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川谷絵音のエッセイ連載「持っている人」/第2回「労働過多になったカメラ」

  • 2024.10.24

撮影でオーストラリアに行くことになった。indigo la EndというバンドのMUSIC VIDEO撮影だ。滞在時間は24時間というハードな行程だった。前日に岩手で礼賛のフェス出演があり、朝から新幹線で岩手に向かった。ライブ後ステージからはけながら衣装を脱ぎ、そのままタクシーに乗り込み、新幹線で東京へ。そこから羽田に向かい、19:30発のJALに乗り込んだ。ここから約10時間のフライトだ。到着したらそのまま撮影に入るので、飛行機内で寝ておく必要があった。ここまでで相当疲れていたので、機内食を食べたらすぐ眠れるだろう。機内食を食べ終わったのが21:30頃。今から寝れば7時間は眠れる。十分だ。歯磨きを終え、席を倒し、コンタクトを外して鼻呼吸テープを口に貼り、目を閉じた。深呼吸をして睡眠を導入する。完璧だ。マスタープランだ。

なのにおかしい、全然眠れる気がしない。

脱力して飛行機の小刻みな揺れに身を任せてみる。あなたの動きには逆らいません。だから眠らせてください。隣の席からは、よほど感動する映画でも見ているのか嗚咽の音が鳴り響いている。何の映画ですか、教えてください。いや、眠らせてください。

多分今日は寝れない。そう悟った僕は、目を閉じて横になるだけでも疲労は回復するという眉唾物の情報を信じることにした。気流によってたまに事故かと思うレベルで揺れたりする時だけ目を開けた。それ以外はじっとすることしかできなかった。隣の席からは嗚咽ではなくイビキが鳴り始め、機内全体が睡眠の空気に包み込まれた。深夜2時になっていた。いかに無になろうとも、神に懺悔しようとも、眠りの許しは出なかった。目を閉じた時に瞼の裏に見える赤や緑の点々を数えるうちに眠くなるなんてこともなかった。そもそもあの点々は何なんだろう。そんなことを考え始めてますます眠れなくなった。嗚咽するほどの映画でも観てやろうか、そう思った瞬間もあったが、まだ一縷の望みにかけていた。ここで起きては負けだ。今までの努力が無駄になる。

もう5時を過ぎていた。明かりが灯り、朝食が配られ始めたが、僕はそれを拒否し、目を閉じ、無になり続けた。フライト中の記憶がほとんどない。もしかしたら寝ていたんじゃないかとさえ思った。それくらい何もしなかったし、極力何も考えなかった。そしていよいよ眠れないまま着陸態勢に入った。倒していた席は戻し、コンタクトをつけた。ついに一度も眠れなかった。僕はオーストラリアの空でバキバキの目を開け、これから始まる長い撮影を想像し、絶望していた。やってしまった。

着陸の音は僕に現実を突きつけた。何故かたくさんのコアラに取り囲まれ、彼らは木に登ったまま僕を嘲笑っている。そんな映像が頭に映し出された。おまけに到着すると、何かの機材トラブルがあったようで飛行機から降りることが出来なかった。1時間は機内にいたと思う。そしてこの1時間が何より長かった。目を閉じて寝ようとしている時には感じなかった眠気が今になって到来し、すぐ降りるからと思い、その眠気とずっと戦っていた。この攻防で疲労度は増え、降りた後の入国審査の列の長さでさらに疲れは増した。ようやく税関を通過した頃には着陸から2時間近くが経過していた。結局一睡もしないまま現地のコーディネーターさんと撮影場所に向かい、メイクをして衣装に着替えた。この時には眠気のピークを超え、意外と元気だった。

オーストラリアは快晴で、コアラは見当たらなかったが、街の景色は最高だし空気も心地良かった。撮影自体は少し変わっていて、日中はアヒルを散歩させたりアヒルと戯れるシーンがメイン。アヒルの名前はフレデリックで、みんなフレッドと呼んでいた。フレッドは基本的に言うことを聞いてくれず、ダックハンドラーのアリサの言うことすらも聞いていなかった。フレッドの予測不能な行動に振り回され、みんながフレッドのご機嫌を取ることに躍起になっていた。コアラではなくアヒルに嘲笑われることになるとは思いもしなかった。それでもフレッドは愛嬌があり、なんだかんだ可愛らしかった。観光客の人も現地の人も興味津々で、フレッドの周りには常に人だかりができていた。夕暮れのフレッドとのラストカットを撮っている時には、僕もかなりフレッドのことが好きになっていた。正直、名残惜しさを感じていたが、フレッドは早く帰りたそうだったし、何よりアリサの方が早く帰りたがっていた。

フレッドとアリサが帰った後も撮影は続き、夜のラストシーン撮影になったところで、何やら現地プロデューサーが撮影チームに時計を見せながら話している。時間が押しているんだろう。日本が多分変なだけだが、押さないMV撮影はほぼ無いし、基本的に終わるのは深夜になる。ブラックな労働環境であることは間違いない。しかし、海外は労働時間をしっかり守っている。夜になったあたりから、スタッフが1人ずつ帰っていることにも気付いていた。そして大事なシーンを前にしてとうとう僕のメイク担当のトレイシーが帰っていった。自分で勘で髪を直し、撮影を続けた。ラストシーンの前には撮影用カメラまで返却時間を過ぎ、労働過多になったカメラは没収された。そこからは日本から持ってきていた小型のカメラに切り替え、なんとか撮影を終えた。気づけば時間に追われ、結果眠気を感じる暇もなかった。

撮影スタッフと打ち上げで何故かイタリアンに行き、イタリアの料理をたくさん食べ、イタリアのワインを飲んだ。コアラには会わなかったし、オージービーフも食べなかった。ちなみに撮影スタッフは前日前乗りし、タイ料理を食べていたらしい。なんでだ。

打ち上げ後はシャワーを浴びてすぐに就寝し(気絶したレベルで早く寝た)、早朝に起きて空港に向かった。そういえばまだ野生のコアラを見てないなと思い、現地のコーディネーターさんにコアラはどこで見れますか?と聞いたら「動物園にいますよ」と言われた。オーストラリアにも野生のコアラは一部のところにしかいないらしい。アホみたいな質問をしたんだなと思った。当たり前にその辺にいると思ってました、すみません。コアラのぬいぐるみがたくさん売っている空港に着き、朝8:15発のJALに乗り込んだ。帰りは驚くほど眠れた。行きの苦しみは何だったんだ。行きに映画鑑賞をしなかったことを後悔していたので、着く3時間前くらいにしっかり目覚め、映画を1本見ようと思い立った。何を見ようか死ぬほど悩み、悩んでる間にまた眠ってしまっていた。なんでこんなに寝れるんだ。次に気付いた時には着陸1時間前だった。急いで国際線でしかまだ観られなさそうな「バービー」を選んだ。40分くらいしか見れなかったし、面白くなりそうなところで日本に着いてしまった。いつか配信されたら見ようと心に決めた。

羽田からそのままスタジオに移動し、夜までゲスの極み乙女のリハーサルをやった。長い3日間がようやく終わった。帰ってネットフリックスをつけたらバービーは普通に配信されていた。なんだよ。

追記:完成したMVを見たらメイクのトレイシーが帰った後の僕の前髪は綺麗に割れてしまっていた。

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