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サッカー界にドラフトがあったら「下位指名」…そこから“名球会クラス”になった日本代表レジェンド3名

  • 2024.10.24
サッカー界にドラフトがあったら「下位指名」…そこから“名球会クラス”になった日本代表レジェンド3名
サッカー界にドラフトがあったら「下位指名」…そこから“名球会クラス”になった日本代表レジェンド3名

Text by 佐伯洋(編集部)

10月24日(木)16時50分より、プロ野球のドラフト会議が行われている。

プロ野球のドラフトは、かつて有望な選手に破格の金額を提示する球団同士の獲得合戦が激化したため、それを防止する目的として1965年に始まったといわれている。

歴史をみるとドラフト1位で指名された選手の成功する割合が圧倒的だが、一方で下位指名ながら「名球会」に入る活躍をみせたレジェンドもいる。

ここでは、もし日本サッカー界にドラフトがあったら「上位指名されなかった」かもしれないが、そこから日本代表のスーパーレジェンドにまでのしあがった選手たちをご紹介し よう。

岡崎慎司

サッカー界にドラフトがあったら「下位指名」…そこから“名球会クラス”になった日本代表レジェンド3名
サッカー界にドラフトがあったら「下位指名」…そこから“名球会クラス”になった日本代表レジェンド3名

日本代表:119試合50得点(2008-2019)

強豪・滝川第二高で1年時からレギュラーを獲得した岡崎慎司。全国高校選手権にも出場し、卒業後には清水エスパルスと契約している。

ただFWとしては上背がなく、プロレベルではスピードも技術も目立たなかった。同い年のルーキーが豊作だったこともあるが、当時の長谷川健太監督から「FW8人の中で8番目」と評価されたのは有名な話だろう。

それでもどんな場面でも恐れずに飛び込む勇気と向上心は、誰にも負けることがなかった。並外れた努力で日本有数のFWとなり、海外移籍後には「100年に一度」といわれたレスター奇跡のプレミアリーグ優勝に貢献。

ワールドカップには3度出場し、日本代表で歴代3位となる(119試合)50ゴールという金字塔を打ち立てた。

長友佑都

サッカー界にドラフトがあったら「下位指名」…そこから“名球会クラス”になった日本代表レジェンド3名
サッカー界にドラフトがあったら「下位指名」…そこから“名球会クラス”になった日本代表レジェンド3名

日本代表:142試合4得点(2008~)

愛媛の母子家庭に育った彼は、強豪・東福岡高校に進学したものの全国的には無名。スポーツ推薦を得られず、進学先である明治大学には指定校推薦で入学した。

入学後も、持病の椎間板ヘルニアを再発させスタンドで仲間を見守る日々。その時期に応援団として太鼓を叩いており、それが後年になって広く取り上げられた。

その後、ケガをした時期に体幹を鍛えたことで急成長。大学卒業を待たずしてFC東京入りし、そこから現在にいたるまでのサクセスストーリーが始まった。

ただそうはいっても身長170cm(公称)で技術面にも恵まれなかったため、もしドラフトがあったとしても上位指名されなかった可能性は十分にあるだろう。

中澤佑二

サッカー界にドラフトがあったら「下位指名」…そこから“名球会クラス”になった日本代表レジェンド3名
サッカー界にドラフトがあったら「下位指名」…そこから“名球会クラス”になった日本代表レジェンド3名

日本代表:110試合17得点(1999-2010)

丸20年間Jリーグの第一線で活躍した鉄人DFで、ボンバーヘッドの愛称で親しまれた元日本代表のキャプテン。

サッカーを始めたのが小6と遅く、高校卒業まで全くの無名。ただプロ入りへの野心はすさまじく、卒業後にはブラジルのサッカークラブに留学してチャンスをうかがった。

この時一緒にプレーしたのが後のブラジル代表MFジウベルト・シウヴァである。

その後、帰国してもオファーは届かず。しかしヴェルディ川崎(当時)ユースとの練習試合で後の代名詞となる頭で得点すると、それが評価されて練習生として契約。

給料は支払われない状態だったがそこからプロ契約を勝ち取り、後の伝説的な活躍へとつなげた。

もしドラフトがあっても彼は下位指名も難しいはず。かつて存在した「ドラフト外」からの成功者といえるだろう。

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