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余命宣告を受け命がけで彫った93枚の彫刻は1台850万円超のテーブルに…日本人トップ職人50年の研鑽

  • 2024.12.6

22歳で唐突にスウェーデンに渡り、子育てをしながらも金属彫刻職人として研鑽を積み続けてきた美知子・エングルンドさん。誰もが自分の技術をライバルに教えたくないフリーの職人の世界で、どのように技術を磨き、トップ職人として頭角を現すようになったのか――。

ヨーロッパ社会の根強い彫刻文化

海外、特にヨーロッパなどでは男性が「シグネットリング」と呼ばれる指輪を付ける文化があることをご存知だろうか。指輪には家紋や名前にちなんだモノグラムが彫られ、古くは身分を証明するものとして、時にそれを印鑑として大切な場面で使用する。

貴族など階級の高い人々のあいだでは特に、その文化は根強く受け継がれている。男性の成人のお祝いに、家紋を彫ったシグネットリングを親や祖父母が贈ることも珍しくない。スウェーデンでも、その風習や文化は日常の中に根付いている。

「今は機械で彫るのも珍しくはないけれど、古くからのものや大切なものは手彫りでなくてはいけない、と考える人もいまだに多いです」

シグネットリング用の家紋プレート。完成した指輪は納品してしまうので美知子さんの手元には残らないが、家紋を反転して彫るためのプレートは残る。
シグネットリング用の家紋プレート。完成した指輪は納品してしまうので美知子さんの手元には残らないが、家紋を反転して彫るためのプレートは残る。

金属ギフト用品の下請け彫刻の仕事は忙しく、毎日子どもが寝たあとに働いていたという。とてもキツかったが、比例して技術力は上がり、ますます「ミチコにやってほしい」という顧客が増えていくなか、彼女はあることを考えていた。

「いま、スウェーデンでこの手彫りの仕事をしているのは、40代前半の自分を含めて3〜4人しかいない。しかも他の職人は自分よりも20〜30歳も年上のおじさんたちばかり。今後、この国の王子・王女たちが結婚記念品などを作る時期は、おそらく10〜20年後になるはずだ。その頃には多分、私や下の世代に依頼が来ることになるだろう。もしそのとき自分がトップの職人になっていれば、自分にオファーが来るはず。それまでに技術をもっと磨いておかなくては」

しかし、独学では限界があった。周りの職人たちも、ライバルにわざわざ技術を教えてはくれない。国内ではこれ以上学べないと判断した彼女は、海外に目を向けた。

高い技術を求め、見本市に足を運ぶ

子どもたちも13〜15歳になり、ようやく手を離れてきた。自身は44歳。

美知子さんは、ジュエリーの見本市などに、積極的に足を運ぶようになった。

ヨーロッパは宝飾品の細工・加工において古い歴史を持つ。さかのぼるとローマ帝国時代に加工の技術が高まり、時にはキリスト教の権威、あるいは支配階級の特権など、ジュエリーが権力を象徴するアイテムとして用いられた。近世に入ると一般にも広く普及するようになり、技術やデザインが高度化していった。

歴史的な背景もあり、ヨーロッパでは大規模なジュエリーの見本市が毎年数カ所で開催されている。会場では、ジュエリーだけでなく原材料の宝石や加工のための道具などを見ることができ、ジュエリーに関するさまざまな職種の人々が訪れる。特に、スイス・ドイツ・イタリア・ミュンヘンの見本市が定番で、美知子さんは毎年この中の2カ所には必ず行っていた。

ジュエリーに施された彫刻を見て「この技術はすごい」と思ったら、「この技術を学びたいんですが、教えてもらうことはできますか?」とブースにいる人に声をかけ、休暇の期間を利用し、短期間海外に学びに行くことを繰り返した。

講座代金はもちろん、移動・宿泊・滞在費などすべて自腹だ。支出はかなり大きかったが「お金をかける価値がある」と信じて行動し続けた。

たとえば、アメリカで学んだマイクロスコープを使って彫る方法。それまで肉眼では限界だった細かいデザインも、それ以降正確に彫ることができるようになった。

スウェーデンでその方法を初めて取り入れた職人は、美知子さんだという。現在では金属彫刻職人たちはもちろん、宝石をジュエリーに留める石留め専門の職人たちもみな、マイクロスコープを使用するのが一般的となっている。

向上心が呼び寄せた、巨匠との出会い

向上心は、とどまるところを知らなかった。2000年代初頭に訪れたイタリアのブレシア市で開催されたハンティングフェアで「ハンティング・エングレーヴィング(狩猟用の武器の彫刻技法)」と出合う。

ヨーロッパでは、ナイフなど「狩り」に使う道具を男性ならではの贅沢品と考える文化がある。そして、ナイフ本体よりもそこに豪華な模様などを彫ることにお金を費やすそうだ。「当時でも、巨匠の作品となると彫刻費用だけで1000万円以上だった」というから、すごい世界だ。

当然、フェアに来ているのは高価なハンティングウェアを着た富裕層の男性ばかりで、女性は美知子さん1人だった。

ヨーロッパの富裕層男性は、銃やナイフに豪華な模様を彫ることにお金を費やす。ハンティングナイフに施した、美知子さんの彫刻。
ヨーロッパの富裕層男性は、銃やナイフに豪華な模様を彫ることにお金を費やす。ハンティングナイフに施した、美知子さんの彫刻。

世界各国から集まったハンティング用品の各メーカーは、必ずと言っていいほど自社製品に巨匠が手彫りを施した作品をいくつか置き、来場者に見せて商品のPRをしていた。美知子さんも巨匠たちの作品を「この目で見たい!」と思いブースを訪問するが、そのたびに「女? 銃も買わないでしょ? 買わない人には見せないよ、ここはあんたの来るところじゃないよ」といった態度で、冷たくあしらわれてしまう。

どうしよう、と逡巡していると、知り合いのアメリカ人がデモンストレーターとしてアメリカの彫刻刀メーカーのブースにいるのを見つけた。そのブースを訪ねると、彼は美知子さんに「彫刻の技術について教えるよ」と言うので、美知子さんはブースに入り、教えてもらった通り彫刻刀を研いでいた。

すると、その様子を見ている人物がいた。それはジアンフランコ・ペデソーリという、ハンティング・エングレーヴィングの世界では屈指のイタリア人彫刻家のひとりだった。

信じられないほど精密なアート彫刻の世界

アメリカ人の知人は、業界で知らぬ者はいない著名人のペデソーリ氏に美知子さんを紹介した。会場に着いたばかりのペデソーリは自分の作品がどこのブースに展示されているかわからなかったようで、「どこか知ってる?」と美知子さんに訊ねた。追い返されたブースに彼の作品があることを知っていた美知子さんは「案内します!」とペデソーリをその場所へ連れて行った。

先ほど美知子さんを追い返したスタッフが、今度はペデソーリを連れて戻ってきたことに目を丸くしている。美知子さんは素知らぬ顔でペデソーリを案内しつつも内心は嬉しくてしょうがなかった、と言ってアハハハ、と笑った。

ペデソーリが「おれの作品を見せろや〜」と言うと、スタッフは白い手袋をはめ、ビロードの生地に作品を載せて見せた。するとペデソーリは「この子(美知子さん)にも見せろよな」と言ってくれた。

「その時に見せてもらった作品は、それはそれは素晴らしかったです。まるでモチーフが踊っているように見え、なんとも楽しい気分になる作品だった。これは『アート・エングレーヴィング(芸術の域の彫り)』なんだと思いました」

美知子さんはそれまで、金や銀などの柔らかい金属を彫ってきた。一方、ハンティング・エングレーヴィングは、鋼鉄などのとても硬い金属に対して彫る。美知子さんも最初は、手彫りだとはとても信じられなかったそうだ。彼女は確信する。このハンティング・エングレーヴィングの分野は、家紋や文字を彫っている今の自分の仕事とは畑違いかもしれないが、この技術を手に入れれば確実に自分の技術力が上がる。

当時のスウェーデンで、自分と同じブライトカットの手彫りができる職人は3〜4人。

しかし、ペデソーリをはじめとする巨匠も多く住むイタリアのガルドーネ・ヴァル・トロンピア村には、ハンティング・エングレーヴィングをする職人が500人もいるという。

美知子さんは驚愕し、「その村に行ってみたい!」と学びに行くことを決めた。

半年後の夏休み、美知子さんはガルドーネ・ヴァル・トロンピア村に向かった。

彫刻職人が住む村でキングと出会う

村では、ハンティングフェアで出会ったペデソーリをはじめとする、著名な彫刻家の仕事を見学することができた。なかでも、ハンティング・エングレーヴィングの世界でトップに君臨しているフィルモ・フラッカーシー氏のアトリエに行ったときのことが特に印象に残っている。

フラッカーシーの通称は「キング」。

その作品に、価格はついていない。なぜなら、オークションで価格が決まるからだ。

どんなにお金を積んででも、彼に彫ってほしいという人が集まってくる絶大な人気の一方で、彼は「とても冷たい態度を取る人物」としても知られていた。人とは距離を取り、なかなか心を開かないことでも有名だった。

美知子さんがフラッカーシーのもとを訪れることになったとき、最初はとても怖かったという。「おそるおそる頭を下げながら、とにかく失礼の無いように気をつけた。自分でも『日本人的(な態度)だな』と思ったけど」。

「彼の机の上はすごく綺麗になっていました。道具は何も出されていないの。なぜなら、道具に秘密があるからなんです。道具は全部引き出しに入れて、鍵がかけてあった。私は『肝心の部分は見せられないものなんだ。時間を取ってくれて、仕事場に入れてもらえただけでも幸せと思わなくちゃいけないんだ』と思ったのよね」

彫刻職人にとって、使用する道具は生命線。情報を出さない職人も少なくない。
彫刻職人にとって、使用する道具は生命線。情報を出さない職人も少なくない。
涙があふれ出るほど感情を揺さぶる彫刻

道具は見ることができなかったが、作品は見せてもらえた。彼がその時に作っていた作品を見た瞬間、体に稲妻が走った。そして、涙が溢れてきた。

「まさにそれこそが『感情を揺さぶる作品』。だから世界一なんだ、ということがわかりました」

涙が溢れてうまく作品が見えない。美知子さんは隠れてサッと涙を拭き「ルーぺで見てもいいですか」と了承を得て、食い入るように作品を見ていた。その謙虚な態度を「冷徹」なフラッカーシーも好ましく感じたのかもしれない。その後は食事の席にも誘われるようになり、フラッカーシーの自宅で家族とともに食事をしたこともあった。それは彼にとっては、本当に稀なケースだそうだ。

技術のこと、実践的なことをどう教わったのかと尋ねると「ほとんどそういうことは話さなかった。お互い言葉も通じないから、会話はごくわずかしかしていないの」という。

「そもそも、フラッカーシーは技術を他人に伝えることはない。彼の娘、フランチェスカだけに教えているの。『大切なものを簡単に人には渡せない』という、職人の気持ちがすごくよく理解できるから、私からも詳しいことは何も聞かなかった。その態度も好んでくれたんでしょうね」美知子さんがどれほどエングレーヴィングを愛しているのか。フラッカーシーの作品にどれだけ強く感銘を受けたのか、ということが伝わったから、言葉が通じなくても心でコミュニケーションができたんだと思う、と語った。

美知子さんはフラッカーシーから「ミチコ、ドント・コピー」と言われたという。

「実際、彼の作品は有名すぎて、そこらじゅうでコピーされているんだけどね。要するに『人真似のレベルではいけない』ということなんだと思う。でもね、その後に私が芸者の姿を彫った作品を見せたとき、彼は驚いて『これ、真似しようかな?』って言ってくれたんですよ! もう、最高の褒め言葉よね」

彫刻界で「キング」と呼ばれる孤高の彫刻家・カッシに褒められた美知子さんの作品。マイクロスコープを使って微細な彫りを施した。
彫刻界で「キング」と呼ばれる孤高の彫刻家・フラッカーシーに褒められた美知子さんの作品。マイクロスコープを使って微細な彫りを施した。

最終的に、彼は使用していた3本の彫刻刀を美知子さんにプレゼントしてくれた。

「ただ、その彫刻刀は研がれていない状態のものだったから『あなたのやり方で研ぎなさい』という意味だったんじゃないかな。『あなたはあなたの道を行きなさい』っていう」

次なる巨匠の元で、いつものやり方を捨てる

そしてその次の年は、同じくハンティング・エングレーヴィング界で有名な彫刻師チェーザレ・ジョヴァネッリという人物のところで学んだ。

そのとき大変だったのは「それまで自分がやり慣れてきたスタイルを、すべて変えなくてはいけなかったこと」。

職人は仕事をするための場所・道具・プロセスなどに強いこだわりを持ち、自分だけの「いつものやり方」を手放すことには抵抗があるという。

しかし、ジョヴァネッリ氏のところで技術を学ぶには、自分のこだわりを捨てる必要があった。

例えば、マイクロスコープを使わずルーペでやる方法に変えること。作業の体勢。それに合わせるため、今までの机の高さなどもほとんど変えなくてはいけなくなる。

美知子さんも最初はかなり躊躇したそうだが、自分の技術力を上げるためにすべての変化を受け入れた。

イタリアの彫刻村で学んだ証書のない技術

このイタリアで学んだ時期のことを話すあいだ、彼女は目を輝かせながら振り返っていた。

「みんな本当にとても優しくてね。ビジネスとか先生とかいう雰囲気がぜんぜんなくて、『同じ仲間じゃないか!』っていう態度で教えてくれるの。私もあちらに行くときはノルウェー産のサーモンを持って行ったりして。フラッカーシーも『口の中で溶ける〜!』なんて言って喜んでくれてね。あのころ出会った人たちには、今でもすごく感謝しているのよ」と懐かしそうに笑った。

学校に通ったり講座を受けたりするのではなく、本物の技術を身につけている人の技を間近で見て、目に焼き付け、あとは練習を繰り返していくことで、高い技術を自分のものにしていく。だから、美知子さんの手元には卒業証書や資格証明というようなものはない。

「私にとっての証書は、手元に残っているトレーニング用のプレートかな。それを見れば『こういうものも、ああいうものも彫れるようになった』とか『50パターンも彫れるようになった』とかって思えるから。難しい依頼が来てもそのプレートを見せれば、相手は納得して何も言わず依頼をしてくれる。それが『答え』だと思う」

スウェーデンの日常生活

激動の半生を一気にお聞きしていたら、あっという間にランチタイムの時間帯になった。

「じゃあ、ここら辺でちょっと休憩しよっか。お腹空いたよね」

美知子さんは手作りのサンドイッチを公園のテーブルの上に広げた。ハード系の丸いパン、ケシの実が表面に広がるパンなどに生ハムとチーズを挟んだものや、柔らかい食パンで作った卵サンドなどが並ぶ。

インタビュー時、美知子さんが公園に持参してくれたサンドイッチ。
インタビュー時、美知子さんが公園に持参してくれたサンドイッチ。

昼食を終え、私たちは美知子さんの自宅に場所を移した。

最愛の夫は2010年に亡くなり、子どもたちは独立して別々に暮らしているため、現在、美知子さんはストックホルムで一人暮らしをしている。

室内は美知子さんのファッションのように、小粋にトータルコーディネートされている。広めの空間に大きめの家具が置かれ、ファブリックの類いはとてもカラフルだ。でも、どこか一貫した上品なセンスを感じさせる。その中央に、美知子さんが2011年にスヴェンスクト・テン社から依頼されて製作した「ストックホルム・テーブル」が置かれていた。

ストックホルム・テーブルに描かれた街の地図をなぞりながら説明する美知子さん。「私の家はこの辺で、今日はここを歩いてきたのよ」
ストックホルム・テーブルに描かれた街の地図をなぞりながら説明する美知子さん。「私の家はこの辺で、今日はここを歩いてきたのよ」

ベランダにはたくさんの植物が置かれ、明るい屋外の景色が窓の向こうに見える。

美知子さんは「Ska vi fika?(スカ・ヴィ・フィーカ=「お茶にしましょうか」)」と言い、筆者には温かいお茶を出してくださった。

スウェーデンでは「Fika(フィーカ)」という、1日に数回コーヒーと甘いもので休憩を取る習慣があるのだ。家、職場、公園、カフェ、どこでもみんなフィーカをする。

スウェーデンの手彫り職人界に訪れた世代交代の波

話に戻ろう。子育てが落ち着いた44歳頃から数年間にわたり、何度も国外に渡って確実に自分の技術を高めていった美知子さん。

90年代も後半に近づく頃、スウェーデン国内の手彫り職人の世界では、ゆっくりと世代交代の波が訪れようとしていた。

王室にも「そろそろ先を見越して、次世代の王室御用達を担う手彫り職人を見つけていかねば」という空気があったのでは、と美知子さんは話す。

そんな時代の流れもあり、スウェーデン王室は90年代の終わり頃から美知子さんに依頼を申し入れるようになった。

「王室から自宅へダイレクトに電話がきた時はさすがに緊張した。確かそのときの仕事は、テニスか何かの国王杯が開催される時期で、トロフィーに文字を彫ることだったと思う。家に、いわゆる侍従(付き人)が直接来られて『うわ、こうやって来るんだ』ってドキドキしました」。仕事は順風満帆だったように見受けられるが、実はこの2000年代初頭の「仕事を受けすぎた時期が今までで一番つらかったかもしれない」と振り返る。

独立23年、下請け業からの卒業

2000年代に入ると子どもも大きくなり、子育てにはさほど手がかからなくなった。美知子さんは、ギフト会社の下請け彫刻の担当エリアを徐々に拡大し、最初に受け持った10店舗から、最終的にはストックホルム市内と郊外の全て、約35店舗分を受け持っていた。週に約65時間休みなしで作業にあたることもザラだった。

仕事を受けすぎた理由は「断りきれなかったから」。

一度断っても「ミチコにやってほしい」と食い下がられると、受けないわけにはいかなかった。血尿を出しながら仕事をしていたこともあった。時には救急車を呼んだこともあったという。さすがの美知子さんもこの状況に耐えきれず、下請けの仕事を受けないことを決めた。その時すでに、個人会社設立から23年の月日が経っていた。

2005年ごろ、エステルマルムという高級品店が立ち並ぶエリアに、店舗兼工房を構えた。店に来た顧客から直接の依頼を受けて仕事をするスタイルに変えるためだ。

最初の頃は、小柄な女性、そしてアジア人である美知子さんに対し「本当にあなたが彫れるの?」といった疑いの目を向けられることも少なくはなかった。「証拠としてあなたの仕事のサンプルや作品を見せて」と言われても、製作したものは全て依頼主に納品してしまうため、見せられないことに気がついた。

そこで、IT関連の仕事をしていた夫の協力を得てホームページを作った。これまで手がけてきた作品、特に王室関連の品の画像などを客に見せると、ほとんどの人は納得して依頼してくれるようになった。

王室からも、変わらず定期的に仕事を受けていた。王室内の結婚時には、スヴェンスクト・テン社の品物または作品に、王族の個人の冠、モノグラム、テキスト、日付などを彫る仕事を受けたという。

60歳で受けた王室御用達メーカーの依頼

2011年。60歳の時、初めて「スヴェンスクト・テン」から直接依頼が来た。当時、同社はストックホルムの店舗を新しくしたため、そのリニューアルの記念品として「ストックホルム・テーブル」の天板を10枚(実際はアーカイブに入れる分を含めて11枚)製作する仕事だ。スヴェンスクト・テンの社内でこの企画が上がったとき、天板をオリジナルのデザインのとおり正確に彫ることができる腕の良い職人を探すことになった。その際、美知子さんの名前が挙がったそうだ。

それまで常に自分の腕を磨くことを怠らず、長いあいだ実績を積み重ねてきた結果、美知子さんの評判はスヴェンスクト・テンの社員の耳にも着実に届いていたのだ。

依頼の申し入れがあったときの感想をきくと、意外にも「え? なんで私? スヴェンスクト・テンなんて高級すぎて、私には全然縁がない世界だと思うんだけど……。そもそも、今受けている仕事と両立できるか、ちょっとわからないなあ」と、喜びよりも戸惑いの方が強かったそうだ。しかしその後、同社のプロジェクトリーダーとコミュニケーションを重ねるうちに「どれだけ作業に時間をかけてもいい。私たちは最高の仕事に対して、その分はきちんと支払う」という、職人に対して「単なる下請け業者」ではなく、真っ当な敬意を払う同社の方針や態度に美知子さんは心を動かされ、依頼を受けることを決めた。

世界限定10枚、ストックホルムの街が描かれた天板

ピューター(金属)の天板にストックホルムの街が描かれた、ストックホルム・テーブル。デザイナーはスヴェンスクト・テン社の代名詞のような存在、ヨセフ・フランクとニルス・フォグステットのふたりだ。

当時の価格で、日本円にして約250万円。

スヴェンスクト・テン社の代名詞のような存在、ヨゼフ・フランクとニルス・フォグステットがデザインし、美知子さんが金属彫刻を施した世界に10台のストックホルム・テーブル。美知子さんのご自宅にて。
スヴェンスクト・テン社の代名詞のような存在、ヨゼフ・フランクとニルス・フォグステットがデザインし、美知子さんが金属彫刻を施した世界に10台のストックホルム・テーブル。美知子さんのご自宅にて。

当然、この仕事を受けたことで一気に業界内の注目を集めた。なかには、妬みやひがみの言葉を浴びせる人もいた。

「私は芸大を出たわけでもないし、なぜ? という感じで。『あの人はガツガツ、しゃしゃり出るタイプだからああいう仕事がもらえるんだよね』と陰で言われたり、『どういう方法を使って仕事を取ったの?』と嫌味っぽく言ってくる人がいたり。私が何か特別なことをしたわけでもないのに、そういうふうに勝手に言われるのはとてもつらかった」

限定版10枚は、完売。実はそのうちの一台は美知子さんが購入したのだが「価格をコントロールする権利はスヴェンスクト・テンにあるの。だから、私が作ったものではあるけど、私は自分の彫り代も払って買うんです。ときどき『あんな高いテーブルを作ったんだから、きっとすごく報酬をもらっているんだろう』といった目を向ける人もいるけど、私は職人です。製作にかかった時間の分だけ、時給でいただいているだけなんだけどね」と言って、少し困ったように笑った。

職人もデザイナーとともに刻まれるべき

ここでひとつ、美知子さんの製作に関するエピソードを紹介したい。

美知子さんは、以前より知り合いだったジュエリーや家具を専門とする鑑定士たちから「ミチコ、良いものを作る仕事をするときは、サインすることを忘れるな」と言われていた。通常はデザイナーの名前だけが刻まれることが多く、職人の名前は表に出ない。

「私たち職人は、依頼主にとってはただの業者にすぎないからね」

でも、まわりの鑑定士たちはことあるごとに彼女に言い続けた。「僕たちの仕事は探偵みたいな仕事なんだ。デザイナーだけでなく、作った職人のことも調べたうえで値段を決める。本当は、名人の職人のサインも入れるべきなんだ。いつかそういう時が来たら、必ず君がそれをやるんだよ」その言葉が彼女の耳に残っていた。

だから、美知子さんはストックホルム・テーブルの仕事が来たときに「私、作品に自分の名前をサインしたいです。それが私の望みです」と同社に伝えた。

それまで前例がなかったため、社内でも上層部まで話が持ち上がり、協議にかけられた。結果的に美知子さんの希望通り、テーブルには自分のクレジットを刻むことが許された。

そのことを「サインをするように」と言い続けてくれた鑑定士たちに話したところ、彼らは「そうであるべきだ。職人は前に出てこなくちゃいけないんだよ」と言って、喜んでくれた。

それ以降、大きなプロジェクトなどで作られる作品には、デザイナーと職人、ふたりのクレジットを入れるという流れになってきているそうだ。

美知子さんがそのパイオニアだったんですか? と尋ねると「いえ、昔からガラス工芸の世界なんかではよくあることなんだけど、私はそれまでそういう機会に巡り合ったことがなかったの。私の仕事はお客様のものに手彫りをすることだからね。何かの作品に自分の名を残す機会自体が、めったにないことなのよ。だから、周りはもしそういうチャンスが来たらサインを忘れないように、私に言い続けてたのよね」と言った。

美知子さんの自宅の一室はアトリエになっている。壁には紙幣の絵を手彫りする職人仲間の作品を飾っている。
美知子さんの自宅の一室はアトリエになっている。壁には紙幣の絵を手彫りする職人仲間の作品を飾っている。

2020年、美知子さんに大きな出来事が立て続けに起こる。

スヴェンスクト・テン社から「100周年記念のネストテーブル製作」の依頼が来たのだ。

そして、それとほぼ同時期、余命宣告を受けるほどの大病を患い大きな手術を受けた。70歳の時だった。

闘病しながら制作を続け、余命の期間を超えた

美知子さんは迷った。発注数はアーカイブに入れるものを含めて31台。

1台のネストテーブルは、3つのテーブルが入れ子式で1セットになっている。つまり、合計で93枚分の天板を彫らなくてはならないことになる。

1枚にかかる製作時間はおよそ20時間。単純に計算してもトータルで1860時間かかる。体調が優れないときや治療中の期間は、当然作業に集中できない。闘病をしながらできるのか予想もつかなかった。

自身の体、命を最優先することが何より大切なのはわかっている。でも、スヴェンスクト・テンからのリクエストには応えたい。同社が指名で依頼するということは、現時点で「国内最高の職人」と認めている証なのだ。

悩んだ結果、自分の状況を同社のプロジェクトリーダーに伝えた。

プロジェクトリーダーはすべてを理解したうえで「ミチコに依頼したい気持ちは変わらない」という返答をしてきた。

美知子さんの気持ちも固まった。依頼を引き受ける覚悟を決めたのだ。

「でも、もしそのあいだに私の身に何かが起こって、この仕事をやり遂げられないようなことがあったとしたら、そのとき代わりにお願いする先は見つけておいたのよ。もちろんそれも事前に伝えたけど、なんとかやり切った。2年とちょっとかかったかな」

製作と同時並行で治療も続け、その間に最初に宣告された余命の期間も超えていた。2024年3月末のことだった。

命を燃やして制作した彫刻の値段

完成したネストテーブルについた価格を見て、美知子さん自身も驚いた。「600,000 SEK(スウェーデンクローナ)」。日本円に換算して約855万円(2024年10月時点)。ストックホルム・テーブルの時よりもはるかに高い。スヴェンスクト・テン社が有識者を通じて、国際市場での価値を鑑みて設定したのだそうだ。ネストテーブルをすべて納品し終えたときは「ほっとした。これからは、体のことだけを考えていこう、仕事はそろそろこれで終わりにしよう、って。でも心のどこかに空洞ができたような感覚だったかな。もし体の問題がなかったら、きっと仕事は辞めなかったと思うんだよね」

制作の嵐が去って、闘病中に思うこと

インタビューの翌日、筆者はネストテーブルの現物を見るため、美知子さんとともにスヴェンスクト・テンの本店を訪れた。

場所はストックホルムの高級ショップが立ち並ぶエリアの中心部。本店のある建物の1・2Fが店舗になっており、1Fには同社のインテリアの中で喫茶を楽しめる「Café Svenskt Tenn(カフェ・スヴェンスクト・テン)」が併設されている。美知子さんは遅めのランチがわりに、羊肉のラビオリをオーダーした。

スゥエーデン・ストックホルムの中心地にある、スヴェンスクト・テン本店。
スウェーデン・ストックホルムの中心地にある、スヴェンスクト・テン本店。

平日の午後、私たちのほかには店の端の席でマダムたちが談笑している。

今後やりたいと思っていることはなんですか?

「もちろん元気になりたい。つらい治療を受けなくてもいいような体になりたい。旅行に行けるくらいの状態に戻れたらいろんなところを旅行したいし、日本に行って日本食をいっぱい食べたい。そんなことぐらいかな」

美知子さんは追加でカフェラテをオーダーする。

「私、闘病中だからって病人然としていたくないんですよ。病気してたって私はおしゃれしたいし、せっかくなら美味しいものを食べたい。人生いつ終わるかわからないんだから、楽しまないと損だよね、って思ってる」

かつて自由を求めてスウェーデンへ飛び立った女性は、自分の信念を突き通して最高の仕事を終え、いまは自分の気持ちを大切にして生きている。

インタビューが終わり、筆者も改めてコーヒーとお茶菓子をいただくことにした。美知子さんのところにもカフェラテが運ばれてくる。

「さあ、Ska vi fika!」と言って、美知子さんはとびきりチャーミングな笑顔を向けた。

スウェーデン人の習慣、コーヒーと甘いもので休憩を取る「Fika(フィーカ)」。単にリフレッシュの効果だけでなく、人間関係を円滑化する効果もある。美知子さんはインタビュー後「今までずっと自分のことは二の次にしてきたけれど、ようやく頑張ってきた自分のことを愛おしく思えるようになった。今が一番幸せ」と語った。
美知子さんはインタビュー後「今までずっと自分のことは二の次にしてきたけれど、ようやく頑張ってきた自分のことを愛おしく思えるようになった。今が一番幸せ」と語った。

宇乃 さや香(うの・さやか)
フリーライター
1982年北陸生まれ。大学卒業後、分譲マンション管理会社、フリーペーパー出版社、認知症対応型グループホームでの勤務を経験。妊娠・出産を経てフリーライターとして独立。生き方や価値観のアップデート、軽やかに生きるヒントを模索し、取材を続ける。

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