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三上大進さん「人との違いは『埋めるべき穴』ではなかった」 パラリンピック取材で変わった左手の障害への思い

  • 2024.10.23

平昌、東京の2大会でパラリンピックのリポーターを務め、現在はスキンケア研究家として活躍する三上大進さん。初の著書『ひだりポケットの三日月』(講談社)では、生まれつき左手の指が2本という障害のこと、自身のセクシュアリティーについて綴っています。パラアスリートたちへの取材を通じて気づいたこと、厳しく優しく育ててくれたお母さんへの思いなどを聞きました。

「ない」ものを補うより「ある」ものを輝かせて

――化粧品メーカーを退職し、2018年に平昌大会でNHKのリポーターを務めました。実際に目の当たりにした、パラリンピックの光景はいかがでしたか?

三上大進さん(以下、三上): アスリートたちの人並み外れたパフォーマンスに、とにかく大興奮でした。両足に義足をしている選手がスノーボードで高い山から滑走してきて、鮮やかにジャンプするんです。どうすればあんなことができるの?と、そのカッコいい姿に衝撃を受けました。

パラリンピックは、それぞれ異なる障害を抱えている選手たちが活躍します。障害があるという前提からスタートして、自分たちに残されたものを最大限に生かし、トップを目指す。そんな選手一人ひとりの人生にドラマを感じて、惹きつけられたのですよね。取材を通じて、私自身への見方や捉え方も変わっていきました。

©講談社

――どのように考えが変わっていったのですか?

三上: もともと私の左手の指は2本。物心ついたときから男性が好き。初恋の人はタキシード仮面! 「体の違い」と「性の違い」の二つを抱えてきました。この「違い」でできた穴を何かで埋めなければいけない、他人よりも評価できる面をつくらなければ自分を許せない。そんな意識が、ずっとあったような気がします。勉強を頑張っていい成績を取ったり、いい会社に就職したりと、スタンプラリーのように一つずつクリアしていくことでしか自分を評価できなくなっていました。

でも、パラアスリートたちは、障害の穴埋めとして競技をするわけではなく、たとえば手に障害を持つ人は、体幹や足を重点的に鍛えて強靭な体をつくり、競技に臨んでいます。もちろん義足や義手といったアイテムも使うのだけど、自分に「ない」ものを補うことよりも「ある」ものを輝かせることによって、高い壁を乗り越えようとしていたんです。

そんなアスリートたちを見て、全然完璧じゃない今の自分が、「完璧」なのだなと思えるようになりました。足りないものを穴埋めすることに一生懸命に生きるより、今あるもの、持っている魅力を磨いていくほうが、きっと充実した一生を送れるのかなって。

――書籍には、取材以外の時間にアスリートと障害について語り合ったことも書かれていますね。

三上: 私と同じように片方の手に障害がある選手と「片手でフライパンを振りながら、もう片方の手で炒めるのって、めちゃくちゃ大変!」なんて話したこともありました。私一人がしんどさを背負っていたつもりだったけど、そんなことはなかった。障害を言い訳にするのって簡単ですが、超人的なパフォーマンスをしている人もいると思うと、それを言い訳に自分を“悲劇のヒロイン”にしてはいけないな、とそのとき思いましたね。

パラアスリートはみんな、「不利な状況」が得意なんです。今ある環境でどう工夫しよう?と考える癖がついている。パラリンピックの取材の経験を通じて、私も、「指が3本ない」のではなく「2本ある」と発想を変えることができた。今あるもの、自分が持っているものをどう活かして生きていこう、と自分のあり方が変わりました。

©講談社

「おてて、いつ、生えてくる?」 母に聞いた日

――三上さんが手の「違い」に気づいたのは、いつ頃でしたか?

三上: 幼稚園の年中の頃です。みんなとは手の形も、指の本数も違う。そのとき母から「年長さんになったら、生えてくるかな」と言われていたんです。私は素直に「そっか、人には人の、指が生えるタイミングというものがあるんだ」と思っていました。どうやって生えてくるんだろう。生えてくるときは痛いのかな?と心配していましたね。

でも、年長になっても生えてこない。「おてて、いつ、生えてくる?」ともう一度母に聞いたとき、返ってきた反応で、ああ、大ちゃん(三上さん)はずっと人とは違う体なんだな、とその時はじめて理解しました。

――お母様はそのとき、どんな反応をされたのですか。

三上: 目に涙をいっぱい溜めて、唇をギュッと噛み締め、私に「ごめんね。大ちゃんの指は、生えてこないの。全部お母さんが悪いの」と謝っていました。母は怒るとき、唇をギュッと噛む癖があったのですが、そのときの母の表情を見て「ああ、これは怒っているんじゃない。悲しんでいるんだ」と。

自分の悲しみよりも、母の悲しみのほうが深いことが、子ども心にわかりました。どうすれば母が悲しまずにすむのだろうと考えるようになって、左手が人と違っていることで悩んだり苦しんだりしていることを、家族にだけは知られないようにしようと思いました。

――書籍ではお母様のしつけについても綴られています。言葉遣いや挨拶、食べ方など、礼儀作法については敏感だったそうですね。

三上: はい。おそらく左手の違いで私が不利にならないように、一般的な礼儀作法は身につけさせたかったのだと思います。

私が生まれたとき、母は、病院の先生方やスタッフの方が自分を気遣っている、気の毒で目も合わせられない、といった雰囲気を感じたそうです。本来なら人生で一番「おめでとう」と言ってもらえるはずの日。母にはそれがすごくショックだったのかもしれません。左手のことで私がそんな風に腫れ物のように扱われることがないように、育てたかったのだそうです。

でも、最近母と話していたら「あの頃は、この子が困らないように、普通でいられるようにとばかり必死になって、すごく厳しくしてしまった。本当は『違い』は違いのままで素晴らしいはずなのに」と言われたんです。「30年前の自分にひと言かけてあげられるなら、当時とは違うやり方があったのかもしれない」って。私としては、そのおかげで今の私があると感謝しているんですけどね。

©講談社

手術跡が残る左手に、化粧水の残りを塗った

――現在はスキンケア研究家として、ご自身のスキンケアブランドをプロデュースするなど活躍しています。美容に目覚めたきっかけは?

三上: スキンケアを始めたきっかけは、中学時代に恋をしたから! でも左手の違いに加えて、相手は男性、しかも学校中の人気者でライバルの女子も多く「私、スタートラインにも立てていない」と自信はゼロ……。そんなとき、電車の車窓に反射した自分の顔が、ひどく肌荒れしていることに気づき、「こんな顔で彼に会っていたんだ」って思って。ドラッグストアに駆け込んで1本の化粧水を購入しました。それが、美容の道に進むきっかけでした。

ちゃんと手をかければ、肌はきれいになっていく。その積み重ねが、たしかな自信になっていきます。一方で、9歳のときに移植手術した左手には、手術の跡が生々しく残り、爪も生えない状態。左手のことはどんどん見ないようにとケアから遠のいてしまい、ポケットにしまったままに。

でも、化粧水のボトルを開けるのにも左手は必要で、おのずと目に入ります。あるとき「顔のスキンケアばかり頑張っているけれど、この左手も含めて自分なんだよな」と思い、顔につけた化粧水の残りを左手にちょっとだけ塗ってみた。残りを塗るだけ、保湿するだけ……の積み重ねでも、10年くらい経ったらだいぶ左手が綺麗になったんです。そして左手の爪が、なだらかに育つようになりました。

今も手術の跡は完全には消えていないのですが、それでも毎日ケアした結果が今だと思うと、愛おしく感じます。ポケットから手を出して、前向きに歩いていこうと思えるようになったのも、日々の積み重ねがあったからこそかもしれませんね。

■塚田智恵美のプロフィール
ライター・編集者。1988年、神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業後ベネッセコーポレーションに入社し、編集者として勤務。2016年フリーランスに。雑誌やWEB、書籍で取材・執筆を手がける他に、子ども向けの教育コンテンツ企画・編集も行う。文京区在住。お酒と料理が好き。

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