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何度も呼ばれ、書かれ、読まれるうちに、名字は私の一部になっていた

  • 2024.11.24

数ヶ月前、25歳になった。所謂、アラサーと呼ばれる年齢層の仲間入りを果たしたわけである。内面はそれに追いついている気はまるでしないが、大学生の頃より社交はうまくなったと思う。そして、少し性格は悪くなった気がする。大人とはそういうものだと思いながら、日々を生きている。

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そうこうしているうちに、小中高と同じ学校に通っていた知人が婚約した。誕生日の1ヶ月ほど前にInstagramで婚約を発表し、可愛らしい婚約者とともに旅行に行っていた。幸せそうな彼に、心からのいいねを押しておく。

それと同時に、ふと「結婚」というものに意識が向く。私自身はまるで結婚願望がない。というより、身を固めるだけの覚悟も余裕もない。人と会うのは好きだが、1人で静かに暮らす時間が無いと肉体的にも精神的にも支障をきたすタイプの私が、やっていけるわけがなかろうと思っている。やりたいとも、今のところ思っていない。だが、いつかそういうイベントを経験したとして、私の名字はどうなるのだろうか、とふと思った。

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私の名字は珍しくもなんともない。多分、数で言うなら全国Top5には入る。学年に少なくとも1人はいたし、近所にも多分いる。それくらいのレア度である。だから、必ず残したい、残していかなければ、というような気持ちにはならない。学生時代は、もっとカッコイイ苗字がいいなくらいに思っていた。漫画やドラマに出てくる𓏸𓏸院とか、𓏸条とか、そういう古くからの名家です感が漂う名字に憧れがあった。

今は、どうだろう。歳を食っただけで無条件に入れられる、アラサーという枠に足を踏み入れ、最初の結婚ラッシュがやってきそうな年齢になった今、自分はどう思ってるんだろう。そう思いながら、免許証を見る。見慣れた名前である。テストで書き、履歴書で書き、契約書で書き、仕事で署名してきた名前だ。これが、例えば、冷泉院とかになったらどうだろうか。

金持ちそうだな、と思った。安易な感想である。自分でもビックリするくらいには浅い感想だ。もう少しあるだろう、と自分に言い聞かせ、考える。

見慣れないな、と思った。当然である。25年違う名字で生きてきた人間が、突然、冷泉院になって見慣れているわけがない。

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そして、最後にやってきたのが、寂しさだった。今までこの名前で生きてきた。私の名字は苦楽を共にしてきた相棒、とまでは言うまい。だが、ずっと当たり前にそばに居てくれたものだという感覚はある。当たり前の名字でも、だ。世間で何人も同じ名字の人を見た事はあるし、会社にもいる。間違えて返事をしたこともあるし、間違えて返事をしなかったこともある。ごく当たり前の、どこにでもいる名字。だが、それは多分、何度も呼ばれ、書かれ、読まれるうちに、私の一部になっている。多分、それを変えた時、私の胸にポカンと穴が空くだろう。それは、名字が戻らない限りは埋まらない。多分、代わりはきかない。

今のところ、その代わりはきかない変更を背負うのは女性になることが多い。嫁に行くとはそういうことだという、暗黙の了解がある。婿養子という例外はあるが、当たり前の名字だし、継いでもらうような家でもない私は、多分、変えることを当然とされるだろう。

嫌だな、と思った。手続きの煩雑さも嫌だが、女性というだけでそういう扱いになるのが嫌だ。当たり前の名字だから、継がれるような家じゃないから、そういう扱いになるのが嫌だ。だからといって、その「嫌だ」を相手に押し付けるのも嫌だ。

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選択的夫婦別姓という選択肢がある。日本では許されていない選択肢だ。何故なんだろう、と思う。恐らく、家族の形を理由にするほど、家族をつなぎとめる力は、名字にはない。だが、人のアイデンティティになる程度の力はある、とは思う。

別に全員が夫婦別姓にしろとは思わない。それはただの暴論だ。夫婦は同姓にしたい、という価値観はあって然るべきだし、否定もしてはいけない。だけど、それと同じように、別姓にしたいという価値観も受け入れられ、否定されてはいけないと思う。

■書猫のプロフィール
本と旅行と猫が好き。文章を書くのも好きです。最近、noteを使い始めました。note: https://note.com/novel_tapir8296

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