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白血病から復帰した俳優・吉井怜さん(42)の”恩返し”とは

  • 2024.11.24

医学の進歩によって多くの病に治療法がある現代。しかし、どんな治療法を用いても恐怖や不安を消すことはできません。そうした不安と向き合いながらも、自分らしい生き方を探し続け、前を向いて歩み続ける女性たちがいます。今回は、そんな彼女たちのSTORYをご紹介します。

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俳優 吉井 怜さん42歳・東京都在住

移植で救われた命。俳優を続け親孝行するそれが私の恩返し

14歳で念願の芸能界デビューを果たした俳優の吉井怜さん。順調にキャリアを築き上げる中、18歳の夏、ロケ先で高熱に襲われ撮影を中断する事態に。東京に戻り検査を経て下された診断は、急性骨髄性白血病。アイドルとしての華やかな世界から、一転して病との闘いが始まったのです。

「最初、私には本当の病名ではなく『骨髄不全症』の治療のため入院が必要と伝えられました。仕事をキャンセルしたら二度と頼まれず、事務所にも迷惑をかけてしまう…病気のことよりも、そんなことばかりが頭を巡っていました。そんな私に事務所社長が『待っているから』と言ってくださって。治療に専念しようという気持ちにさせてくれました」。

本人に本当の病名が告知されたのは、入院してから1カ月後、1回目の抗がん剤治療を終えた後でした。白血病=死という印象から、内心恐怖を感じたという吉井さん。しかし、告知時にかけられた医師からの『今は治る病気』という一言が治療に向かうための大きな励みになったそう。

その後、5カ月の入院治療を経て退院。その日に、治療法として医師から「維持療法」と「骨髄移植」が提案されます。「幸運なことに白血球の型が母と一致し、家族や先生は移植を勧めました。しかし、私は維持療法を選択。抗がん剤投与を行う際の短期入院以外は自宅で生活でき、状態によっては外出も可能なことから、仕事に復帰できると考えたからでした。一方、骨髄移植は根治が望めるものの再度入院して抗がん剤と放射線による過酷な治療を受けなくてはならない。髪も伸びてきたのにまた抜け落ち、再び仕事への復帰が遠のく…当時の私は再発の危険性よりも、タレントとしての大きなチャンスを逃すことのほうが怖かったんです」。

しかし、維持療法が始まってみると1週間入院し、次の入院までは自宅療養の日々。復帰の目処が立つことはありませんでした。「それでも芸能界復帰が第一という気持ちで移植を拒み続ける中、兄がかけてくれた『再発の不安を抱えながら仕事をするより、しっかり治してから復帰でも遅くないのでは?』という言葉で本当に大切なものに気付かされました。美味しいものを食べること、友達とのおしゃべりや家族との時間。そして、仕事ができること。すべては命があってこそ。兄の一言でそれにようやく気付いたんです」。

19歳の夏、母親からの提供により骨髄移植を実施。移植は無事成功したものの、治療の副作用は想像を絶する辛さだったといいます。そして、20歳の夏、吉井さんは芸能界へ復帰することに。最初の入院から約2年が経過していました。

復帰後、少しずつ活動を再開する中、以前とは違ったお仕事が。それは闘病の経験を語る講演の依頼でした。その中で多くの時間を割いて吉井さんが伝えたこと、それは家族への感謝。「先生や看護師さんの前で愚痴や泣くことはほとんどないのに、家族の前では不安で泣いたり、時にはひどい言葉をぶつけてしまったことも。それでも常に寄り添い、励まし続けてくれたことが、私にとってとても支えになりました。家族がいたから今の私がいる。年齢を重ねるごとに感謝の気持ちを強く感じます。それは28年所属し、家族同様の事務所の皆さんに対しても同じ。支え続けてくれた人たちに恩返しをしたい。そう思って日々大切に過ごしています」。

新たな命を得た「骨髄移植」を自身の〝セカンドバースデー〟と話す吉井さん。「40歳となり2度目の20歳を迎え、感謝の気持ちを忘れずに、より一層俳優として前進し続けたいと思います」。

<編集後記>突然の病に襲われたとき。自分だったら?娘に起きたら?

お話を伺いながら吉井さんの気持ちに寄り添いつつも、やはり、お母様の気持ちに強く寄ってしまう自分がいました。娘が苦しむ姿を間近で見ることの辛さ。何もできない辛さ。できるなら代わってあげたい! お母様もそう思われたことと思います。我が子が病に襲われたら…。健康でいることのありがたさや大切さを強く感じました。(ライター上原亜希子)

撮影/BOCO 取材/上原亜希子 ヘア・メーク/YUMBOU〈ilumini.〉 ※情報は2024年11月号掲載時のものです。

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