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いちじくに溺れ、甘いものでも満たされない体に。私は肉の鎧をまとう

  • 2024.10.31

無性にいちじくが食べたい。ドライフルーツじゃなくて生の。でもいちじくが食べたいと思うほど私はいちじくを食べたことがない。だけどなぜかいちじくが無性に食べたかった。

社会人になってから初めての秋のことだった。後から振り返ると、人生で一番鬱がひどい時期でもあった。当時は食事ができる時とできない時が極端になり、成人してから一番痩せていた。いちじくは女性に嬉しい栄養が満点らしく、本能的に求めたのだろう。

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当時、奨学金を繰り上げ返済していた。利子のつき方が選べたのだが、世間知らずが故に、支払う金額が大きくなる方を選んでしまった。時勢を読み誤ったとも言える。実家暮らしだし、利子がつきまくる前に返そうとやっきになって繰り上げ返済をしていたのだ。その行為自体は全然悪くないのだが、それをきっかけに私はお金を使うことに過度に恐怖や不安、罪悪感を抱くようになり、飲食など生活に必要な買い物すらままならなくなっていった。唯一の救いは現金を見なければ罪悪感などが少なかったことだ。私は時代に先駆けてキャッシュレス派になった。

そんな私がいちじくを自分に買い与えることなど、できるわけもない。いちじくが食べたい欲求が消えることはなかったが、時季を逃すとフルーツは手に入れることが困難だ。次のいちじくの季節になるまで私はこの欲求を持て余していた。

反動もあったのだろう、時季が来たらいちじくスイーツを食べ歩いた。地域性もあるのか、生のいちじくは当たり外れが大きい。安くない金額を払っても、カビが生えていたり傷んでいたりと悲しいことが多く、タルトやパフェなど、いちじくスイーツへ舵を切ったのだ。

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そうして毎年いちじくに溺れているのだが、一向に満たされない。どんなに食べても、あの時いちじくを食べたがっていた私には、もう食べさせることができないのだ。

そうこうしているうちにいちじくに限らず、甘いものをとにかく欲するようになった。ちゃんと食事を摂っても甘いものが食べたくなる。食べても食べても満たされない。それどころか食べても食べてもお腹が空いている感覚がある。そうやって食べている物は決して美味しいとは思えないのも、また苦痛である。美味しくいただけなくて、食べ物に申し訳ない。まだ嘔吐はないけれど、摂食障害の入り口に立っているような気もする。まだ大丈夫という意識がある時点でもう結構やばい気もするのだが。

そうして人生で一番太ってしまった。自分で自分の身体が、特に腹部が醜く憎たらしくてたまらない。見た目うんぬんの問題はさておき、数値的にもう不健康でしかないので痩せたい。でも私にとって太るのは簡単だが、痩せるのは難しい。そして不健康に痩せて太ってを繰り返すと痩せづらくなる。年齢的にもダイエットが簡単ではないお年頃に突入してしまった。

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日本だと旧約聖書のアダムとイブが食べた禁断の果実はリンゴというのが通説だが、いちじくという説もある。禁断の果実を口にして知恵を得たアダムとイブは、裸であることに羞恥心を覚え、いちじくの葉を身にまとった。対して私は肉の鎧を身にまとっている。この「肉の鎧」という表現が、とてもしっくりくる。まるで何かから身を守るように食べている感覚があるからだ。食べている時だけは嫌なことを忘れられることも相まって。

「もう大丈夫だよ」って自分に声をかけてあげたい気持ちもあるのだが、一体、何が大丈夫なのかわからない。むしろそんな気持ちに対して、「全然大丈夫じゃない」と言い返したくなる気持ちもある。そもそも自分が何に怯えて、何が不安で、何から身を守りたくて食べているのかもわからない。

私の心身の季節が秋なのだろうか。心身ではなく人生かもしれない。本能的に冬に備えて蓄えたいのかもしれない。時が過ぎて、冬が来たら蓄えて良かったと思うだろうし、冬じゃなくて次に来たのが春や夏だったら、その時は安心して肉の鎧を脱げるのかもしれない。とにかく自分にとって今はそういう時季なのだと、また季節は巡るから大丈夫だと言い聞かせるよりほかない。

■馬須川馬子のプロフィール
毒親育ち。今は親から離れ、自分を育て直しています。ノンフィクションの作文が好きで、社会復帰のための活動の一環として投稿活動しています。

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