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町田康『家事にかまけて』第4回:地球温暖化と衣更え

  • 2024.11.27
衣替えをしている人のイラスト

嫌な話を耳にした。どうやら最近、地球が温暖化しているらしい。そしてその原因は私たちが排出する二酸化炭素などにあるらしい。それにより温室効果という現象が生じ、熱が逃げず、気温が上昇する。そうするとどうなるのか。それは俺は知らん。知らんけれどもあかんことであるらしい。

その時、俺の頭の中に、「あかん子は阿寒湖に行けおぼぼしく淫らな命ジョンに預けて」という短歌が浮かんだが、そんな歌を頭に浮かべてなにになろう。なににもならない。そんな歌が浮かぼうと浮かぶまいと地球温暖化は進んでいってしまっているのだ。

その所為かどうか知らぬが毎年毎年、夏が暑く、そして長くなってきている。今年の夏なんぞも然うで、気温が異常なくらいに上昇し、堪え性のない俺なんかは、上はランニングシャツ、下は短袴、足元はサンダル履きという無慙な恰好で正式の場所に出掛けていって、人々に不快な思いをさせた。正直すまんかった。

そして九月に夏の暑さが残るのはソラそうだろうが、十月も末になっても暑い日が続き、いつまで経っても夏物がしまえず、十一月になってようやっと厚手の上衣や糸編み衣服を着るてな具合で日々の衣服が容易に定まらない。

なんてなことはマア地球温暖化の弊害としては軽微なものなのだろうが、しかし衣服が暦によって決まらないというのはなかなかに面倒だ。なんとなれば出掛ける前にいちいち天気アプリを見たり、窓から道行く人の服装を見るなどしなければならぬからである。

そう言えば今から五十年ほど前、中学生の頃に、英語の授業で読まされた短文の一節を今、思い出した。それは、「外国に行くとあなたは奇妙な光景を目にするであろう。それは短袖の衣服を着る者と毛皮を纏う者が通りを行き交う光景である」という文章で、西洋の個人主義を称揚し、なにかにつけ周囲を気にする日本人を批判した内容であったと記憶する。

しかし五十年後の今、それは殊更、珍しい光景ではない。十二月にティーシャーツ一枚で出歩いている者もあれば、盛夏にライダースジャケットを着てパンクロックを演奏する阿呆もある。

それはマア、そうした西欧アゲキャンペーンが実を結んで日本人の間に個人主義が浸透したからかも知れないが、やはり地球温暖化によって服装感覚に変調をきたしてしまったことが大きいと思われる。

俺が中学生の頃は衣更えの決まりがあった。六月から九月までは夏服、十月から五月までは冬服、と学則に定められていたのである。学校だけでなく世の中全体もそんな感じで、その頃は衣服の管理は母親がこれを行っていた。当季の衣服は洋箪笥や和箪笥にしまい、そうでない衣服はブリキで拵えた蓋付きの衣裳ケースに畳んでしまい、押し入れの下段に重ねて容れてあった。

しかし押し入れ引き出し収納ケースというものが発明せられ、今はそんなことをしなくともよくなった。押し入れの下段の、さらに下の衣裳罐からも随意に衣服を取り出せるからである。この先、地球温暖化がますます進めば十二月にティーシャーツや短パンツを穿くことも増えるだろうから、人々はますますこの引き出し式ケースの恩恵に与ることとなるに違いない。

そして衣更えという概念も本来、四季の別のあるはずのこの国から完全になくなるのだろう。寂しいことだ。

かくいう俺も引き出し式収納ケースを導入して、便利に使っている。それのお蔭で衣更えをしないまま、気温の変化にしたがって随意に衣服を選んでこれを着用している。けれども困ったことがないでもない。というのは先ず第一に衣服が多すぎて収納しきれず溢れるというのがある。

というのは誰でも思い当たる節があるのではないだろうか。兎角、衣服と本というのは知らぬ間にどんどん増えていくものである。

ならば不要の衣服を捨てればよいではないか、てなものであるが、これがなかなかに難しい。根本原理を考えれば、衣服には気に入った服と気に入らない服があり、そして着られる服と着られない服があり、一番良いのは気に入って着られる服を残し、気に入らず着られない服を捨てればよいではないか、てなものなのであるが、手持ちの衣服のうち、そうしたものはごく僅かで、気に入って着られない服、若しくは、気に入らぬが着られる服、が九割を占めているのである。

そしてこの両者が頭脳のうちで鬩ぎ合い、牽制し合って、結局どちらも捨てられぬという膠着状態が長年続き、その間にも服はどんどん増えていくのである。

これに決着をつける為にはどうしたらよいか。それは自らの価値観を一本化することだろう。つまり、気に入るか/入らぬか、着られるか/着られぬか、その両方に目配せするから、どっち即かずの中途半端な結果に陥るのであって、価値観世界観を一本化すれば、捨てる/捨てない、の明確な線引きが可能になるのである。

という理論はしかし実際的ではなかった。なんとなれば、気に入らないのは姿見で己が姿を見たときに珍妙だったり変梃だったりするからだが、それを判断しているのは俺の感覚である。そしてそれを購入したのも俺の感覚《センス》で、その時はそれを「いい!」と感じたから気に入って買った訳で、それを今、「よくない」と思うのは俺の感覚が、その時から変化したからであろう。

扨、そこで問題になってるのは、変化したのは良いが、果たしてその変化が進歩であるかどうかという問題である。以前に比べて俺の感覚が進歩しているのなら、今の「よくない」という判断は正しい。しかしそれが退歩であったらどうか。昔の判断の方が正しく、今の判断は間違っている、ということになる。誤った判断によって行動すれば失敗する。具体的に言うと、何年後かに、「あー、捨てなければ良かった」と後悔することになり、できればそれは避けたい。

かくして、不要の衣服を捨てられぬ状態が続いて、その間、どういう訳か、「着られない服」がどんどん増えていき、大量の衣服を目の当たりにしながら、今日、着ていく服に悩む、という馬鹿げた現象が起こる。頭が温暖化する。どてらを羽織って表に出る。蝋梅が咲いている。また一年が過ぎていく。

profile

町田康

まちだ・こう/1962年大阪生まれ。作家。『くっすん大黒』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞、「きれぎれ」で芥川賞、『告白』で谷崎潤一郎賞、『宿屋めぐり』で野間文芸賞など受賞多数。他の著書に「猫にかまけて」シリーズ、『ホサナ』『ギケイキ』『しらふで生きる』『口訳 古事記』など。

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