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「パティスリー サダハル アオキ パリ」フランスと日本を代表する人気パティシエ 青木定治

  • 2024.10.21
青木定治
青木定治

新たにスタートした新連載「海外で活躍する日本人」では、世界をステージにさまざまな分野で活躍する日本人たちの物語を紹介していく。
第一回は、現在、世界で最も注目されているパティシエの一人である「パティスリー・サダハル・アオキ・パリ」の青木定治である。

 

フランスと日本を代表する日本人パティシエと呼ばれるまで

 

 

言葉もできず、就労ビザもない青木氏がフランス菓子を学ぶために単身パリへ渡ったのは19歳の時。雇われパティシエとしていくつものパティスリーやレストランを渡り歩き、フランス菓子を外国人に作れるのか? そんな言葉がある中で、強豪ひしめくパリ6区サンジェルマンに2001年に念願の店舗「パティスリー・サダハル・アオキ・パリ」をオープンさせ、2007年には世界最高の菓子職人の組織「ルレ・デセール」のフランスメンバーとなるなど、世界的な賞を次々と総なめにして、「サダハル アオキ」の名前は世界的なものになった。

現在はパリに4店舗、日本に9店舗ある「パティスリー・サダハル・アオキ・パリ」。
現在はパリに5店舗、日本に9店舗ある「パティスリー・サダハル・アオキ・パリ」。

モトクロスバイク少年が、パティシエを目指してフランスへ渡る

 

 

「10代の頃はバイクが大好きでモトクロスバイクの全日本ジュニアの選手として、日々バイクにまたがり、バイクの整備をして過ごしていました。料理やお菓子は子供の頃から好きでよく作っていたので、漠然と調理人にでもなろうかな?そんな感じでしたね」。

バイクレースの遠征時には炊き出しを担当していたと言う青木氏。当時を振り返り、自分が作った食事を美味しそうに食べる仲間を見た時、言い知れぬ喜びを感じたとも語る。

料理上手の青木氏に調理師学校へ進学するように勧めたのはバイク仲間だった。その言葉を受けて、夜間、バイク練習場の近くにある調理師学校に通うようになり、卒業後にはホテルオークラの料理人としての就職も決まっていた。

 

2日前にパリから軽井沢へ。そして軽井沢の仕込みを終えて、朝から丸の内店へ。
2日前にパリから軽井沢へ。そして軽井沢の仕込みを終えて、朝から丸の内店へ。

「入社までに時間があったので、当時青山にあったフランス菓子『シャンドン』でバイトをすることにしたんですが、バイクに乗って現れた私を見て、『お坊ちゃんが務まる仕事じゃねえ』と冷たく言い放たれましたよ」。

当時の青木氏はフランス語ができなかったことから指示されたことができず、先輩にはよく怒られていたと言うが、ここでの経験が今の青木氏の出発点となった。

 

「毎朝、ケーキや焼き菓子の材料を準備するのが仕事だったのですが、容器にはフランス語で材料名が書いてあったので、意味が分からずに強力粉と薄力粉を混ぜちゃったり、とにかくめちゃくちゃな失敗をしていました。でもフランス語が読めないんだから仕方ないよね」と笑い飛ばす。

 

いくら先輩に怒られても、お前なんて辞めちゃえと言われても、決してめげることはなく、そんな環境を逆に楽しむほど、青木氏はバイタリティーにあふれていた。

「当時のお店が古いビルにあったので、水回りのニオイが本当にひどかったんです。昔から手先は器用な方だし、バイク整備で工具の扱いにも慣れていたので、自分で東急ハンズへ行って部品を買って、トイレの配管を直して、すごい感謝されましたよ。それでコイツ使えると思われたのか、いつしか先輩たちに重宝がってかわいがってもらいました」。

 

店頭に立てば、手慣れた手つきで箱を組み立て、接客もする。
店頭に立てば、手慣れた手つきで箱を組み立て、接客もする。

シャンドンで経験を積んだ後、ホテルオークラへの就職を断り、青木氏はフランスへ行くことを決意する。その背景には、青木氏の親族には留学経験者が多くいることや叔母が海外に暮らしていることなどもあるようだが、料理業界に精通する叔母から、フランス菓子をやりたいなら本場のパリへ行きなさい!その言葉が背中を押した。本場で認められてこそ一流になれる、そんな思いもあったようだ。

 

まだ日本ではパティシエという言葉が定着する前の話である。

言葉もできない、就労ビザもないが、トップレストランやパティスリーの門を叩く

 

「言葉はロクにできない、就労ビザもない、何の当てのない渡仏でしたが、もう日本には戻らない!その強い意志だけは持っていました。そして、どうせやるなら一流店のトップシェフ・パティシエの指導を受けなきゃ意味はないと思って、履歴書を送りまくったけれど、そう簡単ではないですね。街の小さなレストランで働いたりする時期もありました」。

当時、フランス菓子はフランス人のもの、外国人にはつくれない、そんな思いを抱く人も少なくなかったようだ。しかしそんな環境にもめげないのが青木氏。いつしか『面白いヤツがいる』とシェフ同士で評判となり、有名レストランやパティスリーに次々と紹介してもらえるようになり力をつけていった。

 

 

その後、1995年にはフランスシャルルプルースト杯味覚部門で優勝、国外のバティスリーイベントに2度ほど参加し受賞をし、パティシエとしての評価も高まっていたが、自身の会社を設立するには思った以上に時間がかかった。

会社設立に必要なフランス政府発行の外国人労働許可証の申請が受理されたのは、渡仏して9年後の1998年のことであった。

日本初出店となった丸の内店。
日本初出店となった丸の内店。

それからは、2001年に初のブティックをパティスリーの激戦区である6区にオープンさせ、その2年後にはパリ二号店を、2005年には丸の内に日本初出店を果たし、まさに順風満帆な活躍を続ける。

 

 

この成長を支えたのは、パリの人々であった。パリでは自分が気に入ったお菓子しか買わない、そんな厳しい目を持つ人々が多い中、サダハル アオキのお菓子が食べたいというリピーターが増え続けたのだ。

それを裏付けるように、2011年フランス3大グルメガイド誌『ビュドロ』のフランス最優秀パティシエ賞、さらに『クラブ・デ・クロクール・ドゥ・ショコラ』の最高位である5タブレットの受賞など、さまざまな賞を手にしていく。

その功績を讃えると、「気が付いたら今があるって感じ。まだまだ」と笑い飛ばす。

普段は饒舌で笑顔あふれる青木氏であるが、ケーキに向き合うとその表情は厳しくなる。
普段は饒舌で笑顔あふれる青木氏であるが、ケーキに向き合うとその表情は厳しくなる。

パティシエとして一流になりたいなら、“面白いヤツ”になれ

 

どこでも誰にでも満面な笑顔で話しかける青木氏のまわりには常に人が集まり、その輪から青木の饒舌なしゃべり声とそれを聞く人たちの笑い声が聞こえてくる。

「日本にいてフランス語が聞こえると話しかけに行っちゃうし、パリで日本語が聞こえても話しかけて友達になっちゃうんだよね」。

 

この陽気さは間違いなく青木の才能の一つである。

「職人なら、パレットナイフを持った瞬間、スーパーマンにならないとウソだよね。国籍や学歴は関係ない世界だし、平均点もいらない。他の人ができない何かを持っていれば、誰もがスーパーマンになれる。コイツ面白い!そう思ってもらえば、それがチャンスだから。だってパリの一流シェフたちはみんな面白いよ」

 

無論、面白いだけで一流にはなれない、そこに個性というさらなる武器が必要だ。

青木氏は絶対に人まねはしない。たとえ研究途中で完成間近なお菓子があっても、他で似たものが発売されると聞いたら、それを世に出すことはしない。

 

 

フランス人が愛して止まない、サダハル アオキのお菓子の魅力

 

 

パリの7区のアパルトマンで3年掛かりで研究開発をして生み出したのは、青木氏の代表作ともいえる『マカロン』である。

10種のフレーバーのマカロンは、今年さらに10種が加わった。 \4,406(10個入)
10種のフレーバーのマカロンは、今年さらに10種が加わった。 ¥4,406(10個入)
カラフルな色が印象的なボンボンショコラ。\6,048(12個入)
カラフルな色が印象的なボンボンショコラ。¥6,048(12個入)

マカロンの中には、青木氏を語る上で欠かせない『マッチャ』味がある。今年はさらに『ゲンマイチャ』『ユズ』など、日本の食材が加わっている。

 

「パティスリー・サダハル・アオキ・パリで『マッチャ』という名前でお菓子に使ったのは、たぶん30年くらい前だと思います。それまでにもグリーンティやテ・ヴェールと言う名前で日本茶は使われていたのかもしれませんが、日本人にとって緑茶と抹茶は別もの。私は、フランス人に正しく日本の食材を知って欲しいという想いから、日本食材は日本名で使っています」。

 

 

他にも『あんこ』『ほうじ茶』『わさび』など、日本食材をフランス菓子に見事に融合させ、日本人はもちろん、フランス人にもヒットさせている。これができるのは、両国の味覚を熟知し、その文化や風習が青木氏の体にしみ込んでいるからこそできることだ。

食材を知り、食材をより楽しむ。そのためには労を惜しまない

 

 

青木氏の素材へのこだわりは年々強くなっている。

 

エシレ村産バター、イタリアピエモンテ州の栗、南米ベネズエラのカカオ、愛知県西尾市の抹茶など、直接現地に出向き、その素材や作り手を知り、直接現地から仕入れを行っている。

店頭に並ぶお菓子は食材一つひとつから青木氏が選び、それらを最大限に生かす青木の技が加わり、ここでしか味わえないお菓子が生み出されている。

 

だからこそ決して安くはないが、食してみると、その意味やこだわりがわかるはずだ。

 

青木氏は誰よりも動き、気配りをして、自らの背で後輩を育成している。
青木氏は誰よりも動き、気配りをして、自らの背で後輩を育成している。

パティスリー・サダハル・アオキ・パリの人気商品にクロワッサンがある。

 

「クロワッサンやミルフィーユの生地はパリと日本分をパリで作って、日本用の生地だけ冷凍して空輸をしています。もちろん日本で生地を作ることもできますが、フランスのバターは一度しか冷凍できないという法律があるので、パリで生地作りまでしています。パリのお店には、まだ指が入るくらい柔らかいバターがエシレ村から届きます。そのバターを使って、日本用とパリ用のクロワッサンやミルフィーユの生地を作るんです。日本ではその生地を発酵、成形して焼き上げています」。

 

だからこそ、あの豊かな香りと風味あふれるクロワッサンになるのかと納得できる。

 

ジモティーになる!プライドを捨てて、その街に馴染む

 

 

現在、日本とパリを2週間おきに行き来する生活を送り、毎日どこにいても新作のことを考えている。もちろん店頭に並ぶケーキを毎日作り続けている。時間があれば店頭にも顔を出す。店頭に並ぶお菓子の箱にサインをしたり、お客様へは自らお菓子の説明をして、要望があれば写真撮影にも応じている。とにかく一日動き回って、しゃべりまくっているのだ。

「このインタビューが終わったら、そこのビックカメラへ行って、厨房の電球を代えないと」。まさに青木氏は気配り心配りの人でもある。

最後に今後海外で働く、もしくは起業を考えている人へのメッセージを聞いた。

「まず海外に出る前にやって欲しいことは自分の国(日本)の文化や歴史を学び、自国を愛して欲しい。自国を知ることが、他国を敬い、理解することに繋がると思うからです。そしてプライドは日本に置いていって欲しいですね。海外で頑張るのなら、その国の人間、つまりはジモティーになるつもりでトライすべきだから。日本は本当に素晴らしい国、それは間違いないですよ」と、満面の笑顔で言葉を選びながら話してくれた。

 

Photography by Hidehiro Yamada

 

 

 

 

青木定治 Sadaharu Aoki

 

1968年愛知県名古屋生まれ。青山「シャンドン」を経て、89年単身パリへ。「ジャン・ミエ」、「レストラン メディテラネ」、スイス「レストラン ジェラルデ」でキャリアを重ね、 95年、フランスのシャルルプルースト杯味覚部門で優勝。98年、パリにアトリエ開設。2001年パリ6区サンジェルマンに念願の店舗「パティスリー・サダハル・アオキ・パリ」を開店。

03年にはパリ5区に2号店を開店。08年にはパリ15区に3店目を開店。07年、世界最高の菓子職人の組織「ルレ・デセール」のフランスメンバーとなる。11年にはフランス最優秀パティシエに選出、農林水産省料理マスターズ受賞、サロンデュショコラアワード受賞、パリ市庁賞と次々に受賞。フランストップ5ショコラティエに選出される。18年、サロンデュショコラ内の品評会において5度目の最高位「LES INCONTOURNABLES」(14年より新たに設けられた、「アワード」より上位のショコラティエに与えられる最高位)を受賞。これにより5年連続の最高位、8年連続の高評価獲得となる。

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