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町田康『家事にかまけて』第3回:生活感が感じられない素敵なお部屋

  • 2024.10.27
花瓶を受け止める人のイラスト

人間は毎日、生活をしている。これはなによりも大事なことだ。なぜなら生活をしないと死滅してしまうから。なので選挙になると候補者は「庶民の生活を守れ!」なんて絶叫する。

しかしその一方で人が生活感を嫌う局面もある。それは自分の家をいい感じにしようと思う際で、その際、人は、生活をしていると其処から必然的に生まれる「生活感」を可能な限り排除しようと努力する。生活は守りたいのだが、生活感は排除したいのである。

その為にはどうしたらよいか。それは生活に芸術を取り入れることではないか、と思われる。
宮沢賢治という人は、「すべての農業労働を舞踊の範囲に高めよ」と言うたらしいが、我々の生活もこれに倣って芸術的にしてしまえば生活感を排除できるはずである。

家の中には色んな物がある。薬罐、皿うどん、天花粉、ゼラチン、眼鏡拭き、高枝切り鋏、洗濯ネット、皇潤、エネループ、写真立て、テンガロンハット、ビゲン早染め、ロキソニン、ゴキジェット、ずんどの花活……エトセトラエトセトラ。

実にもう色んな物があって、それぞれがまるでバルサンのように生活感を撒き散らしている。然し乍らなぜこれらの物はそれほどまでに生活感を発散するのだろうか。それはこれらの物は、そこにある事によって俺が生活において、どれほど浅ましく便利・快適を求めているかを証し立てているからであり、また、その衝撃的な色や書体をふんだんに用いた意匠は俺らの旺盛な生活に対する意欲が具現化して其処にあるように感じられるからである。

楽をしたい、という気持ち、多量の銭貨を得たい、という気持ち。これらは剥き出しの食欲、剥き出しの性欲が恥ずかしいのと同じように、恥ずかしいことである。なので芸術で覆い隠す。これが、「生活感が感じられない素敵なお部屋」のギリギリの肝要のところである。

ここら辺の事情はパーセンテージで表すとわかり易いだろう乃ち家の中の生活感の何パーセントが芸術でカバーされているか、逆から言うと何パーセントの生活感が剥き出しになっているかを見るのである。

それを俺の家に当てはめてみたらどうなるだろうか、と言うと全然だめや。俺は自分の希望としては生活感が殆どない、芸術九〇生活一〇、くらいの家にしたいと常日頃から考えている。しかし現状は、芸術三生活九七、くらいな感じになってしまっている。なんでそんな事になっているのか。原因は三つある。一つは怠惰、一つはセンス、一つは銭貨、である。

そのうち、怠惰は努力次第でなんとかなるだろう。然しどうにもならないのはセンスと銭貨である。はっきり言って俺にはセンスがまったくない。センスがない人間が家の中を芸術的にしようとしたらどうなるか。はっきり言って、思わず目を覆いたくなるような惨状が現出する。

俺の家の中にははっきり言ってその痕跡が至るところにある。「こんなものでも置いたら少しは生活感が薄まるのではないか」と思い買い求めて置いた壺。「ここら辺に写真かなんかを飾ったら少しは芸術的な雰囲気になるのではないか」と考え飾った額……エトセトラエトセトラ。

なにもかもがチグハグでなにもかもが珍妙で、その時は自らのアイデアに酔い痴れ、「いいっ」と悦に入っていたのが、時が経って冷静になると、自分で自分を殴りたいような、イギー・ポップに向き合いたいような、そんな気持ちにはっきり言ってなってくる。

そんな俺でも銭貨があれば問題を解決することができる。雑誌やインスタで見る金持ちの家は大体において芸術的で生活感が殆どない。それに比して貧民の家は生活感に溢れている。

これにより、芸術と生活の比率はその家にどれほどの銭貨があるかによって決まってくると言うことができる。

銭貨があれば利便性快適性を備えながら芸術的である家を建築し、芸術的な調度品を揃えることができるし、芸術的な壺や絵を飾ることもできる。生活感を醸し出す道具や汚れ物は使用人がすぐに片付けるし、その使用人さえ、こざっぱりしたお仕着せを着用している。ところが俺にはその銭貨がない。よってそれが叶わない。となれば。

どうしようもない八方塞がりなのだが、しかし諦めたらその時点で人間は終わりだ。今は、芸術三生活九七かも知れない。だが、ほんの少しでも芸術の度合いを高める。センスがなくてそれができないのなら生活の度合いを薄めていく。それを目指して努力するのが人間の生き方ではないだろうか。

いやさ、それをすること自体が、生きる、ということではないだろうか。その結果、芸術三〇生活七〇、になったとしたらそれは素晴らしいことだし、仮に、芸術一〇生活九〇にしかならなかったとしても、最初よりは七も良い訳で、それを誇りに思ってバイオリンを弾く真似などしたらよいのではないだろうか。それを笑う人もあるかも知れない。だけど笑われたっていいじゃないか。人間だもの。俺はなにを言ってるのだろうか。はっきり言ってさっぱりわからない。

と口で言うだけではなく、俺は先々月くらいから実はそうした努力を続けている。と言うのは、芸術で覆う、ということが右のような事情でできないのであれば、生活的な物を減らす、具体的に言えば捨てれば良いのではないか、という努力で、さらに具体的に言うと、もはや使わないもの、要らない物を捨てる、という努力である。

これはセンスも財力もない人間にとってきわめて有効な手立てであると言える。なぜなら生活感もっと言うと生活臭を発散する物の量が減れば、物理的に生活感も減じる筈であるからである。

という訳でゴミ収集日であった本日も俺はもはや穿かないであろうウールのズボン一本を捨てた。もはや穿かないズボンは数十本。うち一本を捨てるのに一月を要した。生きているうちにあと何本捨てられるだろうか。そんな暗い想念が頭をよぎる。いよいよ冬だ。

profile

町田康

まちだ・こう/1962年大阪生まれ。作家。『くっすん大黒』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞、「きれぎれ」で芥川賞、『告白』で谷崎潤一郎賞、『宿屋めぐり』で野間文芸賞など受賞多数。他の著書に「猫にかまけて」シリーズ、『ホサナ』『ギケイキ』『しらふで生きる』『口訳 古事記』など。

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