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生きるだけで苦しいのに、研究の道を諦められない私は馬鹿だろうか

  • 2024.11.27

研究者になりたい。学部生の終わり頃からうっすら思っていたことだったが、大学院で研究を進めるにつれ、この気持ちが強くなった。純粋に研究が楽しくてやりがいがあるというのはもちろん、私が執筆した論文を他の研究者が論文に引用してくれていたことがとても嬉しかったのだ。

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私の研究分野は、決して目立つものではない。しかし、DXや多様性が重視されている世の中の影響を受け、必要性を訴える研究者も増えてきた。私も彼らに同感だ。そして、私もその一員として研究成果を生み出したい。

大学院の修士課程修了後は一般企業に就職した。博士課程進学を諦めた一番の理由は金銭的余裕がなかったからだ。ただでさえ修士課程進学を反対されていたのだから、これ以上を望むなら自分でなんとかするしかない。
一度社会に出て経験を積んで、その合間で研究に関わる情報収集をする。そして、また研究をしたい。そう思っていた。

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私の考えは間違っていた、あるいは、甘かったのかもしれない。まず、新卒で入った会社でパワハラを受けた。耐えられなかった私の心身は壊れた。身体が動かなくなり、何も感じないと思えば感情が過剰に変動してしまうメンタル状態になった。そして、趣味と習慣を失った。好きだったものに興味を示すことができなかった。習慣であり趣味であった勉強もできなくなった。当然、研究の情報収集もできなくなった。
休職を経て職場復帰したものの、パワハラのトラウマに苛まれる毎日。私は逃げるように退職した。
本当はもっと休むべきだった。しかし、生活するだけの経済力は持っておかねばと、逃げるように就職した。そこが今の職場だ。

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今の職場はミュージアムで、研究補佐として働いている。最初は仕事ができるという安心感と、興味のある業務に取り組めるという喜びでいっぱいだった。研究室にこもっていた大学時代を過ごした私は、アカデミックな環境に戻って来れたことが嬉しかった。学生時代の研究内容はミュージアム施設でも生かすことのできるものだったため、ひょっとしたらいつか自分の研究してきたことが生かせるかもしれないと密かに期待していた。

趣味に対する関心を少しずつ取り戻した。習慣であった勉強や家事、料理はまだうまくできないが、生活のリズムを再びつかむことができた。
研究補佐の仕事は契約で、十分な収入を得られないため、副業でショップの販売員を始めた。学生時代はずっとレジ打ちやサービス業のバイトをしていたため、そういう意味では気楽に働ける仕事を選んだつもりだ。

自分の中の秩序を取り戻し、また研究活動を始めたかった。

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ミュージアムに就職して2年。私はきっと、何も変わっていない。
私の仕事は、決まったものが少なく、何か仕事はないかと最初の頃は周囲に尋ねていた。それでも見つからない時は、自分で仕事を作っていた。散らかりっぱなしの部署の整理から、業務中に見つけた職場内システムの効率的な使用方法の共有まで、できることはなんでもやった。

しかし、2年も経つとできる仕事は尽きてしまった。プロジェクトに携わらせてもらったり、私に管理を任せてもらっている仕事もあるものの、「何も仕事がない」という時間がここ数ヶ月で増えた。雑多な業務も部署内の職員で適切に割り振られておらず、そもそもその業務のやり方を私は教わっていない。だから、仕事を任せてもらえない。窓際社員のような存在にしかなれないことが悔しくて苦しい。

副業もそうだ。将来のことを考えたら勉強や研究のために副業の時間を減らす、あるいは近しい職種に転職するほうがいいのに、それがうまくいかない。少しでも今の副業と新しい副業の間に隙間ができてしまうことが怖い。それくらい、金銭的に厳しいのだ。
本当はしんどくても、本業と副業合わせて週6、7で働いている。そうしないと、研究する前に生きていけない。

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果たして私は、また研究ができるのだろうか。こんな状況の中にいても研究者を目指したいと思う私は馬鹿だろうか。
博士課程を出ていないし、社会に出てからの実績は微々たるもの。多分、研究者になるのは難しい。

生きているだけで苦しいのに、研究の道を諦められない。何も見えない中、手探りで、少しずつキャリアを見出そうとしている日々を過ごしている。

■継実のプロフィール
田舎に生まれ育ち、外の世界に憧れ関東の大学へ進学。大学の授業やバイト、留学、大学院などを経て、現在社会人。精神年齢は8才だと思ってる。ワクワクするのが好き。

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