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「ズボンに沼津を入れといてくれ」を一瞬で理解する75年愛…百合子妃が遺した三笠宮崇仁親王との夫婦漫才

  • 2024.11.26

天皇陛下の大叔母にあたる三笠宮妃百合子さまが10月15日、亡くなられた。生前に尽力された崇仁親王の自伝には、百合子妃による秘話が遺されている。宗教学者の島田裕巳さんは「皇族の伝記本というと堅苦しいものを予想するが、彬子女王が聞き手をつとめた『女子会』のようなオーラルヒストリーによって貴重な記録となっている」という――。

新年一般参賀に臨まれる三笠宮妃百合子さま=2020年1月2日、皇居・宮殿・長和殿のベランダ
新年一般参賀に臨まれる三笠宮妃百合子さま=2020年1月2日、皇居・宮殿・長和殿のベランダ
「実の親を亡くしたよりも悲しい」

三笠宮家の百合子妃が11月15日、101歳で亡くなった。皇室の最年長だった。夫である三笠宮崇仁親王も100歳の長寿だった。

したがって、結婚生活は75年にも及んだ。結婚75周年は「ダイヤモンド金婚式」と呼ばれるが、現実にその日を迎えられるカップルが、いったいどれだけいるものだろうか。

三笠宮夫妻の間には5人の子どもがいて、そのうち女性2人は存命だが、3人の男性はすでに亡くなっている。長男の寛仁親王と次男の桂宮宜仁親王はそれぞれ66歳で亡くなり、3男の高円宮憲仁親王になると47歳の若さで亡くなっている。残念なことに、長寿の伝統は受け継がれなかったようだ。

百合子妃が亡くなった翌日からは、赤坂御用地の三笠宮邸敷地内で一般の弔問記帳がはじまった。そのことを伝えるテレビのニュースを見ていたら、取材を受けた弔問客のなかに、「実の親を亡くしたよりも悲しい」と涙ながらに語っていた男性がいた。

三笠宮崇仁親王の100年の生涯をつづった伝記

なぜ親の死よりも悲しいのか。その理由はテレビのインタビューでは明らかにされなかったが、それほど百合子妃を敬愛する人たちに、是非ともお勧めの本がある。

それが、吉川弘文館から刊行されている『三笠宮崇仁親王』である。これは、三笠宮の100年にわたる生涯をつづった伝記なのだが、そのなかには、第10章として「百合子妃殿下御談話」が含まれている。この談話は、2021年の3月3日から11月5日にかけて10回にわたって行われたものである。

ただ、読んで欲しいと勧めはするものの、一般の読者にはなかなか手が出せないかもしれない。なにしろ、『三笠宮崇仁親王』は1334ページにも及び、重さは2.3キロもあるからである。本には、分厚い「鈍器本」というジャンルがあるが、超弩級どきゅうの鈍器本であることは間違いない。

その分、本の定価も税込みで1万1000円である。学術書だと、それだけ高額なものも少なくないが、一般の読者が買うような価格ではない。公共図書館にも入っているが、重いだけに借りてくるのもかなり大変である。

「百合子妃殿下御談話」だけで、260ページあり、しかも二段組である。読みごたえは十分にある。一般の読者にはそう簡単に手に取ることができない本なので、ここでは、その内容を百合子妃の談話の部分を中心に紹介してみたい。

彬子女王が聞き手をつとめたオーラルヒストリー

まず、この本の編者は「三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会」となっているが、その委員長をつとめたのは、今話題の彬子女王である。彬子女王は三笠宮夫妻の孫にあたる。

皇族が委員長だということになると、名目だけという印象を受けるかもしれないが、彬子女王はオックスフォード大学で博士号を取得した歴史学の研究者である。したがって、先頭に立って伝記刊行の実務にあたっている。

彬子女王は、百合子妃に対する談話の中心的な聞き手にもなっている。しかも、それを「オーラルヒストリー」と位置づけている。対象者にインタビューを重ねる聞き書きは、それぞれの学問分野で昔から行われてきているが、昨今では、とくに政治学の世界で注目され、実践されるようになってきた。彬子女王も、そのことを踏まえ、談話をあえてオーラルヒストリーと呼んでいるに違いない。

政治学でのオーラルヒストリーは、研究者が一人の政治家に対して行うものだが、百合子妃に対するオーラルは、皇族が皇族に対して行ったもので、その点で希有な試みである。しかも、その場には、彬子女王だけではなく、百合子妃の二人の娘、近衛甯子やすこ、千容子まさこ両氏も同席していることが多かった。その分、オーラルは和気あいあいとした雰囲気のなかで進行していき、それはまるで「女子会」のようである。

三笠宮家のアイドルのような崇仁親王

女子会だというのも、話題の中心は崇仁親王というひとりの男性であり、その場に集まった妻、娘、孫が、それぞれの立場から愛をもって語っているからである。崇仁親王は、三笠宮家のアイドルのような存在なのだ。

しかも、興味深いことに、女性たちは立場が異なる。百合子妃は皇族に嫁いだ経験をもち、2人の娘は皇族から離れた経験をもっている。そして、孫である彬子女王は、皇族として生まれ、現在でも皇族にとどまっている。

皇族の伝記本ということになると、堅苦しいものを予想するが、彬子女王は冒頭の「謝辞」で、三笠宮夫婦にまつわるとっておきのエピソードを披露している。それは、オーラルのなかでも語られていない話である。

三笠宮は、頭の回転がはやすぎるのか、考えていることと口に出すことが一致しないことがよくあった。「ハンカチ、ハンカチ」とハンカチを探しているはずなのに、それが万年筆であったりするのだ。

とっておきは、旅行の準備をしているとき、百合子妃にむかって「ズボンに沼津を入れといてくれ」と言い出した話である。意味が分からないので、普通なら聞き返すはずだが、百合子妃は、それは「万年筆にインクを入れておいてくれ」だと解釈し、それが正解だったというのだ。

75年も連れ添えるだけの息のあった夫婦ならではのことだが、実は私の妻には三笠宮のようなところがあり、キュウリと言ってピーマンをさしていたりするので、このエピソードにはとても興味をもった。

三笠宮崇仁親王
三笠宮崇仁親王(写真=ブラジル国立公文書館/PD Brazil Government/Wikimedia Commons)
百合子妃を「賢妻」と呼ぶ夫婦関係

オーラルのなかでも、息のあった夫婦ぶりを示すエピソードが紹介されている。

それは、三笠宮が自分のいそがしさについて書いたエッセイにある話で、そこで三笠宮は、「正しいいそがしさ」と「不純ないそがしさ」を区別していた。

不純ないそがしさというのは、気持ちだけが焦っている状態をさすようなのだが、それであまりにムシャクシャしたので、三笠宮が「我と我が身をズタズタに切りさいなんで、三途の川に投げこんでみたい」と口走ったところ、傍らの百合子妃が「痛いわよ」と叫んだので、正気に帰ったというのである。

三笠宮はその際に、百合子妃を「賢妻」と呼んでいる。そうでなければ夫婦生活は長くは続かないのだろう。オーラルが行われているあいだに百合子妃は98歳を迎えている。とてもその年の人の受け答えには感じられない。よほど明晰な頭脳をそなえた「賢人」に違いない。

太平洋戦争がはじまる直前の成婚

ただ、オーラルではそんな楽しい話題ばかりが出てくるわけではない。

そもそも結婚からして大変である。百合子妃は、子爵であった高木正得まさなりの次女で、華族の出身ではあるが、彼女を三笠宮の相手に選んだのは、三笠宮の母である貞明ていめい皇后だった。結婚したのは18歳のときである。貞明皇后からの指名は唐突なもので、何度も「とても、務まりません」と断ったが、皇后は「それは、分かっている」と許してくれなかった。

1941年10月22日、三笠宮さまとの結婚のため、実家の高木家を出発する百合子さま
1941年10月22日、三笠宮さまとの結婚のため、実家の高木家を出発する18歳の百合子さま(写真=朝日新聞デジタル/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

なぜ貞明皇后が百合子妃に白羽の矢を立てたのか、その理由を聞いていないというのだが、その後のことを考えると、皇后の目にくるいはなかったことになる。

三笠宮との結婚が1941年10月22日だから、太平洋戦争がはじまる直前である。新婚生活は戦時下だった。しかも、当時の三笠宮は軍人であった。

オーラルでは、終戦の前日である1945年8月14日に、同期の若手陸軍将校が三笠宮のところを訪れてきて、激論になった話が語られている。三笠宮は戦争はもう終わらせたほうがいいと考えていたが、同期の将校は続けるべきだと考えていた。そこで激論になったのだが、百合子妃によれば、それは「今にもピストルが飛び交うかと思うような緊迫した」場面であったという。

防空壕で暮らした戦時下の三笠宮家

その際、百合子妃は、その激論を防空壕のなかから見ていた。防空壕は、本来、空襲警報が鳴ったときに避難するものだが、その時、三笠宮夫妻は娘とともに防空壕に住んでいた。5月の空襲で邸宅が焼けてしまったからである。

その防空壕は非衛生的で、湿度が高く、空気も悪いので、一日中外にいたという。雨が降ると悲惨で、防空壕の前に柱を立ててトタン屋根をのせていたが、それは雨漏りしていた。

皇族であれば、たとえ戦時中や戦後の苦しい時期であっても、それなりの生活が送れたのではないかと想像してしまうが、むしろ疎開もせず、東京に留まらなければならなかったため、そうした生活を強いられた。食糧事情も悪く、立場上、配給に頼るしかなかった。しかも、百合子妃のお腹のなかには長男がいたのである。

三笠宮は、戦後、学者の道を歩むようになり、そのために東京大学文学部の研究生となり、私も学んだ宗教学科の授業を受けている。三笠宮がヘブライ語の授業を受けた大畠おおはた清先生は、私の大先輩にもあたるわけだが、その葬儀には三笠宮も参列していた。

それが私が三笠宮の姿を見た唯一の機会だが、東京女子大学で非常勤講師として教えたことでは、私も同じである。あるいは、三笠宮と私は同じ教室で講義を行ったのかもしれない。私にとっても、『三笠宮崇仁親王』という書物は、忘れ難いものとなったのである。

島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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