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手は口ほどに #6:200年近い伝統を繋ぐ、藍染めの工芸士

  • 2024.10.30
藍染をする手元の様子

藍をいっぱいに湛えた瓶に、枷糸(かせいと)をドボンと何度も浸す。糸はもちろん、指も爪も真っ青に染まっていく。濃紺よりもさらに濃い、黒色にも見える藍色を褐色(かちいろ)と呼ぶらしい。「藍に墨を足してこういった色を作ったり、赤い染料を混ぜて紫紺(しこん)と呼ばれる紫っぽい色にしたり」。藍鼠(あいねず)、青藍(せいらん)、藤納戸(ふじなんど)、藍錆(あいさび)、茄子紺(なすこん)。まだまだ、藍色の呼び方はいくつもある。「むかしの日本人は、感性が細やかだったんでしょう。最近の注文は、濃いか薄いか中間かくらい」。

いまでは、糸からではなく、製品を預かって染める発注がほとんど。今年の夏前には、地元の金融機関がユニフォームにするポロシャツを持ち込んできて、藍染めにしてほしいと依頼された。「心掛けているのは色を揃えること。30枚預かったら、30枚同じ色で納品する。乾いてからじゃないと染まり具合が分からないので、気を使います。特に中間の藍色がいちばん難しい。濃いのは浸ける回数を重ねていけばいいけれど、中間色は二、三回しか浸けられないから色が揃いづらい」。ひとつひとつの色が微妙に違うのがいいと思ってしまうような、酔狂は許されない。芸術家ではなく、職人であるという気概がにじむ。

細かく刻んだ蓼藍の葉を筵にひろげて乾燥する様子
タデ科(たでか)の植物である蓼藍(たであい)の葉を刈り取り、細かく刻んで、筵(むしろ)にひろげて乾燥させる。茎の部分は使用しないので葉だけをより分け、さらに発酵熟成させて、可溶性のある染料の蒅(すくも)をつくる。
藍建ての材料
蒅(すくも・右下)を染料にして、藍液をつくる作業を藍建て(あいだて)と呼ぶ。ふすま(左下)と呼ばれる小麦の皮は発酵のための栄養となり、石灰(右)は液をアルカリ性にして蒅を溶けやすくする。さらには、発酵を促すために日本酒を使う。
藍瓶に糸を浸ける様子
藍液を溜めた藍瓶(あいがめ)に糸を浸けて、文字通り藍色に染めていく。枷状(かせじょう)にした糸から染めると、しっかりと染まるが、枷糸から織れる織機も少なくなって、最近では生地や製品の状態で染める発注のほうが多い。
藍汁
微生物などによる働きで、藍汁が醗酵している。どういった状態の藍汁に、何度浸ければ、どんな藍色になるか、こればかりは経験がものをいう。それでも、季節によって湿度や気温が違えば、思った色にならないこともあるそうだ。
枷糸を掛けてある木の棒を足で抑え込んで、絞り上げる様子
枷糸を掛けてある木の棒を足で抑え込んで、ギリギリと絞り上げる。「何度か染めたら、染物に持っていかれて、藍液の色が抜けてグレーがかってくる」。そうなると、他の藍瓶から濃いものを継ぎだして調整するか、いちから藍建てをし直すという。
作業場
藍の濃さや色味などに応じて、作業する藍瓶を使い分ける。「あまり水温が低いと発酵しないので、冬には温めながらやる」。20度から30度ぐらいが理想の温度。季節によっては、醗酵するにおいとともに、作業場に湯気が立ち込める。
藍瓶から糸を引き上げる様子
藍瓶に浸けて染める作業をいったん止めて、糸が掛けられた棒を天井から下りているひもに吊るして休ませるときもある。それを繰り返していって色を定着させ、思い描いた藍色に近いものに仕上げていく。

新島大吾さんは、天保8(1837)年に創業された老舗「武州中島紺屋」の五代目である。武州(ぶしゅう)とは、埼玉や東京そして神奈川を含む地域の古い呼び名、武蔵国(むさしのくに)のことだ。武州中島紺屋のある埼玉県羽生市の辺りには、天保時代に生業を始めた藍染めの工房がいくつか残っている。ここからほど近い深谷で生まれた渋沢栄一は、少年時代から染料の原料となる藍玉(あいだま)の売買で商才を発揮したと伝えられている。「利根川沿いだから、原料になる植物の蓼藍(たであい)が採れた。昔は農家の副業で、米の収穫が終わって冬になると、藍染めの仕事をしていたそうです」。

藍は日よけ虫よけによく、防臭効果もあったために、農作業の野良着(のらぎ)を染めた。さらには、武士の鎧下の服や防具にも使われるようになった。濃い藍色を指す褐色(かちいろ)は、「勝色」とも呼ばれて武士に好まれたらしい。「その名残か、先代のころまでは剣道着の染めが主流だった。いまでも上段位の剣士が昇段審査を受ける前に、道着を染めるために持ってきたりします」。

爪まで真っ青に染まった手
爪まで真っ青に染まった手は、藍染め職人ならでは。新島さんは、「石鹸で洗えば取れるんですけどね」と笑う。
枷糸を水で洗う様子
染める作業が終わると、水でじゃぶじゃぶと洗う。手分けせず、すべての工程を一人で行い、色を揃えるのに集中する。
枷糸の水を絞る様子
水を絞って、あとは干すだけ。さてどんな藍色になってくるのか、「乾いてからじゃないと分からない」。
藍色に染めあがった枷糸
微妙に違う藍色に染めあがった枷糸。浸ける回数が限られる中間色は、熟練の新島さんであっても難しい。

服飾の専門学校に通っていたときに、武州中島紺屋の先代である中島安夫さんが藍染めの授業を教えに来た。新島さんは、座学ではもの足りず、また、自分の実家近くに藍染めの伝統があることに興味を持ち、工房を訪ねて自らも藍瓶に手を突っ込んで実際に染めてみた。その後、いちどはレザーバッグのパタンナー(設計・サンプル製作)になったものの、思い立って中島さんに弟子入りしたのだという。「そこから24年。伝統工芸士のところまで来ましたが、藍染めならあの人にといわれるところを目指してやっていきたい。師匠は2013年に83歳で亡くなるまで現役でした」

藍染めの職人を目指す若い人は、それほど多くはない。いっぽうで、地元の小学生が遠足で工房を訪れて藍染めの体験学習を行っている。「藍のにおいや冷たさに驚きながらも、いい色になったと喜んでくれたりします」。どんな仕事であったとしても、すぐに極められるものではない。「自分でも、藍染めはいまだに分からないところがある。季節や温度で変わっちゃうので。秋の今ごろは、カラッと晴れて、湿度がそれほどなくて、水温も20度ぐらいでちょうどいい。藍染めらしいスカッとした色がきれいに出ると、嬉しいですよ」。朴訥にうつむきながら語っていた新島さんが、小さく微笑んで、前を見る。武州で繋がれてきた藍染めの長い歴史の途上に、彼は立っている。

profile

藍染め伝統工芸師・新島大吾

新島大吾(藍染め伝統工芸士)

にいじま・だいご/1976年、埼玉県深谷市生まれ。文化服装学院を卒業後、レザーバッグのメーカーを経て、2000年より武州中島紺屋四代目で無形文化財技術保持者の故・中島安夫氏に師事。そこから24年間、日々、藍染めに取り組んでいる。2012年には伝統工芸士を取得。母校である文化服装学院の学生や、地元の小学生に藍染め文化を伝承している。

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