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【連載】恋愛結婚は持続可能なのか/三浦瑠麗氏連載「男と女のあいだ」#9 恋愛結婚は維持できるのか

  • 2024.11.20
@Ari HATSUZAWA
@Ari HATSUZAWA

【写真】かつて訪れた西表島の月ヶ浜で観た夕日 本人提供写真

国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第9回は、恋愛した末に結婚した場合、相手に添い遂げられるのか、三浦氏の見解をお届けします。

#9 恋愛結婚は維持できるのか

恋愛結婚が主流となり、自己の決定以外の必然性が拭い去られた結果として、現代人は恋愛結婚の持続可能性と正面から向き合わされることになった。

言うまでもなく、純然たる恋愛結婚が登場したのはごく最近に過ぎない。結婚は長らく機能的なものだった。家事を担い、子どもを産み育て、家格を維持し、求められている役割を果たすことが、夫による妻の立場の尊重と釣り合っていれば、良い結婚だと見なされただろう。生きるために他所で働く選択の余地は少なかったし、正妻という立場は、それほど機能的なものだったのだから。

ところが、恋愛結婚はその前提を壊す。初めの結びつきが、親の言いつけでも誰かに強制されたものでもなく自由意思に基づいていたという前提がある以上、「この人」を選んだことへの必然性に答え続けなければいけないからだ。共白髪となり二人で作り上げた家族や家を眺めて来し方を思い、互いをねぎらって感慨に浸るためには、過ごしてきた時間がどのようなものであったかということによって、己の決定の正しさを補強しなければならない。

恋愛が終わっても、両者が良い関係にあれば愛着や尊敬は残る。それでも、別の恋愛が生じれば別れる理由の一つにはなるだろう。子どもがいたとしても、育児や教育方針をめぐってつれあいと揉めることはある。結婚と離婚を繰り返すハリウッド女優のようにとまではいかずとも、経済的に自立した女性にとって離婚は十分にありうる選択肢となっている。現に、日本の20代から30代の結婚経験者の離婚率は他の年代のそれと比べるとだいぶ高い。

最近では、「3組に1組が離婚する」というような形で熟年離婚の危機が論じられることが多い。それを聞くと、本当に周りの夫婦の3組に1組が定年後に離婚しているのだろうと思いがちである。ただ、これは日本の高齢者に比して若者の人口が少なく、非婚化や晩婚化が進んで人口当たりの結婚率が低いことによる統計的なマジックでしかない。さすがに熟年離婚はそこまで一般的ではない。熟年離婚自体はたしかに昔よりも増えてはいるが、離婚率がより高いのは、男女同権が常識になり定着した世代なのである。

異性を求める気持ちが世代によって変わるとは思われない。結婚しなくても生きていける人が多い以上、上がっているのは結婚というもの自体のハードルだ。そう考えると、恋愛結婚が危機に瀕している理由は、出会いの場が少ないとかキャリアが忙しいというだけではなくて、そもそも互いに対等な個人が自尊感情を維持できるような関係性の構築が難しいというところに原因を求めることができるだろう。

すれ違う男女の欲望

小松左京の小説に『機械の花嫁』がある。「女の役割」の集団放棄が、男の別の惑星移住と機械の花嫁=アンドロイドとの結婚に繋がっていくというSF作品だが、女は地球にとどまり、機械と男性の労働によって仕送りされる自ら生産しない存在として描かれている。今であればミソジニスト(女性に対して嫌悪や蔑視を抱く人)の誹(そし)りを免れないだろうが、1983年刊だから男女同権はその頃、お題目からようやく社会に実装される過程にある。

この小説は、一見して男性作家が自己主張し始めた女にうんざりし、子どもを産んで家事をする以外に価値のない怠惰な存在として見下しているように見える。しかし、もう一歩分け入ってみると、それほど単純な話ばかりではない。小松左京は、人の欲望を学習して奉仕する機械が存在する時代に女性は満足しないが、男性は簡単に満足し、むしろ生身の女性よりも女性を模して「母性」を提供する機械の方を選ぶのではないかという問題意識を持っているからだ。

出産や家事労働がテクノロジーによって代替されてしまえば「女の仕事」は必要なくなり、いずれ男女双方の利害が一致しなくなる未来が到来するのではないか。彼のこの予測は、一見外れているようにもみえる。現代では、「家事育児は女の仕事」という考え方が批判に晒され、労働参加率にも性差がほぼなくなっているからだ。正規社員比率の男女差も10年、20年後には世代交代によって大きく改善されるだろう。もし自分で出産せずともよく、家事育児負担がテクノロジーによって軽くなるのならば、働く女性の制約は解ける。未来社会において、男性のみがAIやロボットをコントロールすることにはおそらくならない。

だが、男性優位の前提さえ脇に置いて考えれば、小説の示唆するところは大きい。『機械の花嫁』は、ほんとうは男女の欲望の種類の違いについて語っている本だからである。

小説の中では、男性のファルス(シンボル)の誇示と支配の欲望は、優れた機械応答で十分に満たされることになっている。また、男たちは母性的な愛に潜む権力性や気まぐれ、不機嫌などを拒絶し、ロボットによる完全なる受容と奉仕だけを求める。

こうした男性理解は、ニコール・キッドマン主演の映画「ステップフォード・ワイフ」(2004年公開)においても繰り返されることになる。ただし、この映画で女性を遺伝子操作でロボット化する「男たちの陰謀」の隠された首謀者はむしろ女性であり、街の顔役の妻、クレアだ。

女の理想郷を作り上げるために変えなければならないのは女であり、男は遺伝子操作せずともロボットを与えておけば満足するだろう。少しドキッとするような仮説である。それでも、クレアの夫であるリーダー格の男性だけは例外であった。彼は実は生きた人間ではなく、ロボットであったことが判明する。生身の人間であったときに夫が犯した不義密通をクレアは許せず、その場の激情に駆られて思わず殺してしまう。そして、自身の遺伝子工学研究者としての英知を結集し、「完璧な夫」を作り上げたのだった。このストーリーは、自分が愛する男だけはそれにふさわしいものとして育て、制御したいという女の欲望を言い当てている。

ではなぜ、そのような才能を持ったクレアはステップフォードの妻たちと結託して男の方をロボットに作り替えなかったのだろうか。女がみんなでダイエットしたり髪をセットしたりするのを止め、研究や仕事に没入し、料理を作らず部屋を散らかしていても優しく献身してくれるロボットに。

それは潜在的な女の欲望が「こう見られたい」「こうでありたい」にあるからだ。相手のロボットが満足しているように見えても、自分は誤魔化せない。だから、多くの女性が時に苛々しながら手をかけた料理などを作る羽目になる。できないことに対して、無力感に襲われる。

女性が自分自身だけでなく他の女に対しても厳しいのは、よく言われる嫉妬によるものだけではなくて、そうした理由にも基づいていると考えられる。女性は概して、同じ女性に対してはまるで自己の延長のように努力を求める。例えば、母親は息子には甘いが、娘には数々の美徳を求めがちだ。この対応の違いは、「自分はこういう存在として見られなければならない」という外部視点を規範として内面化していることと繋がっている。

クレアは、それを具現化することこそが最大多数の最大幸福であると思い、女性たちを作り替えたのである。

そう考えると、小松左京の男性観も、「ステップフォード・ワイフ」(原作はアイラ・レヴィン)の女性観も、なかなかに優れていることが分かる。もちろん、結婚相手がロボットで寂しくないのだろうかという疑問が生まれることも確かである。自分がリモコン操作でスイッチを切ることができる機械を相手に欲望を満たして、それで満たされるのだろうか。ステップフォードの場合、主人公のジョアンナはまさにそれを夫に問いかける。あなたがそのスイッチを押してしまったら、この私はいなくなるの、それであなたは本当にいいの?と。

現実の世界と判別がつかないほど仮想現実に埋没するための技術は日々進歩している。男性はそれで埋めきれない孤独を仲間内での連帯意識で埋め合わせることができるだろうし、女性にも仲間内の楽しみがあり、子どもを持てば少なくとも一時的にはパワーを持ち、愛に浸る実感を持つことができる。ただ、世の中にはそこに納まりきらないエネルギーが注がれる、数々の恋愛が存在する。それが結婚の形を取って持続可能なのかどうかは別として。

西表島の月ヶ浜の波打ち際での一枚 本人提供写真
西表島の月ヶ浜の波打ち際での一枚 本人提供写真

「結婚」に求めすぎていないか

人は恋愛を夢想しがちである。若者は、きわめて安直に手近なところでときめこうとするし、大人たちも例外であるとは言えない。富岡多惠子は松本清張の小説『波の塔』を解題する「恋愛という犯人」という小品で、「世に青春といわれるころの、人間の若い恋愛は、だいたい発情であるから、そこにコトバはない。そこであらわれてくるコトバは発情のいいわけか叫び声である」とし、「恋愛は、どちらにしても、精神と肉体の発情であり、ただ若い恋愛には肉体の発情が先行するだけである」と述べている。慧眼(けいがん)ではある。だが、彼女のいう恋愛の定義に従えば、恋愛結婚などというものは継続しえない、あるいはそもそも形容矛盾になってしまう。結婚こそが恋愛の終わりなのだから。

否定できない事実は、多くの人が生殖以外の何か“も”同時に求めているということだ。富岡のように、それは肉体や精神の発情でありすなわちエロスであると喝破してもよい。けれども、キリスト教圏の影響か、日本の結婚にもしだいに母として主婦としての役割以外の、男女の一対一の精神的な結びつきを重んじる考え方が移入され、浸透してきている。そこでは、性愛と精神的かつ物質的な結びつきである結婚が合一すべきだということが、まさにキリスト教と実用主義を合体させた信念として固く信じられているのである。

その観点からは、性の欲求が起こる脳内のメカニズムを自ら理解してしっかりと制御し、それを夫婦に当てはめて「愛による結婚」の中で各々の役割を健全に演じなければならない。性愛さえも鋳型にはめられてゆくのは、あまり古来の日本的な考えとはいえないのだが。そして、その風潮が女性の側の利益を叶えるものだともさほど思われない。

理想としては、やはり多くの人が、唯一無二の存在として愛されたいと思っている。世界の中心で二人だけが向き合った関係において本当に不安が解消されるならば、それに越したことはない。けれども、そんな関係を手にするのは決して容易いことではないし、既に述べてきたとおりそれは自己複製にすぎないのかもしれない。そのような幻想に満ちた結婚の上に「正しい性愛」まで荷として乗せることは、まるで破綻してくれと言っているに等しい。

すべての観点において望ましい相手と結婚できるとは限らない。一方が満たされているが、もう一方の犠牲と沈黙ゆえに成り立っている婚姻もあろうし、途中からそんなすべてを相手に期待することを止めてしまった夫婦関係もあろう。結婚では満たされない恋愛をずっとどこかに追い求める人も少なからずいる。

不倫や浮気は、そうした愛を手にできていない人のための第二市場なので、たいへんに混雑する。多くの人は完全に満たされてはいないからである。「理想の愛」を手にできない悲しみは深い。しかし、それによって自らの人生を破綻させるのも怖い。その一歩手前で、孤独な人々は互いに歩み寄り、自らの不安を交換し合うのである。

代替物が横溢(おういつ)するのは、それが代替するまるで神話のような「愛」が求められているからだろう。「愛」は言い訳の言葉としても成り立つ。人々がつれあいの不実に厳しく、己の不倫に甘いのは、それが恋愛であるという真っ当な言い訳が存在するからだ。夫は妻に、許しがたい結婚からの逸脱である性愛の片鱗を見る。妻でも母でもなく、女である存在に夫たちは厳しい。妻は、つれあいの中に我が夫、子らの父として相応しくない暗い欲望を見、あるいは張り巡らされた女の誘いにまんまと釣られていく馬鹿さ加減を思う。だが、己の姿がどうであるのかについては、常に二重基準が適用されるのである。

人々は芸能人の不倫報道などを見るたびに反応し、声高にそれを評論しあう。声高な人々が求めているのは正義の鉄槌が下ることで、それは愛への渇望がまた公に否定されたのをみて、自分もまた傷つき痛みを覚えているからである。

地上であまねく愛が信じられていれば、不倫の報道を見ても人々はぽかんとするだけだろう。男女二人の真の愛が信じがたく、またそれが渇望されているからこそ、会ったこともない人の不倫に傷つく。

浮気が起きる理由を説明するのは難しいことではない。それよりも愛を説明する方がよほど難易度の高いことだから、わたしたちは愛を先に理解しなければならないのである。

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