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寵愛した僧侶を天皇にしようとした本当の理由…称徳天皇が示す血統にこだわらない皇位継承という可能性

  • 2024.10.19

女性・女系天皇の是非をめぐる今日の議論において、無視できない史実とは何か。宗教学者の島田裕巳さんは「寵愛する道鏡を皇位につかせようとした孝謙・称徳天皇の意図を探ることで、皇位継承の本質を問い直すことができる」という――。

史実上無視できない女性の天皇

愛子内親王の初の単独公務が行われた。佐賀での国民スポーツ大会を観覧し、その地方の視察を行うためである。9月には、地震で被害を受けた能登を訪問する予定になっていたが、大雨により、それは取り止めになっていた。

皇后両陛下の長女愛子さま
佐賀県を訪問され、集まった人たちに手を振る天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=2024年10月11日午前、佐賀市(代表撮影)

愛子内親王が天皇に即位することを待望する小林よしのり『愛子天皇論2 ゴーマニズム宣言SPECIAL』(扶桑社)も同時期に刊行され、愛子内親王にふたたび注目が集まっている。小林氏の主張は、女性天皇や女系天皇を認めない男系固執派には、男尊女卑の思想が強くあるというものである。

女性・女系天皇の是非をめぐる議論を展開する上で、無視できない女性の天皇がいる。それが孝謙・称徳天皇である。

孝謙・称徳と二つの天皇名があるのは、この天皇が「重祚ちょうそ」しているからである。一度譲位し、ふたたび天皇の位についたのだ。重祚した例は、歴史上はほかに皇極・斉明天皇しかいない。皇極・斉明天皇も女帝である。

重祚したところにも、孝謙・称徳天皇の重要性が示されている。『愛子天皇論2』の巻末におさめられた「天皇系図」では、孝謙・称徳天皇が「女性初の“皇太子”になった」と注記されている。女性初というと、ほかにも女性の皇太子がいたようにも思えるが、孝謙・称徳天皇以外に皇太子になった女性はいない。唯一の女性皇太子だったのである。

天皇と道鏡の同衾説

皇太子に就任したのは、そのときの天皇が認めたということである。孝謙・称徳天皇を皇太子にしたのは父親である聖武天皇だった。聖武天皇は、自らの娘に皇位を継ぐ資格があると考えたからこそ、それを選択したのである。

ところが、孝謙・称徳天皇に対するその後の評価は決して芳しいものではない。その最大の要因は、彼女が僧侶である道鏡を寵愛し、それゆえに道鏡を天皇の位につかせようとしたところにある。

寵愛ということばには、とくに深く愛し、優遇するという意味があるが、目上が目下に対して特別の愛情を注ぐというニュアンスがある。したがって、天皇に関連して、「帝のご寵愛」という表現がある。

また、「寵愛昂じて尼にする」という用例があり、こちらは、寵愛の対象は娘になる。したがって、孝謙・称徳天皇が道鏡を寵愛したとしても、必ずしもそこに性の関係があったとは限られない。だが、後世において天皇と道鏡は同衾どうきんしたという説が広くとなえられてきた。

さらに、道鏡には巨根伝説がある。それに対応する形で、孝謙・称徳天皇には広陰説まである。両者のあいだには淫らな関係があり、だからこそ孝謙・称徳天皇は、皇位継承の伝統を無視して、道鏡を皇位につかせようとしたというのである。

女性・女系天皇が否定される要因

果たしてそんなことがあったのだろうか。

孝謙・称徳天皇と道鏡の野望は、和気清麻呂が宇佐神宮から、「臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣あまつひつぎは必ず皇緒を立てよ」という八幡神の託宣をもたらしたことで潰えたともされる。臣下を天皇の位に就かせることは伝統にはないことで、必ず、天皇の系譜に属する者を即位させなければならないというのだ。

仮に、孝謙・称徳天皇と道鏡のあいだにただならぬ関係があったとしても、両者の間に子どもがいたわけではない。孝謙・称徳天皇は、生涯にわたって子をもうけてはいない。

孝謙天皇の肖像画
孝謙天皇の肖像画(写真=三宅幸太郎『歴代尊影』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

したがって、道鏡が皇位に就いたとしても、さらにその跡を継ぐ者がいないわけで、孝謙・称徳天皇の試みは、皇位継承という観点からは矛盾している。それは、寵愛が深かったからだと解釈されてきた。

孝謙・称徳天皇がこのようにとらえられてきたことは、女性・女系天皇が否定される一つの要因になってきた。

しかし、孝謙・称徳天皇の真意がどこにあったのか、これまでその点については真剣に議論されてこなかったように思われる。

世紀の女帝を理解するポイント

今年4月には寺西貞弘『道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実』(ちくま新書)が刊行され、道鏡に改めて関心が集まった。著者は、道鏡が孝謙・称徳天皇によって太政大臣禅師や法王という高い地位を与えられたことについて、官僚の最高位である太政大臣とされていても、政治にいっさいかかわることなく、たんに天皇の仏道修行を指導する立場にあっただけだと解釈している。

ただこれは、道鏡の存在を軽視するものであり、さらには孝謙・称徳天皇が道鏡を皇位につかせることで何を意図したのか、それを無視する議論であるように思われる。

というのも、『道鏡』の本では参考文献として活用されていないのだが、2014年に刊行された東京女子大学名誉教授の勝浦令子『孝謙・称徳天皇 出家しても政を行ふに豈障らず』(ミネルヴァ日本評伝選)という評伝では、常識的な理解とはまったく異なる孝謙・称徳天皇の構想が詳細に論じられているからである。私もこの評伝を読んで、認識を新たにした。

一つ重要なポイントは、孝謙・称徳天皇の父が聖武天皇で、母が光明皇后であったことにある。

仏教信仰につながる父母の系譜

聖武天皇は、東大寺に大仏を建立する事業を率先して進めたことで知られるように、仏教に対するあつい信仰をもっていた。大仏を建立した目的も、国家鎮護にあった。大仏をたて、それを信仰することで、国を安泰にしようと試みたのだ。こうした考え方は、現代の人間には理解しにくいものだが、古代から中世にかけて、神仏の力は絶大だと社会全体で考えられていた。

一方の光明皇后は、藤原不比等ふひとと県犬養橘三千代あがたのいぬかいのみちよのあいだに生まれ、やはり仏教に深く帰依し、夫である聖武天皇に対して仏教をもとにした政治を推し進めさせようとした。光明皇后はまた、仏教の慈悲の精神にもとづいて施薬院や悲田院を設立したことでも知られている。今でいえば、社会福祉の事業に積極的に取り組んだのだ。

したがって、孝謙・称徳天皇もあつい仏教の信仰をもつに至った。

現代では、天皇家の信仰は神道とされ、実際天皇は宮中祭祀で神主の役割をつとめている。だが、明治になるまで、今のような宮中祭祀は存在せず、天皇や皇族の信仰も仏教が中心だった。

したがって、代々の天皇のなかには、仏教の信仰をもっただけではなく、出家し、さらには僧侶として活躍する者もいた。聖武天皇も、歴史上最初に戒名を授けられ仏弟子になったとされている。孝謙・称徳天皇も、いったん譲位した後に出家している。道鏡と性的な関係を結んでいたなら、出家は不都合である。この点でも、道鏡との関係が誹謗中傷であった可能性が高い。

道鏡を皇位につかせようとしたワケ

孝謙・称徳天皇が譲位した後には、天武天皇の皇子である舎人親王の七男が淳仁天皇として即位している。だが、孝謙・称徳天皇は上皇として一定の権力を保持していた。そして、恵美押勝と改名した藤原仲麻呂の乱が起こると、仲麻呂と関係が深かったとして、淳仁天皇は孝謙・称徳天皇によって廃帝に追い込まれ、淡路に流されている。孝謙・称徳天皇は相当の実力者だったのだ。

では、孝謙・称徳天皇はどういった政治をめざしたのか。

それは、正しい仏の教えによって統治するという宗教的な理念にもとづく政治だった。だからこそ、自らは出家し、彼女が僧侶として尊敬にあたいすると考えた道鏡を皇位につかせようとしたのである。

道鏡自署のある正倉院文書 天平宝字6年
道鏡自署のある正倉院文書 天平宝字6年(写真=正倉院/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

孝謙・称徳天皇がつくった漢詩に「仏の智慧は光のように、その感化を及ぼすあらゆる世界を照らし、仏の慈悲の恵みは雲のように、全ての生あるものを庇護されている」という意のものがあった。彼女は、仏の力を讃えていたのである。

彼女が独身を貫いたのも、仏の道に仕えようとしたからであろう。そして、皇統に属する後継者を残さなかったのも、それ以降の天皇は、彼女と同様に仏につかえ、道鏡のように仏の道に深く通じている人間でなければならないと考えたからだ。

もしも道鏡が天皇になっていたならば

孝謙・称徳天皇には、独自の天皇に対する考えが形作られていた。中国の場合、もっとも重要なのは皇帝が徳によって政治を行うことであり、その徳が失われたときには、新たな皇帝に交替しなければならないという「易姓革命」の考え方があった。孝謙・称徳天皇はこうした発想に近いものをもっていたのかもしれない。

しかし、和気清麻呂がもたらした八幡神の託宣は、孝謙・称徳天皇の構想を真っ向から否定するものだった。仏とともに神を信仰する彼女は、その託宣を素直に受け入れ、道鏡を皇位につかせることをあきらめた。彼女の前には、厚い壁が待ち受けていたのである。

しかも、すでに述べたように、彼女の存在は、あるいは道鏡との関係はスキャンダルに満ち溢れたものとして描かれるようになり、独自の王権論は顧みられなくなっていった。

もし、道鏡が天皇の位につき、その後も、皇統にかかわらず、仏教を深く信仰する天皇が続いたとしたら、日本の社会のあり方は根本的に異なるものとなっていたことだろう。その伝統が続くことは相当に難しいものだったに違いないが、武士の台頭や戦乱の世の訪れはなかったかもしれない。

女性天皇や女系天皇の問題、あるいは天皇そのものについての問題にしても、血統というところにこだわらず、もっと広い視野から検討し、その意義を改めて問い直す必要があるのではないだろうか。少なくとも男尊女卑の考え方を払拭することは不可欠なのである。

島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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