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前島密~国を歩き時代を近代に変えたフール

  • 2024.11.18

2024年10月切手が値上がりました。そういえば、知恵と工夫と経験で、郵便制度、陸と海の輸送、鉄道整備に電話等を手掛けた、あの1円切手の人がまだだった!と思い出し、今回は「郵便の父」前島密ピックアップ。天保6年生まれなので、坂本龍馬に土方歳三。篤姫と同い年。前島のホロスコープと惑星historyです。

前島密パーソナルデーター

1835年2月4日(天保6年1月7日)出生時間不明

越後国頚城郡下池部村(現新潟県上越市大字下池部)

☀星座 ♒ 14°30

☽星座 ♈ 26°20 (24h ♈20°24~♉02°15)深夜生まれの場合♉の☽

出生時間不明なため、☀星座を第1室として、30度ずつのホロスコープを作成しています。

第1室 本人の部屋 ♒ ♆・☀・☿・♅

第2室 金銭所有の部屋 ♓

第3室 幼年期の部屋 ♈ ♇・☽

第4室 家庭の部屋 ♉

第5室 喜びの部屋 ♊ ♃・☊R

第6室 健康勤務の部屋 ♋ ♂R

第7室 契約の部屋 ♌

第8室 授受の部屋 ♍

第9室 精神の部屋 ♎ ♄R

第10室 社会の部屋 ♏

第11室 友人希望の部屋 ♐

第12室 障害溶解の部屋 ♑ ♀

ほぼ9天体が北半球。(ホロスコープは、地図と南北が逆になります)

♀は南ですが、12室なので、9室の♄が一つだけ飛び出した形に見えるバケットタイプなホロスコープ。 北半球に星が多いと、社会よりも家庭や身近なことが人生のテーマと言われがちですが、そこをきれいに覆し、アクティブに生きたのが前島密です。

注目すべきは、♒。☀・☿・♅というアクティブコンビのステリウム。♆は♒に入室したばかりで、☀と8度以上離れているので、ステリウムには換算しませんが、自己主張や新情報をキャッチする感覚と、反骨精神が、ガチガチな硬さを持たず、これがだめなら、あの手があるさと、プッと次の行動に切り替えが効く効果をもたらしているかもしれません。♆と☀が近づくと、グズグズに揺れやすい面がでてくるので、かえってこの距離は良かったかも。

そしてこれらの星たちは、第5室喜びの部屋♊にある♃・☊R。健康勤務の部屋の♂Rと調和します。水瓶座も♊も風星座。理解力と臨機応変を得意とする傾向がありますが、ここに♃の拡張機能が働くと、活動範囲が個人のことよりも、より社会的になると、物事の展開に弾みがつきますし、☊Rがあるので、よく言えば飛び歩き。下手をすると、放浪癖につながるので、身近な対人関係は落ち着きがないかもしれません。 北半球を進む♎♄Rも、第1室の☿・♅。第5室の☊Rと調和するので、今の時代なら、転勤族な仕事に就くかも。オポジションは☽と♄R。♀と♂R。

前島密 略年表(ウィキその他ネット資料参照)

1835年2月4日(天保6年1月7日)越後国頚城郡下池部村(現新潟県上越市大字下池部)の豪農上野助 右衛門と、妻の貞(高田藩藩士伊藤源之丞の妹)次男として誕生。幼名は房五郎。(本編は、フルネーム、もしくは密で統一します)同年の夏、父助右衛門は病死。

1839年(天保10年)母と共に上野家を出て、高田へ移動。この頃から母は、縫物などで生計を維持し、詩詩の暗記や錦絵。往来物(江戸から届く教科書)で教育の基礎を作る。

1842年(天保13年)母と共に越後国糸魚川に移り住む。糸魚川藩藩医相沢文仲に養われ、医学を目指すきっかけとなる。

1845年(弘化2年)高田藩の儒学者倉石典太が開く私塾に通うため、10歳の冬。母の元から高田の伯父伊藤源之丞の家で暮らす。伯父と折り合いが悪く、下池部にある生家(上野家)から、約7キロほど離れた高田の塾へと通う。

1847年(弘化4年)医学を修めるため江戸に上京。苦学生のため働きながら蘭学・英語を学ぶ。

1858年(安政5年)航海術を学ぶため函館へ赴く。名を巻退蔵と改める。

1859年(安政6年)武田斐三郎の諸術調所に入る。

1861年(文久元年)ロシア軍による対馬占領事件処理のため、対馬に赴く外国奉行組頭向山栄五郎に随行。

1862年(文久2年)米国聖公会のチャイニング・ウィリアムス(律樹洋大学創設者)から、英語を学ぶ。

1863年(文久3年)通訳何礼之の従者として遣欧使節の洋行するチャンスを得る。江戸へ向かうため乗船した船が、途中で故障。江戸に着いた時、池田筑後守等遣欧使節一行は出発済。洋行は失敗に終わる。

1864年(元治元年)何礼之が長崎で開校した私塾の塾長となる。苦学生のために瓜生寅と私塾「培社」を崇福寺公福庵に開く。

1865年(慶応元年)培社の塾生であった鮫島向信の招きで、薩摩藩の洋学学校・開成所の蘭学公使となる。

1866年(慶応2年)幕臣前島家の養子となり、家督を継ぐ。ここから前島来輔を名乗る。漢字御廃止之議を、将軍徳川慶喜公に提出。幕臣清水与一の娘奈何(仲子)と結婚。

1867年(慶応3年)幕府直轄開成所の数学教授に就任。神戸港開港に併せ、兵庫奉行の手付出役として神戸に移動。

1868年(慶応4・明治元年)兵庫奉行支配役と翻訳係を兼務。勘定約格徒歩目付役として、平岡一に属して、官軍迎接役として、江戸に移動するため、小田原迄出張するが果たせなかった。大阪に出向き、大久保利通に江戸遷都を建言。大政奉還後は、駿河藩(静岡県)留守居添役となり、そのまま同藩公用人となる。

1869年(明治2年)駿河藩浜松添奉行となり、同藩遠州中泉奉行。静岡藩開業方物産掛を務める。この頃前島密に改名。年の暮れに明治政府へ召喚を受け、民部省九等出仕となる。

1870年(明治3年)租税権正を任じられる。フルベッキから英米の租税法書を借りて、学を深める。駅逓権正兼務となり、大政官に郵便制度創設を建議。郵便制度視察と鉄道建設借款契約締結のために渡英。

1871年(明治4年)8月帰国。駅逓頭に任ぜられる。郵便制度創設に尽力。日本の近代的郵便制度の基本を確立する。

1872年(明治5年)陸海元会社(現・日本通運株式会社)、郵便報知新聞社(現・スポーツ報知)の設立および刊行に携わる。

1873(明治6年)「まいにちひらがなしんぶんし」を創刊

1877年(明治10年)駅逓局長に任命される。第1回内国勧業博覧会審査官長を務める。

1878年(明治11年)元老院議官を兼任。

1879年(明治12年)内務省駅逓総監に任命される。

1881年(明治14年)「明治十四年の政変」で辞職。大隈重信らと立憲改進党を創立。

1887年(明治20年)9月東京専門学校(現・早稲田大学)校長、関西鉄道の会社社長に就任。

1888年(明治21年)~1891年(明治24年)逓信次官を務める。官営電話交換制度を実施。

1894年(明治27年)北越鉄道株式会社の社長に就任。直江津・新潟間の鉄道建設を開始。

1902年(明治35年)男爵授与。

1904年(明治37年)7月10日 貴族院男爵議員に選任される。

1910年(明治43年)3月10日 貴族院男爵議員を辞任。

1919年(大正8年)4月27日 神奈川県にあった別荘如々山荘にて没する。(享年84歳)

前島密惑星history~☽年齢域0~7歳1835(天保6)~1842(天保13)年

雪深い越後国頚城郡下池部村(現新潟県上越市大字下池部)に、300年続く豪農上野家がありました。 家長の助右衛門と、妻の貞(高田藩藩士伊藤源之丞の妹)の次男として、前島密は誕生。幼名は房五郎といいます。この時代の豪農は、武家よりも豊な暮らしを営んでいたり、帯刀も許されるケースもあり、武家から妻を娶ることもありました。豊かな家に生まれる密ですが、同年の夏、父助右衛門は病死。

1839年(天保10年)母と兄と共に上野家を出た密は、母の実家がある高田へ移動。4歳といえば、今なら幼稚園の年中さんくらいの年齢。教育の基礎が培われる時期で、縫物などで生計を維持しつつ、貞母さんは密に詩詩の暗記を覚えさせたり、錦絵や往来物(江戸から届く教科書)で教育したそうです。生まれて間もなく、お父さんは亡くなってしまったけれど、お母さんの愛情と知性が、彼の人生の基礎を作ったのですね。

☿年齢域7~15歳1842(天保13)~1850(嘉永3)年

☽年齢域と☿年齢域が交差する7歳。糸魚川に移住します。糸魚川藩の藩医を勤めている叔父の相沢文仲に扶養されたこともあり、医学の道を志しました。俳句の会を手伝う機会があり、その席で「雄鴉しょんぼりとまる冬立木」という句を詠むと、周りの人が褒めてくれて、ご褒美をもらって帰宅。密少年、喜んで母にご褒美を見せながら、場での出来事を話します。その姿を見た母は思うところがあったのでしょう。「幼い頃に人に褒められ、己の才に溺れたて大成しないものは多い」と、息子に戒めを与え、これが前島密の人生教訓となりました。

元号が弘化に変わった頃、高田藩の儒学者倉石典太が私塾を開いていることを知った密少年。この塾に通うため、10歳の冬、母の元から離れて高田の伯父伊藤源之丞の家で暮らす事を決意します。ところが、実際に行ってみると伯父は彼の受け入れを、快く思って居なかったのでした。心地悪いままいるよりは、下池部にある生家(上野家)に住む方がマシ。ところが、生家から高田の塾までは7キロほど離れているのです。学問を学びたい密少年は、雪深い道のりを、歩いて通ったのでした。

1847年(弘化4年)江戸に行けば、オランダ医学が学べる事を知った。密少年は、母に決意のほどを打ち明けました。すると、「一旦方針を決めたなら、頑張って進みなさい」励ましと共に、母から僅かながらの旅費と学費をもらい受けたのです。こうして12歳で江戸に上京した密少年。文具品や必要な雑貨を買えば、残ったお金だけでは学費3ヶ月分にもならないため、医者の家を尋ねて雇ってもらい、下働きを続けながら、学問に取り組みました。政治・兵法だけでなく、西洋の事情を伝える本も僅かですが出回っていました。印刷などなかった当時、本を書き写す「耕筆」仕事があったのですが、密少年は、いろんな本の移し書きをする仕事を引き受け、生活費をえるだけでなく、思わぬ情報や知恵を得てゆくのでした。

♀年齢域15~24歳1850(嘉永3)~1859(安政6)年

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)。ペリー提督が指揮する4隻の艦隊(うち2隻は蒸気船)が、浦賀に姿を見せました。いわゆる黒船来航です。ペリー提督は大統領の書簡を手に、通商を要求しつつ、7日後は江戸湾(現東京湾)に入ってゆきました。折しも第12代将軍の体調が著しく悪いこともあって、徳川幕府は、開国の返事を1年後と先延ばしにします。こうしてペリー提督と艦隊は、日本を離れていきました。

18歳の好奇心盛りな前島密。久里浜でペリーと会見する井戸石見守(いわみのかみ)の従者となる売り込みに成功。こうして井戸石見守の随行が可能になり、アメリカの軍艦と実物ペリー提督を、身近に見たのでした。何もかもが大きい軍艦。海軍の軍人の立ち居振る舞いに、心底驚いた前島密。国防を考察した建白書を書くため、日本全国の砲台や港湾を、自分の目で見て回る事を決意します。

決意したらすぐ実行。風星座らしい動きですね。江戸を立った密が真っ先に寄ったのは、越後で暮らす母の元。別れを告げるための立ち寄りでした。「男児が志を立てたら何もおそれてはいけない。注意すべきは長旅の健康」母の貞はそう言って、旅費を密に渡します。こうして前島密は、北陸道から山陰へ進み、下関へと向かいました。船で小倉へ渡り、九州方面を回り歩きます。さらに四国へ渡った後に、紀州(和歌山)伊勢を進み、東海道を歩きました。ほとんどの港湾を見学した旅が終わると、新鮮さはあったけど、実に見て回るだけでは、学問の役には立たない。建言には至らない。さらなる勉強と実力をつけないといけないと、自戒の念にかられます。

林家蔵書を閲覧するため、林大学頭の縁者に当たる設楽弾正の食客となりました。弾正の兄である岩瀬忠震(後の外国奉行)から、教えを受ける機会も得て「これからの志士は、オランダ語より英語を学ぶべきだ」と諭されますが、この当時、英語を学ぼうにも、江戸には教師がいない。良き教科書もないため、やむなく下曽根金三郎に兵法と砲術を学ぶほか、設楽家の家臣中条氏に数学を学びます。 1857年(安政4年)江戸の軍艦教授所に、長崎から日本初の洋式軍艦観光丸に乗って、教授として竹内宇吉郎がやって来る。(長崎でオランダ海軍伝習生となり、機関学を納めた人物)しかも江原邸に訪れるようにもなったことから、前島密は竹内と円を持ちます。同教授所の生徒となり、竹内に機関学を学びました。竹内が長崎から乗ってきた観光丸に、実習生として乗船する機会を得た前島密。江戸湾から横須賀湾に向かい、一泊するこの日は、雪が降っていました。夜、雪中の甲板で、密は竹内宇吉郎から、海に囲まれた日本の将来について教えられ、感銘を受けます。この時間が、商船界に関心を持つきっかけとなりました。

武田斐三郎が、函館で商船業務を教えている。これを知った前島密は、何としても門下生となるため、房州から沿岸を巡り、北上。竹内千之助や、芦文十郎等の協力で、仙台藩・南部藩・津軽藩などを巡って、なんとか江戸から函館に自力移動。着いた函館に着いた時には、無一文になっていました。函館奉行の栗本鍬助は、あまりにもな前島密の行動に驚き、叱責します。が、彼の世話で、前島密は調役の山室総三郎の息子源太郎の家庭教師という職をえました。これが縁で武田斐三郎と合うこともできたのです。♀年齢域と☀年齢域が重なる1859年(安政6年)の春、函館の諸術調所に入塾しました。

☀年齢域24~34歳1859(安政6)~1869(明治2)年

前島密の☀年齢域は、幕末維新と重なります。世の中の武士が「尊皇攘夷だ」「佐幕だ」と、争い、斬り合う動乱期。彼は学問と時間を費やし、縁あって徳川家のために静岡へ行くのでした。

1859年(安政6年)の春に函館の諸術調所に入塾。航海測量と帆船の運転を学び、2年間で2回の日本周回の航海実習を経験した後、船員の実務を学びながら、樺太南岸まで航行。その後、函館奉行の向山栄五郎に従って江戸に帰りました。

1861年3月14日(文久元年2月3日)ロシア軍による対馬侵略事件が発生します。(詳しくはポサドニック号事件を検索してみてください。)ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で、対馬に来航すると、尾崎浦に投錨して測量を開始。対馬藩主宗義和は、重臣を派遣して非開港場への投錨の非を責め、速やかな退帆を求めますが、ビリリョフ艦長は、船が壊れているため修理の来航と回答。修理工場の設営や資材。食料と遊女を要求したのです。やがて対馬芋崎に兵舎や工場。練兵所を作りました。元々ロシア海軍の中国海域艦隊司令官イワン・リハーチョフ大佐は、不凍港を確保するため、対馬海峡に拠点を作ることを、ロシア本国に提案していたのです。日本との不必要な摩擦をさけたいロシア政府は、この提案を却下。しかし、海軍大臣の大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可したことから、ポサドニック号がやってきたのでした。目的は友好ではなく、侵略です。

対馬藩内では、過激攘夷派と紛争を避けたい穏健派の間で対立が起きる中、藩主は長崎奉行と連絡を取りつつ、ロシア軍に退帆を求めつつ、一方で懐柔対策を図り、米や塩等を贈りました。ビリリョフ艦長は、芋崎の永久租借を要求。時間経過と共に、警備兵の殺害、家畜の強奪、村を襲う等、著しい被害が出てしまいます。事態を知った幕府は、外国奉行小栗忠順をはじめ、向山栄五郎(向山黄村)を対馬に派遣しました。この交渉に前島密は、向山の従者として同行。したたかなロシアの軍人と、交渉をする幕臣の姿を垣間見たのでした。この経験が、交渉屋前島密のレベルを上げ、後に生かされてきます。ポサドニック号が、対馬を離れるのは、実に半年後のことで、イギリスが介入することであきらめたのでした。

1862年(文久2年)長崎で英語が習えると知った前島密は、ここでチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)と出会います。英語だけでなく、英国の社会制度についても教えを受けました。「郵便の父」と言われる前島密が、「郵便制度」を知ったのは、この時です。1863年(文久3年)遣欧使節として、池田筑後守一行が欧州に向かう事になるのを聞きつけた前島密。迷うことなく行動し、通訳である何礼之(がのりゆき)の従者として洋行するチャンスをつかみます。江戸に向かうためコロンビア号という船に乗りましたが、途中で故障。江戸への到着が遅れてしまい、着いた時には、遣欧使節一行が出港した後だったのです。

長崎奉行所の英語稽古所の塾長だった何礼之は、帰国後私塾を開きました。前島密は、ここの塾長となります。英語を学ぶ仲間で生活費に困窮している若者が、安い費用で生活できるように「倍社」という学舎を開きます。その財政支援のために、前島密は紀州藩の蒸気船監督者として仕事をして留守にしているうちに、塾生の間で金銭問題が発生。塾は閉じることになりました。その際、倍社の一人薩摩藩士の鮫島誠造を通じて、前島密は、薩摩藩から開成学校の英語教師として招かれます。薩摩藩の蒸気船で鹿児島に赴き、開成学校では授業が好評。生徒が増えるので、倍社の塾生を2名。助手として呼ぶほどでした。待遇はとても良かったのですが、前島密は開国主義。藩の傾向が倒幕になってきたため、なんとなく居心地が悪くなったのです。そこに兄又右衛門死去の知らせが届き、思い切って鹿児島を離れ、帰郷の途につきました。

1866年(慶応2年)江戸に戻った前島密は、京都見回り組の役にあって死亡した幕臣前島譲次郎の跡目相続の話を持ち込まれます。こうして前島家の養子となり、名前も前島来助と改名。牛込赤城下町に住みました。役職はなかったものの、学はあるので近隣の若者に学問を教えることになり、その中には、後に逓信大臣となる星亨がいます。幕府開成所頭取を務める松本寿大夫は、前島密の知性と学を認め、同所の反訳筆記方に採用。これがきっかけとなり、第15代将軍徳川慶喜に、「漢字御廃止之議」という建議書を提出しました。これは国語国字問題について、言文一致を提唱する歴史的な文献となっています。若い頃、江戸から故郷に帰った折、甥っ子に土産の絵草紙と三字経を教えた密は、漢字教育の難しさを知りました。さらに英語の師ウィリアムズの示唆もあり、国民の間に学問を広げ、知識の底上げをするためには、難しい漢字の使用をやめるべきという、漢字廃止論を形にしたのです。

幕臣清水與一郎の娘奈何(なか)さんと結婚もしていました。さらに同年末には、この後、前島は仕事の傍ら、国語調査委員として、この問題に取り組んでゆきました。郵便制度を作る際も「切手(きって)」「はがき」「手紙(てがみ)」「小包(こづつみ)」「為替(かわせ)」「書留(かきとめ)」といったやまとことばに決めたのは前島です。

人生転換期ともいえる1866年の星回りですが、その前年からT♃は♑を航行。♑には前島密のN♀があり1月にはこのN♀をT♂が刺激。ということは対岸♋にあるN♂も刺激を受け、実利的実りが得られます。半年後の6月になると、T♃は♒へ移動。♒にはN♆・☀・☿・♅が入っているので、これが時間経過と共に♃の影響を受けます。♋にあるN♂はT♅と合。起爆剤となるか、自己破壊になるかは、その人次第ですが、個人から家庭。組織へと活動ステージ等が移り変わる事を物語っています。

1867年(慶応3年)には、数学教授となりました。そんな折り、外交の事務に通じるには、港湾事務の知識が必要と考えていた密、神戸港開港の話を聞きつけます。思いと時制が合致したことから、兵庫奉行の柴田日向守に頼んで、一員として神戸へ移動。現地入りすると、税関傭英人シイルと親しくなり、実に多くのことを学びました。税関や保税倉庫の事務を習熟する傍ら、神戸では居留地規則の翻訳を行います。

同年11月9日(慶応3年10月14日)徳川慶喜は、政権返上を明治天皇に上奏。大政奉還が行われます。前島密は、朝廷が国を運営してゆく上で、巨額な経費が必要になること。大政奉還をするだけでなく、幕府が所有している領地の3分の2を還納することを考えました。考えたことは実行の密。一歩間違えば重刑になるのを覚悟の上で、「領地消滅の議」を慶喜公に建言。外国と対等に外交を行うために、朝廷を中心とした中央集権な政府構想を考えてもいました。10日後の11月19日(慶応3年10月24日)に、慶喜公は、征夷大将軍辞職も申し出ます。しかし、朝廷はこれを認めませんでした。

1868年1月27日(慶応4年1月3日)鳥羽伏見の戦いが始まります。翌28日(1月4日)朝廷は仁和寺宮喜彰親王に、錦の御旗と節刀を与えたことから、薩長軍は官軍。徳川幕府が賊軍と位置づけられました。この流れをみていた慶喜公は、夜、「散歩に行こうと」と言って、最も身近な家臣と女たちを連れて、船で大阪を脱出。江戸に向かいます。討幕に火が付き、戊辰戦争に発展。江戸の寛永寺にこもる慶喜公を守ったのは、江戸の三舟と幕臣たちでした。

1868年5月3日(慶応4年4月11日)江戸城無血開城が行われ、政治の実権は明治政府に渡ります。この頃、前島密は江戸に戻り、勘定役格徒歩目付となりました。平岡一に属し、官軍迎接役として小田原まで出張しますが、タイミングが悪く、果たすことができませんでした。そこで大阪に赴き、新政府の内務卿(首相)となった大久保利通を前に、「江戸遷都論」建言したのです。・大阪はすでに栄えているが、スペース的に、首都機能移転は難しい。首都機能は地理的に日本の中心にあった方がよい。・江戸にはすでに武家屋敷等、公的な使節も充実している。再利用が可能。といった現実的な内容に、大阪を首都にする気でいた大久保は納得。

同年9月3日(慶応4年7月17日)。江戸は「東京」と改称。同年10月23日元号は明治と改元されました。同年11月4日(明治元9月20日)明治天皇が東京幸行のため、京都を出発します。 板垣退助率いる御親征東山道先鋒総督府迅衛隊が、会津藩に勝利。奥羽列藩同盟が瓦解してゆく同年11月26日(明治元年10月13日)。到着した明治天皇によって江戸城は「東京城」と名を改めたのです。

徳川家の公用人となった前島密は、駿河藩(静岡県)に移動。旧幕臣への措置や、慶喜公の後継ぎとして、徳川家を継いだ徳川家達のフォローも行いました。

☀年齢域と♂年齢域が交差する1869年(明治2年)遠州中泉奉行となり、江戸から移住してくる幕臣たちの住まい作りや、新たな職業の世話をするため、海産物の販売や養蚕に力を入れます。渋沢栄一との縁は、このできたものでした。

♂年齢域 34~45歳 1869(明治2)~1880(明治13)年。

明治新政府の幕開けと、♂年齢域が重なる前島密。静岡藩開業方物産掛となり、地域の活性化に力を入れる1869年(明治2年)12月26日。明治政府に召されました。民部省に勤め、渋沢栄一を中心とするシンクタンク「改正掛け」で、杉浦譲と共に、租税の改正や貨幣の変更を進める仕事につきます。

1870年(明治3年)直属の上司である大隈重信から、鉄道建設の必要な案を作るように頼まれました。日本初鉄道計画だから、標準的な資料など全くない中、土木をはじめとする建設費、収入と支出の計算書もセットした計画案「鉄道憶測」を、前島密は数日以内に作成します。この計画書を元に、東京・横浜間の鐡道建設が太政官で決定されますが、後に画案を見たその道の外国人は、その的確さと綿密さに驚いたとか。同年4月には、租税権正(そぜいごんのかみ)となり、税法改正に取り組みました。

同年5月。駅逓司の長官役の駅逓権正の兼任を命じられる前島密。これは水陸運輸駅路を担当する役所で、通信部門も兼ねていました。若い頃から自分の足で全国を歩いた密は、通信の不便さを実感していて、日本全国の通信網が便利にならないかと考えます。それには多額の予算も必要になると、煮詰まっていた矢先、飛脚に目をつけました。陸運業務も含めて確立していた飛脚は、明治に移っても継続していたのです。書簡は幕府の公文書を運ぶ「継飛脚」と、一般人が利用する「定飛脚」がありました。政府は飛脚問屋に業務委託契約として、毎月1500円(当時の貨幣価値です)を払っていたのです。因みに当時の国家予算が2000万円ほど。「ここにかけている高額な金額を資金にできれば、郵便事業、いけるんじゃね?」と、ひらめく辺りが、工夫大好き♒かもしれません。

ひらめきの大元は、英語の師チャイニング・ウィリアムズが教えてくれた英国の郵便制度でした。ものすごい集中力で、誰にでもわかりやすい腹案を作り、改正掛の会議にかけて、賛同を得ます。約20日くらいで具体案を仕上げた密は、同年6月2日「国内に、誰もが自由に利用できる通信制度を作る予定だが、モデルケースとして、まずは東海道筋の東京・京都間を72時間。大阪まで、78時間で毎日往復できる郵便制度を実施したい」と、郵便事業建議をアピール。こうして郵便事業が具体化してゆきます。

1870年6月2日。♃は♊の5°。前島密のN♃は♊の1°なので、この日に向けて☀も♃も、彼の運気を後押しした形です。しかもT☿も♊。♒の☀・☿と仲良く調和。T♀は♈を進み、N☽と♎のN♄オポジションに重なります。長い時間憧れていた事を具現化し、押し出してゆく時。T♇は♉を進み、N☀・☿・♅のステリウムと緊張角度ですが、これは歴史的事業の成功に弾みと刺激を与える組み合わせでしょう。長年日本の情報伝達を扱っていた飛脚問屋は、前島密の説く郵便事業は商売敵にしか見えず、難色を示したのでした。これを丁寧に説得する反面、郵便事業創業の傍ら、鉄道事業のために産業革命真っ只中のイギリスへ渡ることになった前島密。留守中の業務は、杉浦譲が引き受け、1871年(明治4年)4月20日。(新暦)東京大阪間で、官営の郵便事業が始まりました。なので、すべて自分だけでやったわけではないのです。

訪れたイギリスは鉄道成熟期を迎えていて、主要な工業都市をすべて鉄道で結び、輸送が工業を発展させていました。郵便に至っては、欧米では既にポピュラーな通信手段となっているだけでなく、郵便為替、郵便貯金、郵便保険も充実していたことに、刺激を受けました。公務の合間に、郵便局員から直接話を聞いたり、実際自分で利用することで、前島密は郵便局の常務を把握してゆきます。

前島密の留守の間は、郵便ポストができたのもこの時で、62か所に作られます。当時は箱型で黒塗りでした。同年8月にイギリスから帰国した前島密は、駅逓頭となることを希望し、郵便規則を整備。書状だけでなく、新聞雑誌の取り扱いを開始します。欧米社会を見聞して、多くの人に世間の出来事を伝える新聞が、日本にも必要と感じた密は、同年12月に低料輸送の道を開きました。

1872年(明治5年)には、宿駅制度が廃止され、馬車・蒸気船・鉄道といった新しい輸送・運送業が始まってゆきます。これに合わせて前島密は、郵便事業に強く反対していた飛脚問屋を説得し、陸上貨物の業務を行う陸運元会社を設立します。(これが日本継運株式会社の前身)日本国内の郵便網を拡大。さらに郵便取扱人の太田金右衛門を発行人として、郵便報知新聞を創刊します。1873年(明治6年)には、全国一律で送達する均一料金制度と、新聞の原稿を無料で送くることを可能にしました。

若い頃、函館で回廻業者の手代に加わって働いた経験から、輸送は陸だけでなく、島国の日本は、海運も重要と理解していた密は、日本帝国海運蒸気会社を作りました。しかし、これがうまくいきません。前島密の建言を参考に、1875年(明治8年)大久保利通は岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(当時の三菱商会。現在の日本郵船株式会社の前身)を補助します。この頃郵便ポストは、約500本に増えていました。郵便でお金を送る郵便為替も、この頃から始まり、郵便貯金も1875年(明治8年)5月から、東京横浜で始まりましたが、こちらは一般的な認知がなかなか広がらず、苦心したようです。

近代化を進める中で、士族による明治政府への反乱が相次ぐようになり、電信線を切断される事も相次ぎ、最至急の書簡を送る飛信逓送の制度を設けました。1876年(明治9年)年内務少輔となった前島密は、駅逓だけでなく、内務全般の責任を負うことになります。1877年(明治10年)ついに西南戦争が起き、大久保利通は、密に代理を命じて京都に向かいました。警察を含む内政の全てを取り仕切り、戦場に派遣する巡査の徴募も行う緊張の時期ではありますが、地域活性や産業の発展にも関心と理解があった密。大久保利通の了解を得て、内務省の所管として上野で第一回勧業博覧会を行いました。殺伐とした時代に、様々な地域の産業を見せたこのイベントは、日本の産業発展に大影響を与えます。郵便事業としては、世界の国々と郵便を自由に交換できるよう、万国郵便連合(略称UPU)に加入します。当時の日本は、江戸後期に結んだ不平等条約によって、国としての主権がない状況でした。そのため郵便も自由ではなかったのです。この郵便の主権を回復させるため、粘り強い交渉を前島密は、重ねたのでした。

制度の構築や産業の後押しの外、幕末の幕臣同僚である杉浦譲らと共に、資金を出し合って、視覚障害者の教育施設「訓盲院」の設立にも尽力しました。この施設は、1879年(明治12年)に完成し、文部省の管轄となりますが、前島密は同校の役員を継続。長年に渡り、運営発展に力を注ぎます。(「訓盲院」は、現筑波大学付属視覚特別支援学校の前身です)大蔵省や内務省の仕事もこなしつつ、♂年齢域の約11年ほど、郵政の長として事業を育成したことから、前島密は。「郵便の父」と称されるようになったのです。1878年(明治11年)には、元老院技官を兼任し、翌1879年(明治12年)内務省駅逓総監に任ぜられました。海運業の発達とともに、海員の素質向上と、何しろ危険を伴う仕事なので、保障と救済等を目的とする日本海員掖済会を発足させました。これが♂年齢域と♃年齢域が重なる1880年(明治13年)の事で、海員の寄宿や健康診断。殉難海員の遺族への対応等、その発展に長く携わります。

♃年齢域45~57歳1880(明治13)~1892(明治25)年

明治初頭から、政府の中枢にいた空気が変わったのが1881年(明治14年)10月。伊藤博文たちが大隈重信を追い出す、明治十四年の政変が起きます。大隈と共に、前島密も明治政府を離れ、立憲改進党を創立しました。 この時、♉を進んでいたT♇は28°。そろそろ♉♇を締めくくる時がきていて、さらにT♃・♆・♄と、変化を好まない♉に外惑星が終結。時代が変わろうとする。新たなものが生まれてくるのに、相応しい時期となります。民主化運動や新党結成が起きてきても、なんら不思議ではありません。前島密にとっては、N♄にT☀が当たる時期でもあり、自分の正義を貫くことを含め、根底から状況が変化する時なのでしょう。♋のN♂にT♂が重なるのも、興味深いです。

大隈は学問の自主独立を目指していて、1年後には私財を投じて1882年(明治15年)10月東京専門学校(早稲田大学の前身)を開校。前島密は評議員となります。1887年(明治20年)には、東京専門学校の校長職を務めます。実務能力に長けた密は、経営の独立等、難しい問題を処理して、学校の財政基盤を固めます。

それまでの間に、国の在り方も変わり、1885年(明治18年)12月。日本で内閣制度が発足。「逓信省」も新設されました。これは通信と交通全体を統括する中央省庁で、農商務省からは、駅逓局と管船局の移管。廃止された工部省からは、電信局灯台局を引き継いで一つにまとめたのです。以前から密が望んでいた省ですが、後に工務局長となる志田林三郎も、駅逓電信両局の合併を求める建議書を提出していました。

翌1888年(明治21年)逓信大臣榎本武揚から請われた前島密。逓信次官として、中央に返り咲きます。官営か民営か。大電話事業に関して、政官と工部省は5~6年の間、議論していましたが、逓信省設立後も話はまとまらず、対立していました。そこに次官としてやってきた前島密は、官営に意見をまとめ上げて一本化します。1890年(明治23年)12月に、東京・横浜市内とその相互間で電話交換事業を開始しました。交換業務開始は、東京179名。横浜45名と、定員300名には満たない状況でのスタートでしたが、電話の便利さが理解される。しかも近代女性の仕事ということも目を引いて、急速に発展してゆきます。懸案事項を解決しただけでなく、電話交換業務が円滑に行われてゆくのを見届けると、前島密は、逓信次官を辞職しました。

♄年齢域57~70歳1892(明治25)~1905(明治38)年

時制的には、日清日露戦争と重なる♄年齢域。全く影響がなかったわけではないものの、軍人でも現役役人でもない前島密。直接携わることはなく、1894年(明治27年)北越鉄道株式会社の社長に就任すると、直江津・新潟間の鉄道建設を始めます。1902年(明治35年)には、UPU加盟25周年を迎え、男爵が授与されました。♄年齢域を飾るように、1904年(明治37年)7月。貴族院男爵議員に選任されます。

1915年(大正4年)には、密80歳を記念して、祝寿会が開かれました。席上で銅像建設の話が持ち上がり、100名近い人から寄付が集まります。銅像は逓信省内に建てられ、1916年(大正5年)7月1日盛大な除幕式が執り行われました。時の首相大隈重信、渋沢栄一もこの時演説を行っています。現在銅像は前島記念館の前庭に設置されています。

♅年齢域70~84歳1905(明治38)~1918(大正7)年&♆年齢域84歳1918~1919(大正8年)4月27

1910年(明治43年)75歳となった前島密は、ほとんどの職を退き、九州を旅行した後、神奈川県芦名(横須賀市)に終の棲家「如々山荘」という隠居所を設けました。時代は明治から大正に代わる激変期でしたが、山も海も身近な芦名での生活は、近所の子どもたちや村民と何気なく触れ合う穏やかな日々だったそうです。

1917年(大正6年)長年に渡り訓盲院の運営発展に貢献した前島密は、皇后行啓に招かれて、玉音を受けます。晴れやかなことと悲しいことがこの年は交差して、仲子夫人が69歳で死去。結婚後、ほぼ家にいることなどなく、仕事で飛び歩いていた密。晩年は夫婦水入らずで過ごしました。奥様に先立たれた後は、体調がすぐれない日が増えてゆきます。 ♆年齢域に入って間もない1919年(大正8年)4月27日の早朝。前島密は、84歳の生涯を終えました。現在あって当たり前の郵便制度。その基礎は、向学心と好奇心。もっと便利にならないかという思いで、日本中を駆け回り、新時代の制度を作り上げた前島がいたから、存在しているのです。彼を主人公にしたドラマがあってもいいかなと思うほど、その人生は波乱万丈でした。

お話/緑川連理先生

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