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ジャックムスの軌跡──デザイナー、サイモンの物語

  • 2024.11.29

少し前にパリで友人の誕生日ディナーに出席した時のこと。小さな街角のレストランに遅れて到着した私は長いベンチシートに座り、テーブルの同席者たちから、遠路はるばるフランスまで来た理由を問われていた。作家が執筆中の作品について聞かれたときに使う常套手段として、曖昧で素っ気ない態度を示しながら、あるファッションデザイナーについて書いているから、と答えると、テーブルの向こう側に座っていた誰かが「ジャックムスだといいな」と口を挟んだ。「ああ、ジャックムスね」と別の誰かが同意する。ゲストのほとんどはファッション業界と関係がなく、映画関係者やビジネスパーソン、子どもを持つ人、弁護士とばらばらだ。しかし、彼らはそのブランドに対して、ある認識を持っていた。「あそこは何か新しいことをやっている感じがするんだ」

厳密に言えば、ジャックムスは15年も前に創業されたブランドであり、ファッション業界的に言えば老舗に等しい。当時はサイモン・ポートと名乗っていた19歳の青年が、その年に交通事故で亡くなった母親の旧姓をつけて立ち上げたこのブランドに、真新しさはそれほどない。とはいえ最近、このブランドは目覚ましい成長と注目を集めており、長年愛されてきた高級ブランドでもなかなかないような威光を放つようになった。

わずか10年前、ジャックムスは熱狂的なファンはいたものの特に多いわけではなく、生き生きとした大胆な色使いがエネルギッシュな少数精鋭のコレクションを主にオンラインで販売していた。そして5年前にメンズウェアに進出したことで売上が800万ポンドを超え、フランスで店舗を構える機会をうかがうようになった。それがささやかな成功に思えるほど、今のジャックムスは成長した。小売売上は1年前と比べてほぼ倍増し、極めて野心的な拡大計画が進行中だ。2024年に入ると、ドバイ、カプリ島、サントロペ、ニューヨークに続々と店舗をオープン。さらに年内に、ロンドン(しかもニューボンドストリート)にも新店舗のオープンを予定している。またロサンゼルスでも、2025年のオープンに向けて計画が着々と進んでいる。ジャックムスは新興のラグジュアリーファッションブランドの中で、世界中にその名が知れ渡る可能性が最も高いブランドかもしれない。

〈Devyn〉赤のドレス 〈Deva〉トップ スカート/すべて JACQUEMUS (www. jacquemus.com)
〈Devyn〉赤のドレス 〈Deva〉トップ スカート/すべて JACQUEMUS (www. jacquemus.com)

南仏で育ったサイモンは今、自らを「サイモン・ポート・ジャックムス」と名乗っている。人名とブランド名をかけ合わせたこの呼称は、フランス語で宣伝を兼ねたダジャレにもなっている(「サイモンはジャックムスを着る」という意味)。実際、彼は普段から自身の作品を身につけている。ランウェイやレッドカーペットの上だけでなく、日々の生活の中でもだ。本人のインスタグラムのフィードは(そしてもちろん、親密な雰囲気を醸し出すジャックムスの公式アカウントも)、彼に対して親近感を抱かせるものとなっており、「ジャックムスの世界」を表現するウインドウディスプレイのような役割を果たしている。

「モデルでも、フォトグラファーでも、私たちが一緒に仕事をするものすべてについて、もっとランクを上げることはできる」と、彼の夫であり、このブランドのコンサルティングを担うバイラル・マーケターのマルコ・マエストリは言う。「でも、ジャックムスのストーリーには誰もが自分も関わっていると感じられる」。こんなエピソードもある。私の知人の建築家は、ファッションに特別興味があるわけではないのだが、あるときインスタグラムでサイモンの「とても印象的な胸毛」に衝撃を受け、このブランドを知ったと語った。

生で見るサイモンは、中背で宙返りが得意な体操選手のような体型をしている。茶色の口ひげを生やし、大きく口を開けて笑う。パリで仕事 をしているにもかかわらず、そよ風が心地よいどこか別の場所にいるよ うな雰囲気を漂わせながら。初めて彼に会ったのは、パリ8区にできたジャックムスの新本社だった(幾何学的でミニマルな建物で、テラコッタの床などの温かい南仏の象徴を備えたインテリアデザインは、彼自身の手によるものだ)。私はレモンの木が植えられたプライベートテラスに案内された。彼は言う。「ときどき、私はこのテラスにたたずんで、こう思うんです。『サイモン、この瞬間を楽しめよ。この先何が起こるかわからないんだから』って」

リビングルームには、アレクサンダー・カルダーの作品を模したジュートのタペストリー、ガランス・ヴァレによるキャンドルホルダー、ピーター・シュレシンガーの陶器の花瓶が飾られている。Interiors throughout photographed by Matthieu Salvaing
リビングルームには、アレクサンダー・カルダーの作品を模したジュートのタペストリー、ガランス・ヴァレによるキャンドルホルダー、ピーター・シュレシンガーの陶器の花瓶が飾られている。Interiors throughout photographed by Matthieu Salvaing

ジャックムスを扱った風刺画には、ビーチをぶらぶらしている人や崖からダイビングする人、贅沢好きの遊び人、船上でパーティーをするような人々とともに、サイモンはその享楽の主導者として描かれている。「彼はいつもその場を思い切り楽しんでいます。とても自由に生きている人です」と語るのは、2018年にフランスのテレビ番組で出会って以来、彼の親しい友人であり、ブランドのミューズでもあるデュア・リパだ。「彼は普段から頼れる人。ダンスフロアでもね」と彼女は言う。

だが、オンラインの世界(そしてダンスフロア)をひとたび離れれば、サイモンは徹底的に集中する。「世間を騒がせたいんです。半年ごとではなく、 日ごと、毎週、人々の注目を集めるような何かで。いいキャンペーンでも、新しいポップアップでも、セレブの服装でも」。彼はオフィスで黄色の布に覆われた肘かけ椅子に身をゆだねながら、私に語った。「新進気鋭のブランドの多くが2年で消えてしまうのは、常に存在感を示し続けるのが難しいからです」

ジャックムスはここ数カ月の間でコレクションを拡大し、価格も引き上げた。5カ国で約300人を雇用するまでに事業が成長する中で、ブランドが独自の視点を見失うリスクは心配していないのだろうか?「それこそが私の仕事で、休みなく続くものです」とサイモンは疲れ果てた様子で答えた。オフィスの壁に飾られたアート(ミロや南仏出身のアーティスト、アリスティド・マイヨールなど、彼が収集した作品からセレクトされている)から、財務報告書、毎日の売上まで、彼はブランドのあらゆる側面に関わっている。少し前にはブランドのCEO代理にも就任した。

「最初から、デザイナーとして関わるだけでは不十分だと理解していました。企業家になる必要があるとわかっていたのです」。いつしか、彼がフランスの一流メゾンのトップを狙っているのではないかという噂が流れ始めた。だが彼は、「私はもうフランスの一流メゾンのトップに就いています」と自信満々で言う。「ジャックムスのトップですから」

2022年には売上が1億9000万ポンド超となり、2024年の春にはフランスの芸術文化勲章シュヴァリエを史上最年少で受勲したデザイナーとなった。それから、彼の私生活はというと、2022年にマエストリと結婚(インスタグラムに「YESって答えたよ」と投稿)し、2024年4月にはミアとサンという名の双子の誕生を祝った。また、マルセイユにほど近い南仏の海岸沿いにある豪邸の改修工事にも取りかかった。

「海岸沿いの多くの家屋は、大理石が至る所に散らばり、エアコンやら質の悪い改装が施されて、破壊されてしまいました」と彼は言う。「この家は、ある意味とてもシンプルです。30年代にペギー・グッゲンハイムが夏休みを過ごしたことを想像できるし、何も変わっていません。独特の匂いがあるのです。改装はしても、この匂いはそのままにしておきました」。

この物件は華やかな成功の象徴と言えるが、彼とマエストリが育った2つの町の中間にあることもポイントだ。「何も変わっていないし、多くのことが変わりました」と彼は物思いにふける。「今私が送っているのは、夢見ていた暮らしそのもの。 私たちの仕事は、いつでも『もっと、もっと』と追い求めてしまうから、難しいところもあります。でも、ときどきは自分に『今、幸せだよ』と言ってやらなければなりません」

サイモンにとって、2024年の長い夏は陽光に満ちていた。2015年にLVMHプライズを受賞した彼をメンターとして支えていたのがカール・ラガーフェルドで、2023年はMETガラがラガーフェルドの功績を称えたのに合わせて、サイモンも彼にささやかなオマージュを捧げた。ラガーフェルドが1997年にカプリ島にあるマラパルテ邸の屋上のパティオから撮影した写真を、自身のジャケットに刺繍したのだ。地中海を見下ろす断崖の上に立つ、このくさび形をした赤く風変わりな建物はアイコン的存在であり、ジャン =リュック・ゴダールの名作『軽蔑』の中で、フリッツ・ラング演じる監督が劇中劇の映画を撮影した舞台として知られている。

人里離れたこの地に居を構えたミッドセンチュリーの小説家であり知識人でもあったクルツィオ・マラパルテが設計したこの建築物は、そののち一般公開はされていなかった。しかし、METガラの写真を見たマラパルテの子孫が、サイモンのジャケットの刺繍を見て見学させてくれたのだ。

フランス・地中海沿岸の自宅でくつろぐサイモン(右)と彼の夫のマルコ・マエストリ。
フランス・地中海沿岸の自宅でくつろぐサイモン(右)と彼の夫のマルコ・マエストリ。

「『軽蔑』を観たのは15歳の時でした」とサイモンは振り返る。当時、彼は人気のファッションブログを運営しており、VOGUE誌を手に入れるために、またセールで買えるものを探すために、時折パリを訪れていた。「私の家族や親戚は皆、農業を営んでいました。そんな中でファッションに夢中になるなんて突拍子もないことでしたが、私たちは美を愛する一家でもありました」(彼はむしろ、励まされたという。「家族の誰も『そんなの無理に決まっている』と言いませんでした。母は私に『そうよ、あなたは一番有名になるんだから』と言いました」)。

最終的に、彼らの視点が、彼自身の視点となった。「私はフランスの女性について語りたいと思いました。お決まりのエッフェル塔やパリのエキゾチシズムではなく、畑で働く女性、工場で働く女性、静かでたくましく、自然体の女性についてです。映画『軽蔑』の予告編を見れば、ジャックムスのヴィジョンがはっきりとわかるでしょう」と彼は言う。「私はマラパルテ邸のオーナーに『 年間、この家に心を奪われてきました』と伝えました。それから、邸宅を訪れた際に写真を撮っては私のチームに送り、『ここでショーをやりたい』と伝えたのです」

そして、ジャックムスがカプリ島に小さなブティックをオープンしてから間もない6月のある日、厳選されたごく少数のファッション関係者のグループが、地中海を舞台にした彼の夢を叶えるために集結した。わずか40席という非常に親密なショーで、ゲストたちはスピードボートに乗り込み、海が荒れたときには航行不可能になるほど小さく岩だらけの船着き場から邸宅にやってきた。邸宅へと続く、長く不揃いな階段の一番上には、水の入ったコップ、日よけ用のパラソル、そしてゲストの到着シーンを撮影すべく、ステディカムが待ち受けていた。

邸宅内の廊下では、ショーの最終準備があわただしく進められている。マエストリは臨時のメディア指令センターの統括役だ。マラパルテ自身が使っていた書斎には、ジロドゥ、ヘルダーリン、アルフォンス・ド・シャトーブリアンなどのフランス語のペーパーバックが置かれていたが、潮風にさらされてボロボロになっている。その書斎で、サイモンはブランドに対する自身のヴィジョンを数人の記者に語った。「若い頃はただ新しいことをしようと思っていた。今は長続きすることを考えています。多分、父親になったからでしょう」

ひまわりは繰り返し登場するモチーフで、メインベッドルームにある本物のひまわりから、ゲストルームのビューローに飾られたジャン・マメズによるフリーマーケットで見つけた油絵まで、随所に取り入れられている。
ひまわりは繰り返し登場するモチーフで、メインベッドルームにある本物のひまわりから、ゲストルームのビューローに飾られたジャン・マメズによるフリーマーケットで見つけた油絵まで、随所に取り入れられている。

最後に到着したゲストの一人は、サイモンに招待されたグウィネス・パルトロウだった。サイモンはまだ、彼女に会ったことがなかった。蒸し暑いこの日の午後、幸か不幸か、彼女はジャックムスによる厚手の生地でインパクトのある黒無地の長袖、膝下丈のキュロットスーツを着ていた。「パルトロウ様?」と案内係が彼女に声をかける。「これからしていただくことなんですが......」。彼は邸宅の大階段へと続く道筋を説明した。

「わかりました」。パルトロウはそう言って髪を片耳にかけると、ゆっくり、そして堂々と階段を上り始める。ジャックムスのヒールを履いているのだから自然と貫禄ある歩き方になる。近くにあるスピーカーから『軽蔑』のメロディが流れ、階段を半分ほど上ったところで、彼女はスターの威厳を漂わせながら振り返る。「オレンジ色の四角をまっすぐ見て 」 と 監督が叫ぶ。「私が『アクション!』と言うから、『ボンジュール』と言って。いい?」彼女は周囲を見回した。

「カメラ、OK......マイクOK...…アクション!」

「ボンジュール」とパルトロウが言う。畏敬の念に包まれた一瞬の沈黙の後、それを打ち破るようにアシスタントが叫んだ。

「もっと大きな声でお願いします!」

ショーが始まったのは、その1時間後だ。全員が着席し、これから最 初のルックが見られると待ち構えて いるところに、デュア・リパがスリムな水色のドレスを着てランウェイを駆け抜け、カメラが構える中でマ エストリに抱きついた。席に着いていた編集者や、髪や携帯電話をいじっている重鎮たちを前に繰り広げられたこのシーンは演出されたもので、現場は何ともぎこちない空気に包まれたが、ソーシャルメディアでは大いに話題となった。弦楽器の調べが響く中、ブリジット・バルドーが映画『軽蔑』で着用したバスローブからインスピレーションを得た淡いイエローのドレスで登場すると、ショーはようやくスタートした。

ジャックムスのシグネチャーである単色のレジャースーツは、透け感のあるドレープドレスに取って代わられた。ケープのようなラペルやアニマルプリント、ペプラムドレス、ヘッドスカーフ、そしてブランドの特徴であるアシンメトリーな前立てのシャツなどが登場。コレクションはジャックムスらしく、クラシカルでシルエットを重視したラグジュアリーウェアと、躍動的なスポーツウェアの間に一風変わった道筋を描き、その視点はハイストリートの目利きたちと、クラブで注目を浴びるファッショニスタの両方を捉えている。「サイモンの服やバッグ、靴は、遠くから見ても一目でわかるほど個性的」だと、リパはのちに語っている。「アーティストも、そういう存在であるべきだと思う」

カメラのレンズを通して見る風景は現実離れした夢のようであり、ありえないほど贅沢で心地よい光景だったが、実際のところ、断崖絶壁の上でのひとときは、より現実的な問題があった。マラパルテ邸とその石造りのパティオは、湿度と真昼の容赦ない日差しのせいで、まるでオーブンのよう。パルトロウは到着後、目に入る数少ない日陰のひとつである松の木の枝の下で、ショーまでの時間のほとんどを過ごした。ジャックムスのチームがカメラ映りが悪いと判断してパラソルと水の入ったコップを回収すると、ゲストたちは砂漠での撮影に赴いたエキストラのような気分になった。私は観客たちが帰り始めた頃合いを見て、冷たい水でのどを潤そうと水道を探しに走ったが、足早に立ち去ろうとするゲストが私だけではないことに気づいた。一見すると心地よいひとときも、実は大変な努力が必要なのだ。

サイモンは、初めてのコレクションをデザインするはるか前から、自分がこれから創り出すものがどのような美学に基づいているのか理解していた。「トマトと夕陽、建築的な家屋をかけ合わせた感じ。そういうものを、知らず知らずのうちに繰り返しているんです」と彼は言う。しかし、彼のコレクションを見守ってきた人々がその美学をすばやく理解したことには驚かされたという。「ブランドがそれほど有名でなかった頃から、いろいろな人が車や建物、風景のスクリーンショットを撮っては、『これはすごくジャックムスっぽいよね』と言っていました」と語った。

取材したその日は、ルックブックの撮影を監督するためにパリの北側にあるオーベルヴィリエに来ていた。今日の写真撮影は4人のモデルを中心に進められている。サイモンは、黒革のソファの隅に寝そべり、扇風機の風を受けていた。前夜、デュア・リパのライブを見にニームまで行き、3時間しか眠らずに始発の列車でパリに戻ってきたのだ。

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「こういうライフスタイルは、一番望んでいない」のだと彼は言う。「月に1度とか、2カ月に1度とかならあり得るけど、それ以上はとても無理」。パーティー好きのイメージとは裏腹に、彼は習慣に忠実だ。朝7時 半には赤ん坊たちとともに起床し、 運動をしてからすぐにオフィスに入る。そして、夕方には家に帰り、ノ ートパソコンを開いたままのマエストリに小言を言って、 10時には就寝。(「9時間はベッドで寝ないと」と彼は言う。これは家族とベビーシッターのサポートのおかげで成り立っている)。スタッフに囲まれた彼は、コーヒーを頼んだ。

「今どんな状態か、見ればわかるでしょう」とソファの上で体を丸めながら嘆いて見せた。現在制作中のルックブックは、次のコレクションのためのもので、デザインはすでに完成しているが、公開されるのは1月である。これはこの業界では異例の リードタイムで、ジャックムスが3年前に「今見て、すぐ買う」という革新的な戦略として採用したのだ。コレクションが初めて披露されるまでに、生産、流通、広告宣伝のすべてを前倒しで完了させることで、最後のモデルがランウェイを去った瞬間から、販売を開始できるという仕組みだ。

開放感あふれるリビングルームが外の雰囲気を取り込み、キッチン脇にはもうひとつのバルコニー、そして地中海を見渡せる臨時の展望デッキ。
開放感あふれるリビングルームが外の雰囲気を取り込み、キッチン脇にはもうひとつのバルコニー、そして地中海を見渡せる臨時の展望デッキ。

ジャックムスは、ほぼ創業当初から、ファッション業界の主流とは一線を画す機会を模索してきた。2019年に発表されたアクセサリーの大ヒット作のひとつが、財布ほどの大きさしかないミニバッグ「Le Chiquito」で、賞賛と同時に揶揄もされた。また、ジャックムスは当たり前の時期や場所でショーを行わない。「彼は、あらゆるショーに顔を出しているようなファッション関係者たちを、自分のショーで見たくなかったのです」と、ブランドの立ち上げ当初から彼を追い続けているファッション・ドキュメンタリー作家でジャーナリストのロイック・プリジェントは言う。

それがゆえに、サイモンはファッションウィークの期間を外してプレゼンテーションを行い、自身の幼少期のアイドルや祖母を招待する。「まったくもって、彼は『トレンドに乗る』タイプではありません。自分のやりたいことをやっていて、そこにはある種の純朴さがあります。『俗っぽくなることを恐れないでやってみよう』というような」とプリジェントは続けた。

撮影の休憩中、サイモンは棚の間を歩き回り、アイテムを吟味する。「この環境では製品をよく見ることができない」と顔をしかめた。飛行機の格納庫のようなスタジオは薄暗く、好ましい環境とは言い難い。

この1年で、ジャックムスの顧客層はより成熟した裕福な層へと変化したように見える。「バッグを1個買うだけのお客さまから、レディ・トゥ・ウェアや高額な商品を購入するお客さまへと急に変わったのは、面白いことです」。活気に満ちたスタジオを見渡し、今度は満足気に答えた。「会社にとっては大きな変化です」

翌日土曜日の午前中、サイモンは、パリ市を囲む環状高速道路の高架をくぐった先にある、サン・トゥアン・シュル・セーヌの蚤の市にいた。この有名な蚤の市は、それ自体がひとつの村のようなもので、デザイナーズブランドの偽物(もちろん、ジャックムスの偽物も)から、よりレアなヴィンテージの衣類やアンティークまで、さまざまな品物を売る露店が無数に並んでいる。多くの裕福で多忙な人々とは異なり、サイモンはアートアドバイザーや装飾担当者も連れず、訪れるたびに同じ道順で見てまわる。ヴィンテージの服、家具を見て、ヴァン・フース&サンズでカプチーノを飲み、それから雑貨を物色する。彼は蚤の市の有名人で出店者たちが次々と声をかける。「あまりによくここに来るので、マーケットから自分のブティックを出しては、と声をかけられたほどです。それで......」と言う彼の視線が急に輝いた。「あ、この椅子すごくいい!」

それは頑丈な籐のアームチェアで、黄色の花柄クッションがおそらく取り外せない形でついていた。サイモンは、土曜の朝にふさわしい服装をしている。白いデッキシューズにゆったりとした真っ白なパンツ、そしてヘザーグレイのパーカの上には、ゆったりとしたシルエットに青い縁取りが入った白いトラックジャケットを羽織っている。「スポーツ全般に夢中です。(スポーツ選手は)この世界のスーパースターだと思います」。ブランドをよりスポーティなイメージにしようという取り組みの中で、彼は初めてマエストリと出会った。サイモンが撮影した2018年のキャンペーンで起用したラグビー選手が、マエストリの弟ヨアンだったのだ。

「ヨアンと私はすっかり意気投合して、それでマルコのことを聞いたんです」とサイモンは振り返る。「それからマルコにメールして『今夜パスタを食べに行かない?』と誘いました。でもすごく疲れていたらしく、断られて。それから2〜3日して、『うちのビルの前で集合。パスタを食べに行くよ』と誘ったんです」

空に彩りを添えるジャックムスのタオル。
空に彩りを添えるジャックムスのタオル。

マエストリは次のように振り返る。「私は彼がファッション業界にいることを知っていたので、『きっと、いつも外に遊びに行って、 人くらいが参加するどこかのパーティーにいて、なんだかおしゃれ、みたいなやつに違いない』と思っていたんです。だから、彼が家族や昔からの友人たちと深くつながった、気取ったところのない人間だということが意外でした。私が彼のことを『いいな』と思った最初の理由はそれです」

「私は祖父母の家で毎日食事をしながら育ちました」とサイモンは説明する。「祖母、叔母、兄弟、姉妹、父、そしてもう一方の祖父母も、皆同じ通り沿いに住んでいます。7分もあれば一族全員にキスができるし、ジャックムスに入社してくれた下の従兄弟と自分を除いて、村から出て行ったのは一人もいないんです」

その村はマルモールというコミューンで、アヴィニョンとマルセイユの中間にある。「母はジャックムス家から嫁いで、父はポート家の人間ですが、面白いことに、ジャックムス家には父の遠い親戚もいるんです。小さな村ですからね」と彼は肩をすくめた。マエストリも語る。「出会ってから1週間後には、子どもが欲しいかどうかについて話していたと思います。私が『子どもを持つことが夢なんだ』と言うと、彼も『僕だってそうだよ』と答えました」

海へと続く小道に面してゲストルームが並ぶ。
海へと続く小道に面してゲストルームが並ぶ。

代理出産のプロセスには3年半を要し、2024年春、双子の出産を待ったタホ湖で幕を閉じた。父親になるまでの長い道のりを経て、サイモンとマエストリはある種の粘り強さと親となる喜びを象徴する存在となった。特に、ゲイカップルの代理出産がまだ一般的ではないフランスでは、「二人が子どもたちと一緒にいるところを見ると、胸がいっぱいになる」とデュア・リパは言う。

「産まれたばかりの子どもたちを連れて帰り、28時間眠り続けました」とサイモンは言う。「子どもたちがどれほどあっという間に成長するかがよくわかりました」。理性的に考えれば、人生で最も仕事が忙しいときに小さな子どもの世話をすることは容易ではないが、彼はそう思わなかった。「ここ数年、ファッション業界は何だか奇妙な状況でした。ですが、父親になったことで、どこか楽に感じるようになりました。子どもがいると、ある意味、それ以外のことなどどうでもよくなるから」と彼は言う。

彼の会社にも、ある種の家族的な親密さが根付いている。「ブランドの立ち上げ当初に在籍していた10人のうち、6人は今もここに残っています。300人もの社員がいて、私たちは一つの大きな家族だなんて嘘はつきません。社員食堂で一度も見たことのない人に出会うこともあります。それでも、ファッションという世界の中でとても健全なものを維持できると感じています。新人デザイナーの中には大声で怒鳴るような過激な人もいると聞きますが、どうしてそんなことができるのか理解できません。私が20歳の頃は、みんなに助けてほしいと懇願してまわっていましたから」。そう言いながら、彼は眉根を寄せた。

別のゲストルームで、ジャン・コクトーの絵画2点の横で光を浴びるディーヴァ・カッセル。 ドレス/JACQUEMUS(www. jacquemus.com)
別のゲストルームで、ジャン・コクトーの絵画2点の横で光を浴びるディーヴァ・カッセル。 ドレス/JACQUEMUS(www. jacquemus.com)

ジャックムスを立ち上げた頃が、おそらく彼の人生の中で最も波乱に満ちていた。母親のヴァレリーは42歳で、交通事故で亡くなった。彼はその1カ月前に、服飾学校エスモードのファッション科の学生としてパリに引っ越したばかりだった。彼女は息子の学費を工面するために車を売ろうとしていた。

「夢でした。大きな夢だったんです」と彼は言う。「ある日突然、母を失って、時は流れていると理解して、その考えで頭がいっぱいになりました。すごくむかつくけれど、時は流れ続けている。母が亡くなって、地元の南仏で数週間を家族みんなで過ごす代わりに、私は4〜5日後には電車に乗ってパリに戻りました。祖母は『サイモン、どうしたの? 大丈夫?』と心配してくれましたが、私は『戻るよ』と答えました。そのときの私は、とても強いエネルギーに満ちていました」。

サイモンは指を鳴らした。「それが決定的な瞬間でした。私は生地市場に行き、広告キャンペーンを構想して、それを初のコレクションL ’ Hiver FroidとしてFacebookに投稿したのです。それがどんどんシェアされ始めて、Tumblrでは100万回シェアされて。3〜4週間後にはフランスのメディアから電話があり、『インタビューをしたい』と言われました。みんなの注目を浴びたかった。無我夢中でした。友人と一緒にディオールのショー会場に行き、外で自分たちをアピールしました。モンテーニュ通りで開催されたVOGUEのフェスティバルに最初のコレクションを携えて参加し、通りで『作品を見にきて!』と叫んだりもしました。選択の余地はありません。この世界にとどまらなければならないし、注目が必要だったから」彼は続ける。

「私はいつもこう言っています。母はいなくなってなどいない、私のそばにいると。だからすぐに実家を離れてパリに戻ることができたし、あんなに力強いエネルギーが湧いてきたのです。自分は独りだとは感じませんでした」。母親の死に際して、彼が母親に残したものはただひとつ、一冊のVOGUE誌だった。「私はずっと、すごいファッションデザイナーになるんだと母に話していましたから。いつかVOGUEに載るから。そう母に約束したのです」

9月、サイモンはニューヨークを訪れた。スプリングストリートとウースターストリートとの角にできるジャックムスの米国第1号店の、最終段階にある改装作業を監督するためだ。双子の子どもたちと1日以上離れるのは初めてのことだ。朝は風が心地よく、気温も穏やかだった。彼は車椅子用のスロープに立つと、手すりから身を乗り出した。ソーホーを行き交う人々の流れを眺め、また故郷から遠く離れたファッションの街で自分の顔を売る楽しさを味わうのにうってつけのポジションだ(実際、3人の若い女性が足を止め、喜びの声を上げた。「突然すみません。でも、あなたの作品の大ファンなんです。すごくインスピレーションをもらっています」と、一人が言った)。

長年、彼はメディアに対して、新興ブランドが実店舗をオープンするのは馬鹿げているし、オンラインショッピングや百貨店が主流の時代には無意味だと語っていた。今でもその考えは変わっていないが、リスクに立ち向かうだけの力は備わったと感じている。「マレ地区でかわいくてクールなブティックを持とうとは思いませんでした。どうせやるなら、モンテーニュ通りに出したかったのです」と彼は言う。モンテーニュ通りはパリの中でも高級ファッションが集まる中心地だ。彼は、それを見事にやってのけたのだ。

一方、ロンドンのニューボンドストリートでも新店舗の開設に向けて準備中である。4フロアからなる贅沢な売り場スペースは軽やかなクリームカラーとバナナイエローで彩られ、曲線を描くヴィクトリア朝様式の階段でつながっている。また、飾られるアート作品は彼が自らキュレーションする予定だ。「もっとパーソナルな感じにしたいんです。ヴィンテージのソファの隣に古い木のテーブルを置くみたいに。まだ、やるべきことがありますね」

ニューヨーク店の工事現場を見ながら彼はそう言うと、眉を寄せた。視線の先には埃っぽい未完成の空間が広がっているが、そこにはすっきりと美しく仕上げられた大工仕事からドアのそばに置かれたジャックムスグリーンの大きなダストボックスまで、好奇心をかき立てる美しさがある。「自分らしい空間で、自分の商品を見せなければなりません」と彼は鋭い視線を向けたまま続けた。「私の家に来たように感じてもらうことが大切なんです」

Styled by Julia Sarr-Jamois Hair: Diego Da Silva Makeup: Niamh Quinn Models: Deva Cassel and Devyn Garcia Produced by Tann Services Set Design: Hella Keck Tailor: Chris Grison For photos by Matthieu Salvaing: creative consultant, Sophie Pinet

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