

そんな中、世間では、夫婦別姓にすると家族としての一体感が薄れると言っている人がいるらしいと、GoogleのAI機能が教えてくれた。そもそも家族としての一体感とはなんなのか。

先日、私とパートナーの写真を見た友人に、笑顔と雰囲気が似てるね!と言われた。そういうのは、客観的に見て一体感があると言うのかもしれない。一方で、主観的に一体感があるなと思ったこともある。パートナーがスーパーのテーマソングを毎日のように鼻歌しているので、ちょっとイラッとしたのだが、キャッチーで良い曲なのでつられて歌ってしまったらなんだか楽しくなってゲラゲラ笑ってしまったことがあった。その時の妙な一体感たらなかった。俗に言う身内ノリである。

麦茶を作っておいてくれていたときと、畳んでから捨ててほしかったティッシュの空箱がそのままごみ箱にあるのを見たときなど、常に一体感グラフは上下している。要するに、血縁でない他人同士がつがいになる上では、日々の暮らしの中で名字以外のところでも一体感は生まれるし、第三者には分かりづらいことが多いのかもしれない。

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無論、名字が重要な役割を果たしている家族も必ずある。だからこそ、一個人が自分なりの幸せを求める中で、納得した名字を名乗ることができたらいいと思う。名字には生い立ちや社会的立場にまつわる人の大切にしたい思いが込められていると想像する。名字が変わることで叶う思いもあれば、改姓しないことで守られるものもある。私はちゃんとしたこだわりで、イヤホンの本体表示名をSatoにしている。

■さかいのプロフィール
好きな食べ物はマクドナルドのポテトと梨。苦手な食べ物はおからです。
子どもに関わる仕事をしています。

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