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何年も探し続けた栗は、小学生の時の記憶のまま。仏壇にお供えすると

  • 2024.11.14

私は実家にいたころ、祖父母と母と4人で暮らしていた。家は、山を切り拓いて作られた住宅街にあった。当たり前のように、小学校では定期的にイノシシや狐、タヌキ、熊などの目撃情報と共に、通学路では注意するようにというお知らせのプリントが配られていた。それくらいには、共存とまではいかないが、自然と人の境界線が身近にある場所だった。

そんな閑静な場所で育った私は、小学校の低学年くらいの頃、風が心地よいくらいの季節にはよく祖父と散歩に出かけた。
私達が住んでいた地域は坂や、入り乱れた道が多く、近所でも迷子になってしまいそうなくらい複雑な場所だった。そんなところを能天気な祖父と何も考えず、こちらに綺麗な紅葉があるとか、こっちの道は坂がきつくて運動になりそうだとか言いながらどこまでも歩くのは冒険みたいでとても楽しかった。

◎ ◎

ある日、散歩の途中で木々が密集する小さな森のような場所に偶然迷い込んだ。よく見るとそれは栗の木だった。初めて見る栗の木に興奮して、祖父に肩車をしてもらって実を近くで見た。あいにく、それはまだ小さくて緑色だったため、食べるには早かったけれど、隅に落ちていた栗のイガを大切に、そして慎重に祖母と母へのお土産に持って帰った。

秋になり、祖父とあの栗の木があった場所へもう一度行こうとしたけれど、できなかった。私も祖父も気ままに歩いたせいで道を覚えていなかったのだ。翌年も、その翌年も、栗好きの祖父と、本物の栗をまた見たい私は、初めて目的を持って散歩に出たが、あれ以来、栗の木は見つからなかった。

◎ ◎

そして、10年以上経って、私は大学生になった。一人暮らしを始めると、たまに実家に帰省した際に、アルバムを見返したり、バスの窓から見慣れた景色をわざわざ見るようになった。今まで中高と、本やテキストは見ても、窓の外なんて見ようともしなかったのに不思議なものだ。きっと、やっと地元への愛着に気づき、子ども時代の思い出が大切なものになるほどに、私が大人になってしまったのだろう。

少しの哀愁を感じながら近所へ散歩にも行った。もしもの時はマップを調べたらいいやと、以前とは違う気ままさでなんとなく歩いていると、あの小さな森のような場所に行き着いた。ここにあったのかという驚きと達成感や懐かしさが襲ってきた。そこは家から20分ほど歩いた場所にあったのだ。しかも、なんども角を曲がり、坂を下ったり上がったりした場所だった。

あの時と同じ、小さなイガ栗が所々に落ちていた。ただ一つ違うのは、それが茶色くて、小さな実が入っているものがあったことだ。小さな頃の私がこの栗と栗の間を走ってはしゃいでいるような気がした。祖父が喜んでいるのが見えた。

祖父は私が高校生の時に亡くなった。もう何年も経ち、私達家族の中では古傷になった。遺品整理もとうに済んで、実家ですら祖父の面影を感じることは少ない。一人暮らしならなおさらだ。でも、何年も探し続けていた栗が、あの時の記憶のままここにあったなんて。
私は落ちていたイガ栗を一つ拾って、家に持って帰った。仏壇にそれをお供えすると、祖父が喜んでくれた気がした。

■なつめの抹茶のプロフィール
料理と茶道が好きな女子大生。
いわゆるリケジョだけど、言葉を紡ぐこと、紡がれた言葉を読み解くことも大好きです。

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