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運動会で足の遅さを「見えない化」する配慮は子供のためにならない…「競争の場が減りすぎた」日本の大問題

  • 2024.10.21

近年、学校で多く取り入れられているタイム順(同じくらいのタイムの子たちで走る)の徒競走は子どものためになっているのか。スクールカウンセラーの藪下遊さんは「足の速い子どもは『自分は足が速い』という自己規定を持ちにくくなり、足の遅い子どもが『自分は走るのが苦手』という現実に触れる体験が薄まる。子どもたちが生きていくうえで、『自分はどんな人間なのか』を認識できるように現実を提示することは大切であり、比較や競争を取り除くことがよいとは言えない」という――。

運動会で見られる「配慮」

学校で働いていて、徒競走で「みんなで並んでゴールする」というのは流石に見たことはありませんが、教員がけっこう気を遣っていろいろ工夫しているのは目にしています。以下の事例は、最近の学校でよく見られる「配慮」になります。

【事例】
小学校2年生の女子児童。体育で50m走をしたがタイムの公表はされないため、自分も含め同級生の足の速さはよくわかっていない。女子児童のタイムはかなり上位だったが、運動会の徒競走では「足が速いグループ」で走ることになり6人中5位になった。

足の速い子と遅い子を一緒に走らせると、大きな差がついてしまうので、事例のように足の速さが同じくらいの子ども同士で走らせる……というのは最近の運動会でよく見られる「配慮」です。こうした「配慮」をしておかないと、さまざまな意見が学校に寄せられるという話も耳にします。

ストップウォッチを持つ手元
※写真はイメージです
「配慮」によって失われる体験

ただ、この「配慮」によって、失われる体験もあります。例えば、体育の50m走でタイムが公表されないのは、互いの差を明示しないという「配慮」であったと思われますが、「自分は足が速い(遅い)」というのは自己イメージを構成する要素の一つでもあります。大袈裟なように感じるかもしれませんが、「○○ができる」「△△が苦手」といった情報は、子どもたちが「自分はどんな人間なのか」を創り上げていくのに資するものですから、子どもたちが認識できるように提示することが大切です。

また、運動会の徒競走で「足が速いグループ」と「足が遅いグループ」に分けることで、確かに誰の目から見ても明らかなほどの「差」が示されることは無くなります。一方で、足の速い子どもからすると「自分は足が速いんだ」という自己規定を持ちにくくなり(事実、この事例では足が速い自覚が薄いうえに低い順位になっている)、足の遅い子どもが「自分は走るのが苦手なんだ」という現実に触れる体験が薄まることになります。

もしかすると、誰の目からも明らかな「差」を見せること、不快な感情を引き起こす「現実」に触れることが「可哀想だ」という意見を持つ人もいるかもしれません。しかし、それは子どもを弱い存在と考えすぎです。子どもたちは確かな支えがあれば、自分の現実に向き合い、それを受け容れていく力を備えているのです。

成長に寄与する比較や競争

子どもたちは、家族のなかでは「自分が自分である」というだけで認められます。ところが、思春期の集団になると何かしらの特徴を通して、集団内の立ち位置を築いていきます。例えば、勉強ができる、足が速い、歌が上手、絵がうまいなど、そういう特徴が子どもの立ち位置として機能します。

ここで生じるのが比較や競争であり、精神科医の成田善弘先生は、思春期の子どもたちに周囲の大人がすべきこととして「比較や競争の場をなるべく増やすこと」を挙げています。比較や競争の場が少なすぎる場合(受験勉強だけ厳しい、運動しか比較する場がない等)、そこでの比較・競争に負けてしまうと、非常に傷つきが深くなってしまいます。

だからこそ、比較や競争の場を無数に提示すること、例えば、単に「走る」という一つとっても「50m/80m/100m/300m/1.5km/3km」などで子どもの特徴を見ていくことが大切になります。短距離が苦手でも、長距離なら輝ける子もいます。また、教科外の活動によって、通常の学校現場では見られない子どもの特徴が明らかになることもあります(やけにメモを取るのが上手な子ども、普段はおとなしいが音読に情緒を乗せるのが上手な子ども、さりげなく他の子をサポートするのが上手な子どもなど)。

こうした無数の場面から、大人たちが子どもの特徴を掴み、フィードバックすることで、子どもたちは「あれはダメだったけど、こっちはできる」という認識を持つことができます。ダメなことだけが提示されると傷つきが深くなりますが、無数の比較・競争の場があることで、うまくできない傷つきを支えるような体験(自分がうまくできる体験)も積むことができるのです。

木製ブロックに泣いている顔、真顔、笑顔のプリント
※写真はイメージです
大人が用意すべきは「無風地帯」でなく「安全地帯」

もちろん、比較や競争を通して直面する「現実」は、子どもたちにとって厳しいものもあるでしょう。だからこそ、大人の支えが求められます。「順位が低い子ども」「周囲よりも劣ったところのある子ども」が表に出たとしても、基本的態度を変えず、それまでと同じような日常生活を通して「どんなあなたでも大切だ」というメッセージを送り続けることが大切です。本当の意味で子どもの支えになるのは、大切な人と「ネガティブな自分」を共有し、それでも自分の存在を認められるという体験の積み重ねです。すなわち、大人が子どもに用意すべきなのは、比較や競争の存在しない「無風地帯」ではなく、比較や競争がどんな結果になろうとも自分は受け容れてもらえるという「安全地帯」なのです。

「人と比べなくてもいい」というマインド

あらゆる特徴をもった自分を「大切な存在」として受け容れられることで、子ども自身が「ネガティブな自分」を受け容れやすくなります。「自己受容」という言葉がありますが、この「自己」には、得意なこと、うまくできること、上手であることだけではなく、人よりもうまくできないこと、苦手なこと、下手なことがあるという側面も含まれています。

そういう「ネガティブなところのある自分」も含めて受容することを指して「自己受容」と呼ぶのです。本当に「自信のある人」というのは、「ポジティブな自分」を主張する人のことではなく、こうした「ネガティブな自分」も受け容れている人のことを指します。そして、「ネガティブな自分」も含めた自己受容ができる人に生じるマインドが、「人と比べる必要なんかない」「私は私なんだから」というものです。このマインドに到達するのは、多くの人が20代後半~30代にかけてだろうと思いますが、子どもたちがこれに近づけるような土台・環境を整えていくことが大切になります。

太陽光を浴びて成長している芽
※写真はイメージです
子どもの「比べてしまう」を否定しない

余談ですが、こうした「人と比べる必要なんかない」というマインドに至った親切な大人が陥りやすい落とし穴があります。上記のように、多くの比較や競争を体験し、明らかになった「できる自分」も「できない自分」も大切な他者に共有・受容され、自分自身でも受け容れることができて、ようやく到達できるのが「人と比べる必要なんかない」というマインドです。このような道程を経るからこそ獲得できるマインドなのです。しかし、このマインドに至った親切な大人たちは、さまざまな「配慮」をしてしまいます。例えば、人と比べる必要がないから「比較や競争の場自体を取り除く」という思考に陥ったり、子どもに対して「他者と自分を比較すること」自体を否定してしまうのです。

中学生くらいの子どもたちには、さまざまな発達の変化が訪れます。この変化の一つに、自分を「他者の視点」で捉えられるようになることが挙げられ、客観的評価が紛れもない「現実」として響くようになってきます。このような子どもたちに対して「人と比べなくていいよ」というのは、一見、優しい言葉のように見えますが、子どもたちは意識・無意識を問わず「比べてしまう」かもしれないのです。「比べてしまう」子どもに対して、「比べなくていいよ」という言葉は、時として「比較によって生じた苦しさを共有できない」という関係を生むリスクさえあります。繰り返しになりますが、大切なのは「比較や競争がどんな結果になろうとも自分は受け容れてもらえる」という実感です。

現実を示すことが困難になった学校

ただ、実際の現場ではなかなか子どもに「比較や競争を通じた現実」を示すことが困難になりつつあります。

まず、学校自体がギリギリの人員・時間枠のなかでカリキュラムをこなすのに精一杯というのが正直なところで、先述の「比較や競争の場を無数に作る」ことが可能なほどの余裕がありません。子ども一人ひとりの特徴を掴もうにも、それを掴むための機会を持つこと自体が物理的に難しくなりつつあるのです。また、少子化の影響もあり、受験では定員割れが生じやすくなっており、子どもたちが公的に「比較・競争」の場に身を投じることが減りました。

冒頭で述べた事例のように、学校が子どもに対して「現実」を示すことが減りました。例えば、都道府県によっては中学校の定期試験の点数は示すけど、順位については「本人が聞きに来ないと伝えない」という対応を取っていることもあります。通知表についても、親世代、祖父母世代のそれと比較すると、子どもの気がかりや課題が明示的に書かれることはなくなりました。

かつては学校が子どもに「現実を示す」という役割を担う面が大きく、多くの親は現実によって揺さぶられた子どもを「支える」ことが大切でした。ですが、社会状況の変化が、上記のような学校の変化にまで及んでいます。こうした状況だからこそ、子どもと接する大人はいろいろと工夫する必要が出てきました。カウンセリングの中で私が、親世代に伝えることの多い助言を挙げておきましょう。

機体のピースの下からのぞくのは、「現実」の文字
※写真はイメージです
ネガティブな感情にも共感する

まず、子どもとたくさん関わることが大切です。その際、子どもの「嫌だったこと」に耳を傾けることが、以前にも増して重要になってきています。子どもたちは「楽しかったこと」「できたこと」は積極的に話してくれますが、否定的な出来事やそれに基づく感情は「聞かないと答えない」ということも多いものです。

もちろん、大人が不安に駆られて「嫌なことはないの?」と聞くのではなく、「楽しかったこと」「できたこと」と同じレベルで「嫌だったこと」を聞くことが大切です。そして、その「ネガティブな感情」に共感的に耳を傾けるようにしましょう。

「共感」とは解決を試みようとするのではなく、そのときの感情に対して「それはそう思うよねぇ」「嫌だったね」などのように気持ちを理解しようと努めることを指します。これによって、子どもたちの内側に「苦しさを理解してくれた人のイメージ」が残り、これが次の苦しい体験を支える力になってくれます。つまり、「共感」は子どもが本当の意味で自立するために必要な大人の態度なのです。誰かに支えられながら、誰かに支えられたイメージを抱えながら生きていくことが「自立」なんですね。

うまくできないところがあっても生きていける

また、子どもの「ネガティブなところ」に触れられる関係を大切にしましょう。例えば、小学校低学年では宿題のチェックを求められます。これを、学力を身につけさせるためと考えるのではなく、子どもがどこを間違えるとか、苦手な科目は何かといった「子どものうまくできないところ」も話題にする良い機会と捉えておきましょう。もちろん、子どもの苦手なところについて叱る必要は全くありません。むしろ、親自身も「お母さん(お父さん)も、これが苦手だったなぁ」のように、親のできないこと、失敗したことを積極的に伝えて、「うまくできないところがあっても生きていける」という姿を見せてあげることが大切です。

そうすることで、子どもが自らの失敗やうまくできないことを話しやすい関係が生じるようになります。これは親だけでなく、学校の先生方にも実践してほしい工夫の一つです。大人が子どもに向けて語るのは「武勇伝」ではなく、「失敗談」である方が好ましいのです。

女の子の隣に座り、話しかけている母親
※写真はイメージです
子どもたちが現実に向き合えるような工夫を

そして、家庭では「家族みんなの事情を考慮した枠組み」を大切にしましょう。「子どもは親の言うことを聞いとけばいいんだ」ではなく、「全部子どもの言う通りにしてあげる」でもなく、みんなの事情を考慮した枠組みに協力するという考え方を伝えるのです。例えば、家族で外食に行くときに、いつも子どもの行きたいお店にばかり行くのではなく、父親や母親の希望するお店に行くこともあって良いのです(もちろん、親の行きたいところにだけ行くのは違う)。

この「現実」に対して子どもは不満を漏らすでしょうが、「家族なんだから、お互いの希望を叶え合おう」と伝えていくことが大切です。そして、子どもの思い通りではないお店に行き、その中でも「食べたい物」を選択することは、自分の思いからズレた「現実」にあっても生きていく練習になります。もちろん、家族みんなの事情を考慮した枠組み(ここでは、他の家族成員が希望したお店に行くこと)に協力してくれたことに対して、子どもに「ありがとう」と感謝を伝えることを忘れてはいけません。この感謝が、家族成員間で向き合えるものになると良いでしょう。

上記のような関わりによって、子どもに対して「現実」を示しながら「支える」という状況が生じやすくなります。こうした日常的・没個性的(=誰でも実践しやすい)・常識的な関わりを粘り強く続けることが、子どもたちが自身の現実に向き合い、成長・成熟を促すことになるのです。社会の変化が著しい時代になり、子どもと関わる大人世代には粘り強さと工夫が求められるようになりました。もちろん、そんな大人同士で支え合うコミュニケーションが増えることも大切ですから、多くの人と協力・連携しながら子どもと関わっていくようにしましょう。

※参考文献・引用文献
成田善弘(2024)『成田善弘 心理療法を語る 「まっすぐに」患者と向き合う』金剛出版

藪下 遊(やぶした・ゆう)
スクールカウンセラー
1982年生まれ。仁愛大学大学院人間学研究科修了。東亜大学大学院総合学術研究科中退。博士(臨床心理学)。仁愛大学人間学部助手、東亜大学大学院人間学研究科准教授等を経て、現在は福井県スクールカウンセラーおよび石川県スクールカウンセラー、各市でのいじめ第三者委員会等を務める。共著に『「叱らない」が子どもを苦しめる』(ちくまプリマ―新書)がある。

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