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「あの時代は二度と戻ってこない」バブル時代の“三宿ゼスト”ブームの真相とは

  • 2024.10.28

今の40代半ば以上の人に“三宿”というと、必ず“ゼスト”の名が上がる。“ラ・ボエム”と共に、デートで絶対に訪れていた、カッコいい大人しかいなかった、と。

“三宿”の名を世に知らしめた同店のオープン当時を振り返るべく、当事者であるグローバルダイニングの長谷川耕造社長に話を聞いた。

お話を伺ったのは、グローバルダイニング代表取締役社長・長谷川 耕造 氏。1950年生まれ。73年に長谷川実業(現:グローバルダイニング)を設立。『六本木ゼスト』を皮切りに、『ラ・ボエム』、『権八』、『モンスーンカフェ』をはじめ、さまざまな飲食業態を展開。

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■2店舗同時出店に社内では大反対の嵐

2ヶ月違いでオープンした“ゼスト”と“ラ・ボエム”だったが距離にして300mほど。

「両店が食い合うのでは?という懸念と三宿は土地購入もあり、資金も必要。社員からは猛反発を受け、話し合い納得してもらいました」

■エリアならではの幅広な道が成功の一因

「三宿通りは、道幅が広くパーキングメーターが両端にあったのも好都合でした。当時は車で訪れる人も多かったので」

その後、バブル崩壊での都心回帰や2000年代初頭の「道路交通法改正」による飲酒運転の厳罰化などもあり、“三宿ゼスト”は2013年に幕を閉じた。

■アルバイトのキャンセル待ちが常態化

「働くスタッフも脚光を浴び、その結果アルバイト希望者が殺到していました」

当時、“三宿ゼスト”のオープンを任されたのは現・HUGE(リゴレットなどでおなじみ)の代表取締役社長 兼 CEOの新川義弘氏。

■全国から三宿を目がけて客が殺到する事態に

両店とも、オープン日には長蛇の列。その人気ぶりにすぐにマスコミが殺到。当時の雑誌には「三宿」「ゼスト」「ラ・ボエム」の名前が飛び交っていたという。

「北海道や関西から三宿を目がけて来る人もいました」とか。

■フローズンマルガリータはピッチャーで提供!?

「アメリカでカクテルの本を購入して増やしていった」というカクテルは代名詞。

中でも「フローズンマルガリータ」が大ヒット。「オーダーに追いつかず、ピッチャーで提供したり、フローズンマシーンを導入するほどでした」

■“真に”カッコいい大人が集っていた

「それは、①お洒落(流行でなく、本質を追求する魅力のある人) ②知的 ③レアな人。当時、外苑前『SARA24』に業界人が集い、それが三宿にも波及してきました」

曰く、カッコいい人=地域を変える力がある人。集う人、皆がそうだったから街の印象まで変えたのだ。



「それまでの三宿は、繁華街から離れた人通りの少ない住宅街でした」

1980年代後半、同社は港区を中心に成功していたものの、地上げによる土地の高騰で新規の土地が見つからずにいた。そんな折、長谷川社長が自ら見つけたのがこのエリアだった。

「世田谷という高級住宅地。渋谷からワンメーターで行けて、自動車で移動するにもちょうどいい場所でした」

かくして1989年9月に『ゼスト キャンティーナ 世田谷』が、11月には『カフェ ラ・ボエム 世田谷』がオープン。

35年目を迎えた『カフェ ラ・ボエム 世田谷』は今も人気。1階のオープンキッチンや地下1階の「伝説の泉」も健在。イタリアンを楽しみつつ、当時に思いを馳せてみて


いずれも150席を超える大箱で、エンタメに溢れた内装やサービスを求め、業界人やモデル、デザイナーなどの“お洒落人たち”が殺到。朝まで賑わい、両店ともに月間最高売り上げは5,000万円を超えた。

当時を振り返り「あの熱狂は立地と時代の流れがすべて。バブルが終わって、人も都心に戻り、落ち着いていきました。あの時代は二度と戻ってこないと思います」という。

これほどのパワーを持った店が生まれたのはまさに奇跡。伝説を目の当たりにした大人たちは、その記憶を語り継いでいって欲しい。

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