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慢性的な疲労だと思っていたら、急性肝不全で余命90日と宣告された2児の母のストーリー。奇跡的に見つかったドナー、手術は20時間に及び…

  • 2025.1.2

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日常の疲れから一変、ケイリーの身に起こった異変

私の名前はケイリー・シラー。39歳で幼い子ども2人を育てながらピラティススタジオのオーナーをしていれば、疲れているのも当たり前だと思っていた。身体的にも精神的にも疲れ果て、休息と睡眠が欲しくて仕方なかったけれど、それは多忙な母親の副作用として片付けていた。ところが、数週間経った頃から疲労が悪化。息切れが止まらなくなり、いつもならさほど苦労しないワークアウトが終えられなくなったばかりか、毎日のように激しい吐き気も感じるようになってきた。

妊娠したのかもしれないと思ったけれど、検査結果は陰性で吐き気がひどくなったため、かかりつけのクリニックを訪れた。私はフィットで健康そうに見えるので、医師は特に心配する様子を見せず、血液検査もすることなく、吐き気止めを処方した。その2日後、私の両目は鮮やかな黄色になった。

これは絶対どこかおかしい。そう思った私は、同じクリニックで血液検査を強く求めた。その翌日、クリニックから電話があり、肝酵素の数値が異常なので、いますぐ最寄りの救急外来へ行くように指示された。救急外来では再び血液検査を受け、何時間もかけて担当医に自分の症状を説明した。その後、医師から、私にはより専門的なケアが必要なので、救急車で別の病院に移る必要があると言われた。

その別の病院に到着するやいなや、私は集中治療室に入れられて肝生検を受けた。その翌日、肝臓内科長から、私は急性肝不全(肝臓の機能が急速に停止する重篤なタイプの肝不全)の末期であり、その原因は自己免疫性肝炎(体の免疫システムが肝細胞を攻撃する慢性肝疾患)にあると告げられた。

急性肝不全は成人10万人のうち4~43人が罹患する稀な疾患(米国の場合)。遺伝も関係しているけれど、私の家族に急性肝不全の兆候がある人は1人もいない。

医師の診断を聞いている間、私はずっとぼんやりしていた。自分は健康な人間だと思っていたのでショックだったし、あまり突拍子もないことを言われると、すぐには意味が理解できないものだ。展開が早すぎて、パニックになる暇も心配する暇も泣く暇もなかったけれど、家族が一緒にいたので、希望を持ち続けなければならないことだけは分かっていた。ネガティブなセルフトークや死ぬことばかり考えるような状態に陥ることはできないし、したくもない。これは決して終わりじゃないと、私は自分に言い聞かせ続けていた。

その後2週間にわたってステロイドの投与を受けたけれど、何も改善しなかった。

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そして、私は余命90日と宣告された。

私が生きる唯一の道は肝臓移植だった。

この時点で私の体は機能不全に陥っていて、食欲はゼロ。喉は焼けるように痛く、筋肉のハリも失われた。体が弱りすぎて、階段を下りることも車を運転することもままならない。体内に水分が溜まったせいで体重が13kgも増えてしまい、見た目的にも気持ち的にも自分が自分に思えなかった。診断からわずか数週間のうちに、自分の全てが目の前で壊れていった。

主治医の肝臓内科長は素晴らしい人で、私が移植を受けられると確信していた。そのとき、私は移植リストの一番上にいたからだ。私は彼を信頼し、平静を保とうとしたけれど、臓器移植は基本的に“待ちのゲーム”。それがいつになるのかも、そもそも可能になるのかも分からないので、私は最悪の場合に備えて遺書を書き、私なしでもピラティススタジオが運営できるようにして、子どもたちのクローゼットを片付けた。息子たちは育ちざかりなので、いまのうちにやっておいたほうがいいと思った。こういうことをしている間は気が紛れ、余命のことを考えずに済む。

移植を待っている間の数週間も容態は変わらず、食欲はゼロ。喉は焼けるように痛く、体は驚くほど衰弱していた。そして、私は精神的にも大打撃を受けていた。臓器移植を待つということは、自分が生きるために誰かが死ぬのを待つということだから。この事実は本当に受け入れ難く、いまでも理解に苦しむけれど、私にはそれが唯一の選択肢だった。当時の私は、自分の体内で起きていること、そして自分には待つことしかできないという事実を受け入れなければならなかった。自分のコントロールが全く効かない状況では、自分の力を手放すしかない。

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診断から1ヶ月半後の2019年10月2日、ドナーが見つかったという電話を受けた。

病院へ向かう車の中で、私はずっと泣いていた。興奮していたからじゃない。私の命を救うために自分の命を落とした人のことを想うと、涙が止まらなかった。

私の手術は翌朝7時に始まったけれど、私が目を覚ましたのはその翌日の午後4時だった。手術中にできた血栓が肺に入って肺塞栓が生じ、その血栓が心臓と脳に移動して、手術中に4度の脳卒中を引き起こしたという。外科医は手術を中断し、私を放射線科に連れて行き、さらなる血栓の発生を防ぐために下大静脈(IVC)フィルターと呼ばれる小さな金属製の器具を私の体内に留置した。肝臓移植が完了するまでの24時間、私は鎮静状態に置かれていた。

目が覚めたときは頭の中が大混乱。心臓専門医や神経科医、肝臓内科医が次々に入ってきて何が起きたか説明しても、全く理解できなかった。

診断を受けてからずっと、私は無意識のうちに自分の感情を抑えつけ、ただ生きることに全力を注いできた。でも、移植が終わって合併症のことを聞いた瞬間、その感情が解放された。何もかもが現実とは思えなかった。

私は落ち込み、深い悲しみに襲われた。フィットネスのプロとして健康的な生活を送ることに全力を尽くしてきたのに、私の体は生き延びるので精一杯。手術中に起きたことを理解するのは大変だった。医師とナースは絶えず私の様子を確認し、検査を重ね、私の状態を説明しようとしてくれた。でも、私は動揺、イライラ、悲しみの中にいて、全てを1人で処理したいと思っていた。病室にはプライバシーの欠片もない。与えられる情報量に圧倒されて、まともに息さえできない気がした。

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手術後は、気持ち的にも身体的にも辛かった。

まず、胴体の中央部が上下に切り裂かれたせいで体幹に力が入らず、腰が痛くて仕方なかった。また、手術中に起きた脳卒中が原因で、ひどい片頭痛に何日も悩まされた。この2週間の入院生活は、人生で最悪かつ最も辛い経験だったけれど、家族や友人の助けによって、私は少しずつ、でも着実に強さを取り戻していった。両親といまの夫は、病院で長い夜を過ごしたり、子どもたちの面倒を見たりしながらずっとそばにいてくれたし、友人や近所の人たちは私の家族の食事を毎日作ってくれた。いつもは“与える側”なので、自分に助けが必要であることを認めるのは大変だった。でも、私に与えられた揺るぎない愛とサポートには、頭が下がる思いだった。

帰宅許可が出てからは、すぐに体を動かし始めた。軽い運動しか許されていないうちは、ランニングマシンを時速約3kmに設定し、毎日5~10分のウォーキング。何ヶ月も使えなかった筋肉を活性化するために、軽いウエイトトレーニングも開始した。ある程度の持久力がつき、主治医から許可が下りてからは、自宅のピラティスリフォーマーで体幹の筋力を取り戻すことに集中した。

手術から2ヶ月後の12月には、時速約6kmで45分のウォーキングができるまでに回復していた。週に1回はピラティススタジオで教えられるようになったので、メンタルヘルスの状態も改善した。1月にはフルタイムで教えられるようになり、全身の筋力と持久力の回復に引き続き取り組んだ。

このリカバリー期間では、私のドナーであるジェイソンの家族とも連絡を取った。感謝の気持ちを伝えたかっただけじゃない。彼の死に哀悼の意を表したかった。彼の人生について知ることは私の気付け薬となり、私は自分自身とジェイソンに、彼の名前と遺産を無駄にしないと固く誓った。

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その翌年はアップダウンが激しかった。

移植後の1年目は臓器拒絶反応のリスクが最も高いので、私の新しい肝臓が生き延びてくれたのは本当に幸いなこと。主治医からは、「肝臓移植からこれほど早く回復した患者はいない。これはピラティスや体を動かすことに対するコミットメントの賜物だ」という手紙をもらった。

あれから5年経った今日の私は、これまでになく元気。ピラティスを続けているだけでなく、週4~5回のランニングも開始した。お酒は飲まないし、グレープフルーツやザクロは、体が新しい肝臓を拒絶してしまうのを防ぐために服用している薬と相性が悪いので食べられない。でも、それ以外では、フルーツ、野菜、ナッツ、シード、脂肪の少ないタンパク質が豊富なバランスの良い食生活を続けている。月に1度は肝酵素のモニタリングをするために採血を受けているけれど、私はいま健康で素晴らしい人生を送っていると言えることがとてもうれしい。

こんな経験はもう二度としたくない。恐怖と悲しみと未知のことで溢れていたから。でも、この経験は私を良いほうに変えてくれた。恐れずに毎日を全力で生きることを教えてくれた。不安なことばかりに目を向けるのではなく、ジェイソンの遺産を生かし続けるために勇敢に生きることが私の使命。肝臓移植は図らずも私のストーリーの一部になった。人生では何が起こるか分からない。だからこそ、私は1日1日を勇敢に生きていく。

※この記事はアメリカ版ウィメンズへルスからの翻訳をもとに、日本版ウィメンズヘルスが編集して掲載しています。

Text: Kahley Schiller as told to Andi Breitowich Translation: Ai Igamoto

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